稲達ヒューマンリサーチ(株)
穏やかなティータイムは、やがて終わりの時となった。
「今日はどうもありがとう。美味しいお菓子でした」
にこやかに礼を述べる椎尾老婦人に、玲那はふんすと気合の入った表情で「いつでも作りますから!」と言う。
「それに懐かしい気分になったわ。私の娘も、お菓子作りが好きだったのよ」
その言葉を聞き、稲達の表情が一瞬だけ曇る。それに気づいたのは芙月だけだった。
「そうなんですかっ」
「ええ、ええ。そうなの。娘が言うにはね、お菓子が好きな男の人って、意外と多いんだって。だから好きな男の人の心をキャッチしたくて、お菓子作りをし始めたらしいのよ。動機が動機だから長続きするのか心配だったけど、あの子は意外と頑張っていたわ……ええ、頑張っていたの……とても、頑張っていたのよ…………」
言葉の最後には息が詰まったようなかすれ声となり、椎尾老婦人が口をつぐむ。やるせない沈黙に覆われた場の中で、
「最後の一個、私が頂いてもよろしいでしょうか」
不自然と思うほど唐突に問うや否や、稲達がテーブルの上に残る最後のマフィンに手を伸ばす。
「ええ、どうぞ。稲達さんもお菓子が好きな殿方ですものね」
柔和な笑みで、椎尾老婦人が言う。
「はははっ。まあ、甘味は脳の疲労回復に良いといいますので」
鷹揚に笑い、稲達はマフィンに歯を立て、「やはり美味いな」とあっという間に食べ切った。玲那は嬉しそうにそれを眺めている。お菓子作りに挑戦してみようかな、と芙月は思った。
「それでは。稲達さんに、可愛らしいお嬢さん方、またね」
稲達が頭を下げ、芙月と玲那に見送られ、椎尾老婦人は帰宅した。
「……改めまして、空気を読まない訪問、すみません」
律儀にも、玲那が稲達と芙月に向かって頭を下げる。稲達は「気にすることじゃないよ」と笑い、芙月は「そ、そうだよっ」と慌てながら手を振る。
「ですが……」
「可愛らしいお嬢さんの訪問に加え、美味しいお菓子にもありつけた。それなのになにを謝る必要があるのかね」
稲達としてはフォローのつもりの冗談だった。
「か、かわ……」
だが、少々相手が悪いところもまたあった。「っ!」玲那は口を紡ぎ、稲達と芙月に顔を見られたくないとばかりに身体ごと向きを反転させる。このキザヒゲ、と芙月は思った。「このキザヒゲっ」口にも出した。
「キザヒゲとは。また新しい呼び名を……」
稲達が苦笑する。
ややあって玲那は振り返り、微かに紅みの残る頬で、「で、でも、あのお婆ちゃんはいったいどちら様だったんですか」と質問する。「ああ、椎尾さんか」と稲達は語り始める。
「私も昔、少しだけ面識はあったのだがな。もともとは夕陽ヶ丘警察署に所属する警察の方だった。もう退職されてはいるが……私の友人も警察組織に属していて、夕陽ヶ丘署に勤めていてね、そいつを通じて再び知り合ったというわけさ」
「ご友人の方が……」
うむ、と稲達は頷く。朗らかなその表情から、友人との仲の良さが玲那には伝わってきた。
「あの丸刈り坊主の警部補さんですね。妙なものを集めているっていう」
「妙なもの?」
「太陽の精、だよ。知ってる?」
芙月の言葉に、玲那はあー、と合点がいった。太陽の精。確かに知っている。妙なもの、という芙月の評にも共感できる。確かにあれは妙なものだ。銃を構えた暑そうな表情の男のデフォルメ人形。玲那自身もそのグッズを持ってはいるが、好きではない。かといって嫌いではない。どうでもいい、という評価が一番当てはまるだろう。あったから使う。なかったら、かといって買い求めるまでではない。それぐらいの評価である。
「なにかがあいつの琴線に触れたのだろうね。昔は私もさっぱり分からなかったが……」
「今は、分かるんですか?」
玲那が訊ねる。
「若干、だがな。太陽の精は、ある海外小説をモチーフにしている。無許可でね」
「夕陽ヶ丘市パねえですよね……訴えられたら負けますよ、得た利益持ってかれますよ……」
芙月の戦慄に、稲達が笑う。
「私も、その小説を読む機会を得た。読んでみて、なるほど、この場面があの人形なのかと理解したわけだ」
「どんな場面……だったんですか」
「人を殺す直前だよ。構えた銃口は、直後に死体となる男に向けられている」
「ひ、人をっ……」
玲那が怯えたような表情を浮かべる。
「ま、そんな人形を、あいつは集めてるわけだ。私の知る限りでは、他にもコレクターがいるがな。意外と人気があるのかもしれない」
「理解できません」
「私も。理解できないです」
「ねー」と玲那と芙月が顔を見合わせ息を通じ合う。
