妹が起こしてくれた
「悪人はろくな死に方をしない」
摺りガラスの向こうは朱に染まっている。今は黄昏、一日の幕切れの一寸手前。
湯呑を両手で持ってこちらを眺める少女に向かい、私は何かを脳裏に再現させつつ話していた。いったいなにを考えているのか、私は私であるのにそれが分からない。自動的に場は進む。強制的に会話は為される。私の意思を置き去りにして進んでいく。
「ならば、だ。ろくな死に方ではなかったのなら、その方は悪人だったのかな」
「極端すぎますね。AでないならBに決まっている、というのはあまりに視野が狭すぎます。悪人でなくともろくな死に方をしないときだってあるでしょう」
「うむ、その通りだ。では、ろくな死に方ではない例として……たとえば廃墟を探検中の少年が偶然そこに転がっていたバナナの皮を踏んで転んで後頭部を強打して死んだとしようか」
「いやに具体的ですね、体験談ですか?」
「……まさか。それなら今私は生きていないことになるよ」
「きゃーこわーい」
清々しく棒の悲鳴をあげ、少女は両の手で自らの身体を抱きしめた。
「その少年の死はろくでもなかった。果たして彼は悪人だろうか?」
「その時点では、違います」
「……? その時点では、とはどういうことかね?」
「死んだ後に、少年は悪人になるんですよ。軽々しく死んだことによって、周囲の人間を悲しませて、悲劇を産み落としてしまったという罪により……」
私は息を呑んでいた。
少女の視線が、途端に鋭利なものに変わったからだ。少女の口調が、途端に責めるような冷酷さを帯び始めたからだ。まるで、別人のように、私を恨む別の誰かのように。
少女は無表情に淡々と、私に言った。
「だから、今のあなたの生は罰の過程にある」
────。
妙な夢を見た。
それはもう、妙な夢だった。
こじんまりとした事務所の中で、同い年ぐらいの見たことのない女子と二人で会話していた。もっとも驚くべきは、俺自身が俺ではなかったことだろうか。まず、外見年齢が違った。おっさんだった。やけに洒落たヒゲを生やしているおっさんだった。
「どうしたの? やるせない表情をしているわ」
俺の部屋なのに当然のようにいる陽香へ、
「ヒゲの生えたおっさんになっていた夢を見たんだ。例えるなら……昨日のダンディズムみたいな」
「あら、いいじゃないの。かっこよくて」
「……確かに。言われてみれば悪くはなかったな」
悪くないな。うん、悪くない。むしろ良い。
「ね、オーリ」
「うん?」
「夢は主観的なものなのよ。夢を見ている当人の記憶にしか基づかない。当人が認識したことのない事実は夢の中には再現されないの。でも、知っていることがいつだって完璧に再現されるわけじゃない。知っているのに忘れている事実が欠片になって、断片だけが誰かを介してあなたに伝えられる場合だってあるんだわ。あなた自身が、あなたにそれを伝えようとしているから」
「? あ、ああ……」
彼女はいきなり何を言い始めている?
「あなたはきっと、シノシノシを認識していないのね」
……は?
────。
無人の街。誰もいない街。
ゴーストタウンだった。数万は越えていたであろう人間が、まるっと一時に何処かへ引っ越してしまったかのようにガランとしており、静けさが不気味の域に達している。
そんな街の商店街の入り口に、俺は立っていた。
『ようこそ未明ヶ丘商店街』という看板がアーチ状にデカデカと掲げられていた。
ヂ、というノイズ音。
空間が切り替わる。未明ヶ丘商店街と掲げられていた看板の文字の変貌。デカデカと赤々と地文字のように、恨み憎しみ込められた文字へと。
がねがった
いつ せい
あ だ
あいつ……がねがった……が、願った? せい、だ。
『あいつがねがったせいだ』
あいつが願ったせいだ。
…………………………。
俺はなにも分からない。
此処には何もない。
何もない。
何も。
何。
イ。
。
────。
チュンチュンと、雀のなく声が聞こえる。依然として暗闇に包まれる視界は、瞼を閉じているその為のものだろう。「……きて! 起きてってば!」たぶん、今は朝。……まさか、今のも夢だったのか? 三つ重ねの夢、三つ重ねの起床……「もうっ! カーテン開けるからね!」シャッ、という音を聞き、カーテンが開かれたのだと理解した。俺以外の誰かが、俺の部屋のカーテンを開けたのである。おおかた、陽香だろう。むしろ彼女じゃなかったら誰だ、という話になり俺は非常に怖い思いをする羽目になる。だから陽香。カーテンを開けたのは陽香。陽香ってこんな甲高い声だったかな。「おーきーなーさーいー!」暗闇に、ほのかな赤色が混じる。太陽光が、瞼に流れる血液を俺の閉じられた眼球に無理やりに見せている。
