勝手に入った
いない。事務所の中は誰もいない。
ノックをすれども出てこない。居留守か、はたまた無人か。
「やっぱり、いないのよ」
腕組みをした陽香が、つまらなそうに結論した。
すりガラスの向こう側はよく分からないが、人の気配がないようにも思う。
「そうかもしれないな。鍵も、かかって……」
ドアノブを回し、施錠されていることを確かめる為に回した。
回り切った。
「……」
「……桜利くん。今、やけにドアノブが回ったように見えたけど」
すぐ傍まで近寄ってきていた夕陽が、ぼそっと言う。
「鍵、かかってない」
それだけを答える。
この扉は現在、鍵がかかっていない。
つまりは、開く。
「道徳のテストのお時間ね」
陽香が言う。
設問は目の前にある。
開けるか、開けないか──零点か、百点かだ。
「開けて入れば不法侵入になるな」
部屋の主の許可なしの入室。立派な犯罪行為だ。まだ子どもだからと許されることじゃない。
「や、やめとこーぜ? そういうのはいけねえっていうか……やべえよ、ぜってえ」
レモンは及び腰だ。
「バレなきゃいいんじゃない?」
陽香は楽し気に口端を吊り上げる。
「誰かがいたら、とても言い逃れできないわ」
夕陽は淡々と最悪の可能性を挙げる。
「……入ってみようぜ」
近泉は不安そうな瞳だが、視線は扉の奥へ向かっている。
二対二だ。意見は均衡している。最後の一人の意見如何で、これからの俺たちの行動は変わる。その最後の一人は当然、消去法を考えるまでもなく、
「久之木は、どう思う?」
俺だ。
「見つかって咎められちゃっても、私たちまだ高校生なんだしぃ? ほら、若ハゲの祟りって云うでしょ。……ん? んー? わか……若ハゲ……? なんか違う気もする。こんな言葉だったっけ……」
「……もしかして、若気の至り?」
「あぁっ! そーそーそれ! ユーヒったら頭いーっ。そのワカゲノイタリというわけで、私たちは大目に見てもらえるんじゃない?」
陽香と夕陽。夕陽は反対で、陽香は賛成。
「け、けどよお、勝手に入ったことが先生にバレたら、きっとものすっげえ怒られちまうぜ」
「モヒカンのくせになに弱気なこと言ってんだよ」
「も、モヒカンはかんけーねえだろっ。モヒカンだって時には怖がるんだよ」
レモンと近泉。反対、賛成。
「久之木はどっちだ?」
近泉の言葉で、四人の視線が俺に集う。
これは……参った。最終的な決定権が俺に回ってきてしまった。
どうしようか。どうするべきか。入るべきか。入らずに日を改めるべきか。
二択だ。二つの選択肢が目の前に提示される。三択目……はない、はず。入るか帰るか、それ以外にはないだろう、この場合においては。
入らない理由はある。そもそもそれがいけないことだからだ。法律的に、道徳的に、倫理的に、許されざる犯罪行為だ。人の道に反する愚行だ。
ならば入る理由は? なぜ入るのか。証拠があるかもしれないからだ。殺人についての、なにか証拠が……
「入ろう」
そして、俺は零点の選択肢を選んだ。
「マジかよオーちゃん」「桜利くん……」「さっすがオーリ、良い判断だわ」「男らしいところ見せるじゃないの」
四人の反応に、苦々しい笑みを浮かべるしかなかった。
だが、吐いた言葉は戻せない。俺は握ったままのドアノブを回し、外開きの扉を開き切り、先陣を切ってヂ務所内に足を踏み入れ────「っ……!?」暗い赤。飛び散って。ちま みヂヂ れ。
「く、久之木。なに扉明けたまま硬直してんだよ。よく見えないって」
近泉がすぐ背後で言う。
奥にある大きな机。壁際のガラス戸の棚。中に何が入っているのか、光が反射してよく見えない。部屋の真ん中にある黒檀のテーブル。テーブルを囲むように革張りの黒いソファー。戸棚の反対側には間仕切りが並んでいる。
人の姿はなく、室内は整然としていた。
何処にも、血の痕跡はなかった。ノイズとノイズの間に挟まれたあの血濡れの室内は、俺の見た幻覚だったわけだ。慣れたものだ。慣れたものだ。
「誰もいない」
背中から安心したような吐息が聞こえた。
俺は室内に身体を入り込ませ、小さな靴箱の前、玄関マットの端へとずれた。他の四人も続々と部屋に入って来る。
「はー……いかにも探偵の事務所ってところねー」
そう陽香が感心している横で、
「特に、何も無さそうね」
夕陽が室内を見渡し、ぽつりと言う。
「こりゃシロだわな。なんもねー」
レモンが言う傍ら、近泉が一人、靴を脱いでいた。
「お、おい近泉、なに靴脱いでんだよ」
「あの間仕切りの奥、なにかないか見てみるんだよ」
そして彼女は一人、ずんずんと間仕切りの奥へと歩いて行った。そして、「こっちはキッチンみたいだぜ」との声。「普通にコンロと、流し台と、あとなんかでっけー冷蔵庫がある。業務用ってのかな」
「君たちはそこで、なにをしているのかな」
ふと聞こえた言葉。近泉ではなく、俺でもない。夕陽でなければ、陽香でもレモンでもない。大人の男の。バリトン。
恐る恐る振り返ると、扉の外、入り口のところに、ステロタイプの髭を生やしたスーツ姿の偉丈夫が、やれやれと苦笑の様相で佇んでいた。