眠れない少年と王子様の話
「はっ……! あははっ! そんなわけないじゃんっ! そんな安っぽい展開はないってー!」
玲那が笑っている。会話し、楽しそうに笑っている。相手は、俺もあまり話したことのない女子生徒だ。大方、昨夜のドラマの話か何かだろう。
「オウちゃん。ちっとは眠気は覚めたかー?」
モヒカンに言われ、そちらを向く。心配そうに、モヒカンは俺の顔を見つめていた。病人を見るような目だ。やつれて、元気のない、今にも死にそうな者を、見る……
「……やべえ目つきだぜ。マジで、寝てんのか?」
やべえ目つきときたか。そこまで来てしまったか。
「眠ってる。眠っているが、眠気が抜けないんだな、これが……」
口の端を歪め、そう答えた。眠ってはいる。けど起きたときに、まったく眠った感触がない。まるでずっと起きていたとばかりに、頭が疲れている。寝る前に『モルスの初恋』を読むのが日課だが、読んでいるときはすんなりと眠りに落ちているはずなのに。はずなのになあ。
「あ、安眠できるお香とか、アタシ知ってるよ? もしクノキくんがいるなら、あげようか?」
ミツキさんが、そのような有難い申し出をしてくれる。
「いや、大丈夫だよ」
けど遠慮しておいた。他の人間からは大事そうに見えるのだろうが、俺としてはそこまでじゃない。単純に眠れていないだけだ。それ以外に影響はないように思える。
電子音のチャイムが鳴り渡り、授業が始まった。
途中、意識が抜け落ち、カンナヅキ先生に起こされ、やんわりと注意を受けてしまった。
それを繰り返し、放課後となった。
「また怒られちゃってたねー、クノキくんはぁ。そんなにねむいのかー? 眠れるお姫様ってところなのかなー?」
放課後。夕暮れ。教室内。
俺と玲那の二人っきりだった。モヒカンもミツキさんも先に帰った。クラスメイト達もみんな先に帰った。俺と彼女の二人だけが、今この場に残っている。
「それならクノキくんの王子様は誰になるかな。やってくるのかなーっ」
「男の俺に王子様はご遠慮願いたいがな」
「あははっ。そだね。王子様はやっぱり、アンタみたいなのじゃなくて私みたいに綺麗で美しいお姫様のところにやってくるべきだもの、っと」
とん、と玲那は軽やかな動作で誰かの机にお尻を乗っけると、机の上で片膝を立てて座った。スカート姿で、その上、丈も短くて、朱色の夕暮れを受ける太ももで妨げられているが、角度によってはこれは、もう見えてしまってるんじゃないか……気恥ずかしい思いをしている俺を余所に、にぃと玲那は気にした様子もなく俺に微笑みかける。
「ねえ──王子様の話、したげよっか?」
「王子様の話……?」
「そー。現実のようで空想的な、あったけれどありもしなかったお話を脚色したノンフィクションにしてフィクションの話」
「ほ、ほお……つまり、どんな話なんだ?」
「一人の王子様の話だよ」
ここで聞き返してもなんだか堂々巡りしそうな気がしたので、「そうか」と俺は頷いた。
「じゃあ、話すね。きちんと憶えていなくてもいいよ、忘れられるのがお似合いのお話だから」
笑んで、玲那は言う。けど、いつものような笑みではなかった。
寂しげな、寂莫とした笑顔だった。望郷か、郷愁か。分からないが、ただそれはもう過ぎてしまったということだけは何となくわかった。過ぎたことを、彼女は忘れずにいる。
それは、目の前の諏訪玲那という少女の根幹に関わる──そう思わせる、何かがあった。心して聞くべきだろう。眠気が凄まじくとも、そんなことよりさっさと帰って『モルスの初恋』を読みたいと思っていようとも。
「ある日あるところに、勇敢な王子様がいました」
王子は勇敢だった。
「でも勇敢だったせいで、王子様はお姫様を守ろうとして死んじゃった」
勇敢だったから死ぬ羽目になった。漠然としているが、そのお姫様とやらを、なにか……不吉な、悪いことから守ろうとして、結果、死んだ。
「──終わり」
「……。え? 終わり?」
「うん。おしまい」
もう終わった。
恐らく、文章にして二行ほどしかなかった王子様の話。
ただ死んで終わった勇敢な王子様の話。
それは。
それはとても悲しい話であるのに。なぜ、彼女は、
「えひひっ☆」
笑っているのだろうか。
少し、ぞわとくるものがあった。得体のしれない……いや、この寒気はまるで憎悪にも似た──閉めた蓋の隙間から漏れ出てくる呪詛のような──感触が彼女から醸し出されているかのような……錯覚……きっと錯覚を、覚える。
「そ、それだけじゃ、救いのない話にしかならないだろ」
「うん……これだけでももう、救いのない話でしょ」
これだけでももう? まだ、何かあるのか。
王子様がお姫様を守ろうとして死ぬ以上のことが?
「──帰ろっか」
とん、と玲那は床に降り立ち、あっという間に俺の手を握る。
「おてて繋いで、仲良くね」
俺の目を見上げ、にこりと目を細めて玲那は言う。夕暮れの日差しも相まって、くらりとくるほどキレイな表情だった。さきほどまでの得体の知れなさなど、もはや欠片も見受けられない。
その後、玲那と下校した。
家に帰るまで、ずっと手は繋がれていた。柔らかな彼女の手、にこやかに会話する彼女。少しだけ、彼女の本命であるだろう人間が、憎たらしくなった。
……ん?
王子様は死んでしまった、と玲那は言った。
もしそれが玲那の言う"本命"と同一人物だとしたら……いや、フィクションだろう、これは。ただ、もし作り話でなかったら……。
玲那の本命の彼はもう、死んでいるということになってしまう。