「起きてってば! 起きないとひどいことになるよ!」
起きろ、起きろ、とさっきから急かすのは誰だろう。陽香であってほしい。いつもより甲高い声の陽香であってほしい。ああ、目を閉じていてすら太陽が眩しい。開ければもっと、眩いのだ。
「もー!」
ずしんと、腹の上に何かが乗った。反射的に出た「うぐえ」と共に、俺の両目が開かれる。霞んだ視界に映ったのは、少女。肩ほどまでの髪に、快活そうな瞳。大股開きではしたなく俺の腹部にまたがる彼女は、不満げに眉をひそめて見下ろしている。
「お兄ちゃんったら!」
お兄ちゃんと俺を呼ぶのだから、きっとこの子は妹で、この子が妹ならば俺はこの子の兄になる。だからこの子は俺をお兄ちゃんと呼ぶ。妹だから、兄と呼ぶ。なにもおかしくない。
「もー! いつまで寝ぼけてるのー!?」
痺れを切らした妹は、俺の頬をぺちんぺちんと優しくたたき始めた。そんなに早く起きてほしいのか。ほしいのだろうな。だから、実力行使に出たのだ。
「おはよう……」
言えば妹は嬉しそうに、「うん、おはようっ」と快活に返してくる。
「どいてくれないか」
いつまでも乗っかられていては、身を起こすに起こせない。「うん」と素直に妹は俺の身体から降りる。俺に妹はいない。
「もう、ご飯できてるからね」
そう言い残して、俺をお兄ちゃんと呼ぶ他人は部屋から出て行った。ドアの閉じられる音が部屋に響く。
「ははは、せわしないヤツだな……」
ちゅんちゅんと、外ではやはりスズメが鳴いている。窓から差し込む太陽の光が、宙に舞う埃を認識に至らせている。
(……誰、だ)
どっと汗が出てくる。
朝起きたら妹らしき他人にマウントを取られていた。
気を紛らわせるために、窓からの景色に目をやる。
道路側の窓から見えるのは、いつも通りの道路である。人の姿はない。
隣家側の窓から見えるのは、こちらの窓へと今にも飛び移ろうとしているいつも通りの陽香の姿があった。窓の鍵はいつも通り開けている。
「二度寝したのー?」
そんな声と共に、妹(他人)がドアをほんの少し開いてその隙間から俺を覗き込む。悲鳴を上げそうになったが、どうにか耐えた。
「お、起きてるよ。起きてる」
むーと不満げに一唸りし、ドアは閉じられた。
助かった、と思う。あの妹(偽)の瞳は無垢だが、そうであるがゆえに恐ろしい。俺の妹であることになんら疑いを抱いていない瞳だ。あの子は本当に、俺のことを兄だと思っている。俺に妹なんていないのに。
おれにいもうとなんていないのに。
「はは……」
笑みがこぼれる。楽しいからじゃない。どうしようと悩んだ末に脳が自動的に選んだのが笑顔だった。いわゆる苦笑だ。
少なくとも、あの子は俺に害意はなさそうに見える。取って喰おうだとか、ニュースに名前を登場させてやろうとかいう気持ちはない、と思いたい。
「今日はわたしのとっておきなのにぃ……あんまりほったらかしたら冷めるのにぃ……冷めたら美味しくないのにぃぃぃ……」
またもやドアが少しだけ開かれて、恨み言を唱える偽妹の眼だけが隙間にギラギラと輝いている。「きっと、今日のは美味しいのに……」と拗ねたように言い、彼女はドアを閉めた。
「おっはよー、オーリ!」
ガラッ、と窓を開け、陽香が部屋へとやってきた。靴はきちんと脱いでおり、靴下姿だ。
「……陽香」
「なに? そんなにキョトンとしちゃって。私に見惚れた?」
「お前のいつも通りさを見て、少しホッとした」
「ふーん? どういうことかさっぱりだけど、オーリがホッとしたのなら私も嬉しいかなー。感謝しなさいよー?」
ふふん、と陽香は自慢げに微笑んだ。
窓の桟に腰かけている彼女を見、俺は今しがたの発言に違わず自分がホッとしていることを実感した。妹、という非日常を、陽香という日常が上塗りしてくれたのだ。
「ところで、義妹ちゃんは下に降りたの? 朝、いつもみたいにオーリを起こしてたみたいだし。オーリの寝顔を朝一番に見れるなんて、羨ましいことこの上ないわ。代わってくれないものかしら」
ふふー、と冗談めかし、陽香は言う。
いつもみたいに、と彼女は言う。俺が今日初めて見たはずのあの偽妹の行為を、いつもみたいにと彼女は認識している。
「……知ってるのか」
「知ってるって。長い付き合いじゃないの。もう何年になるかしら……十年、越えてるかも」
「そうか……」
……どういうことだ。