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稲達ヒューマンリサーチ(株)

 パソコンのディスプレイを眺めている稲達に、来客用兼自分用のソファーに座ってくつろいでいる芙月。それ以外には誰もいない。ある日、いつも通りの事務所内での、夕暮れ刻の光景だった。


「やっぱり私、探偵になります」


 朱色の空気が、退廃的な感触を引き連れて窓から差し込んでいる中、それまでの会話などなく唐突に芙月が切り出した。


「なぜだね」

「話題性と、あと、殺伐とした事件現場に女子高生が来たら嬉しくなりませんか?」

「危険だから早くお帰り、となるかな。モノによっては、トラウマになるようなものが転がっている可能性もある」

「でもでも、若い頭脳の突発的な閃きによって瞬く間に難解事件が解決するかもしれません」

「否定はしないが……やはり経験と知識を積み重ねた者に任せる方がより安全で、安定する」

「ああ言えばこう言ったりして! もう、所長の常識人!」


 ぷんぷんと芙月が怒った。稲達は苦笑した。


「実際、探偵ってできないものですかね。華のjk探偵──飛ぶヘリを落とす勢いでいきます! ってな感じで。どんな難問難事件だろうと、私の灰色の脳細胞が一発で解決まで導いてやりましょうぞ!」


 意気込んで宣言している芙月を、この子はテロリストみたいなことを言うなあ、と稲達は微笑ましい気分で眺めていた。


「ハハハッ。その意気や良し、ではあるがね」


 すると。


 コン、コン、コン、コン。


 四度のノック。

 アルミサッシの扉が、外側から叩かれている。


「お客さんでしょうか──」


 言葉の終わりには、芙月は既に言葉を失っていた。絶句したのである。

 ならばなぜ、絶句したのか。それは彼女の視線の先、たった今ノックをされた扉のすりガラスの向こう側に現在もある()()のせいである。


「出てはならないよ。理くん」


 静かに、落ち着いた一言で、稲達が言う。


「あ、あれって……」


 扉を指す人差し指が震えているのを芙月は我がことながら他人事のように発見した。それほどに注意は目の前の扉の、奥にいるであろう存在に向いている。

 先ほどまでの和やかな気分は一瞬で霧散し、今は底冷えのする寒気が身体全体を薄膜のように覆う。逃れようのない、行き場のない恐怖が全身に鳥肌を起こす。

 黒い、すりガラス越しで輪郭がぼやけているとはいえ、あまりにも()()()()人影が、磨りガラスの向こうからこの事務所を覗き込んでいる。


「しょ、所長……」


 硬直する表情のまま懇願するように言う芙月へ、稲達は今一度、「出てはならない」と言う。その表情は険しく、いつものような穏やかさは皆無だった。

 平生ではないが、稲達は芙月ほど困惑し、恐怖してはいない。少なくとも芙月の目から見る稲達は、さしたる恐ろしさを抱いていないように見えた。


 アレがなんであるのか、稲達は知っているのだろうか。

 芙月はふと、そんなことを考える。知っているのなら、自分ほど驚かないのも頷ける。


「……待っていれば、去っていく」

「ほ、ほんとですよね、その言葉、信じていいんですよねっ……?」

「そうあってくれれば、という私の希望的観測も若干混じっていることは否めない」

「それってあんまり自信ないってことですよね!?」


 稲達の弱気発言に、芙月は思わず振り返って大声をあげた。けれど叫んだことで恐怖もいくらか抜け出たのか、寒気が少しく薄らいだ風にも感じた。

 

「まあ、待ってみることだよ」


 能天気にそんなことを言うヒゲに、芙月は「まったく」と息を吐く。頼りになるのかならないのかよく分からない人だこと、という心境である。けれど、今の稲達とのやり取りで、恐怖が治まったのも確かだ。あの影にしても、冷静になればそこまで怖いものでもないのかもしれない。そう、芙月は強気になり、再び扉の方を見、


「……ひぃ」


 すぐにまた怖くなった。そこまで怖いものではないことはなかった。すごく怖かった。まだいるし。怖いし。なんなのあれ。なにあれ──そんな諸々の疑問を、芙月は視線として稲達にぶつける。


「……」


 稲達はもう無言で、何も言わず、ただじっと扉の向こうの影を凝視していた。

 その視線は真剣で、厳然として……なのになぜか、芙月の目には、どうしてか、そんな稲達の表情が、つらそうにも見えた。


 コン、コン、コン、コン。


 ノックの音。それは、人間の()()をしている。


 コン、コン、コン、コン。

 三度目の。


 ガチャ。

 焦れたのか、ドアノブが回される音。


 鍵は、──閉めていない。

 キイイ……、という音をたて、ゆっくりと扉が外側へと開かれゆく。


「しょちょぉ……」


 芙月はもう稲達のすぐ傍で縮こまっていた。普段の態度の大きさなど何処へやら、影への恐怖に打ちのめされてしまっていた。緩やかに開かれる扉の間から芙月の眼に見えたのは──「ひょぁぁ……!!」


 真っ黒な、人型。


「っ……!」


 距離が近かったものだから、芙月の耳に稲達が空気を呑み込む音と微かな呻きが聞こえた。それが稲達から生じた動揺であることは瞭然だった。稲達は、扉の向こうの真っ暗な影(少なくとも芙月にはそう見えている)を見、初めて動揺を見せたのだ。

 玄関の向こうでこちらを見る影を、芙月は涙目で見ていた。早くどこか行ってと思いながら見ていた。一秒、十秒、一分……どれだけの時間が経ったかは分からない。黒い影は消えていない。だが、動いてもいない。ただ最初と同じ場所に佇んでいるだけだ。

 

「しょちょ……」

「心配は要らない。待っていれば、()()は消える」

「消えるなら早くそうしてくださいよぉ……」


 やがて、稲達の言葉通りに影は消え去った。

 すう、と。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように。


 後には、ヒゲと芙月と、開かれたドアと、入相の空から零れ落ちてきた朱い空間だけが残った。

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