「それで、椎尾さんと会ったわけなんですね。娘さん繋がりとかなんですか?」
玲那の言葉に、稲達は悲しそうに眉を下げ、沈黙し、数瞬ののち、静かに口を開いた。
「椎尾さんは、娘さんを亡くしている」
「そんなっ……」
稲達の言葉を、芙月は知っていたのだろう。驚いた声をあげたのは玲那だけだった。
「そのとき娘さんは高校二年生だった。生きていれば私の一つ上の年齢になる」
「そうだったん、ですか……」
玲那の表情は神妙だった。
「椎尾さんも、そう言ってましたものね。『生きていれば稲達さんの一個上になるのよ』って」
生きていれば。
その言葉がどれほど無意味な響きを伴うのか、苦々しげに口の端を歪める稲達は知っている。
「死んだ子の歳を数えるなとは云うが……仕方のないことだと、私は思うがね。生きていてほしい人間は、生きていてほしかったものなのだよ。その死に理解はできたとしても、到底納得のしようがない死に方だって、多々あるのだろうから」
稲達の言葉は、椎尾老婦人の娘の死が到底納得のできないものであったことを暗に語っている。察したのかどうか、玲那は詳細については訊ねようとしなかった。他者の逆縁に関して深入りを避けたのだ。
「親しい者の死に対して、当人がどのような折り合いをつけようとも……それは当事者でない我々が口を出すべきことではないだろう。結果はどうあれ、その方たちは乗り越えようとしたのだから。大切で大切で仕方のなかった者の、どうやったって乗り越えようがないと思えるほどの悲しみをね」
稲達は言う。
「乗り越えられなかったら……」
ぽつりと、玲那が口を開く。
「乗り越えられなかったら、どうすればいいんですか」
真っ直ぐに。
玲那は稲達を直視する。
真剣極まりない視線を、稲達は真っ向から受けた。背けてはならない視線だと考えたからだ。この子の問いは、視線は、決して、背けてはならない。そう、直感したからだ。
玲那の問いに、もっとも相応しい答えは如何なるものか。
考えども、稲達の頭には良い案が巡って来なかった。
「残酷なことを言うが、更新されなくなった思い出は風化する。時間が過ぎるのを待つほかないのだろう。思い出がすべて削れてしまえば、それは乗り越えたと言い換えられる」
他の言葉が浮かばなかったが故の、死を克服するまでの流れを述べただけである。真実そうなのであろうが、その言葉では誰も救えないのだと稲達は自覚している。
「本当に、残酷なことを言うんですね。乗り越えられないのなら、いっそのこと忘れてしまえって言うんですか」
玲那の言葉に、感情が混じり始める。怒りが伴い始める。
「忘れるという言葉は、私が世界で一番大嫌いな言葉です」
そう吐き捨てる玲那の目尻には、すでに涙が溜まっていた。気休めの言葉にしかならないと稲達は分かってはいたが、けれどそこまでの激情を煽ることになるとは露程も思っていなかった。
「それは……すまなかったね」
稲達は謝罪する。芙月は二人のやり取りに何も口をはさめずにおろおろとしていた。
「……い、いえ。いいんです。すみません。私が勝手に怒っちゃっただけですから」
指で目元を拭い、玲那は「あはは」と無理に笑った。
「すみません。長くお邪魔してしまいました」
そう言うと、そそくさと帰り支度を始め、あっという間に出入口のドアノブを握るまでとなった。
「諏訪くん」
玲那の背中に、稲達が呼びかける。「なんですか」と玲那が作り笑いであることが瞭然の顔で振り返る。
「また、お菓子を頂いてもいいだろうか」
稲達が言う。
玲那は少しの間表情が止まり、にこりと笑みを浮かべ、
「喜んで、ですっ」
「それはよかった。きみのお菓子は美味く、何度だって頂ける」
安堵の笑みを浮かべる稲達へ、「でーもっ」と玲那は人差し指を立てた。
「条件が一つ、あります」
「条件とは……」
「──玲那って、呼んでください。これからずっとってわけじゃありません。この瞬間の、一度だけでいいですから」
稲達は一瞬、悩む。
名で呼んでいいものかを悩み、まだ幼い子どもの頼みだ、と了承することにした。
「承知した──玲那」
名で呼ばれ、玲那は虚を突かれたように再び表情を停止させ、ややあって「はいっ」とだけ。その後は「それではまた。美味しいお菓子をご期待をー」と扉を開け、出て行った。
「……所長」
玲那が去って無言に包まれた事務所内で、おもむろに芙月が口を開く。
「ふ、芙月って呼んでも、私はとくに構いませんがっ……」
そんなことを言う。
「それはちょっとなぁ」
と稲達はこともなげに却下した。
「なんでですか!」
ムキった姪を見、稲達は「すまないね」と笑った。