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『モルスの初恋』

     23


 途絶えていた意識が戻ってきた。

 見慣れた自分自身の部屋の、少し年月を経た天井。ああ自分の部屋なのか、と桜花は微睡む頭で考えた。まだ少し部屋の中は薄暗い。

「あ……おはよ。オーちゃん」

 充分に陽の差し込まない薄暗い部屋の中で、椅子に穂乃果が微笑みながら座っていた。桜花は多少驚いたが、表情には出さず、「おはよう」それだけを言う。

「よく、眠れた?」

「眠れたよ。夢すら見なかった」

「そっか。よかった……こっちの窓、開けてもいい?」

 穂乃果の言葉に、桜花は「うん」と頷く。「ありがと」と言うと穂乃果は窓に手を伸ばし、クレセント錠を下ろす。そのまま窓枠に指をかけると、ガラス窓を真横に滑らせた。網戸はそのままだ。

 桜花もまた、上半身を起き上がらせ、自らの近くにある窓を開けた。風の通り道ができあがり、朝に冷やされた風が部屋の中を通り過ぎてゆく。脳に滞る眠気を、風がいっしょに連れ去ってゆく。

「はあ、良い天気ー」

 ぐ、と一伸びすると、穂乃果は「オーちゃんもそう思わない?」と桜花へ微笑みかける。笑みで返事をする桜花へ、穂乃果は続ける。

「少し、肌寒いけど……朝の新鮮な空気って好きなの。新しい一日がやってきたって、実感するから」

 穂乃果は窓の外を見ている。そこから見えるは、いつもと変わり映えのない風景。するとくるりと、桜花の方を向き、にこりと笑い、

「ね、ね。オーちゃんはさ、一日のうちで、一番好きな時間帯っていつ?」

 そう訊ねた。

「一番好きな……」

 急な問いかけに、桜花はしばし考えをめぐらす。基本的に真面目な桜花は、穂乃果の突拍子の無い問いにも、真剣に頭を働かせる。そこに嘘は混ざらない。


「夕暮れ、だな」


 だからこの答えも、桜花の本心となる。

「夕暮れかぁ」

「穂乃果は、いつ?」

「わたしぃ? 私はね……やっぱり朝かな。夜明けのあと、陽が昇り始めるころ。暗い夜は終わって、ようやく明るさが戻ってきた時間帯。一日は振り出しに戻ったみたいに、新鮮さを漂わせている。うん、やっぱり好き。希望の朝だって、ラジオ体操の中の人も言ってるし」

 道戸穂乃果は朝を好む。すべてが振り出しに戻ったという錯覚を、好んでいる。換言すれば彼女はありもしない幻想を望んでいるに過ぎない。振り出しに戻された時間。逆しまに流れる時間などあり得ない。時間は常に一方向だ。起こったことはだから全てが取り返しのつかない。希望の朝とて、それは幻だ。夢見る少女は、いったいいつ現実を認識してくれるのだろう。

「オーちゃんはどうして夕暮れが好きなの?」

 穂乃果の問いに、桜花は「そうだな……」と少し頭を巡らせる。すぐに答えるべき言葉を見つけたのか、口を開いた。

「夕陽が綺麗だからだよ」

 夕陽が綺麗だ、と桜花は言う。

「オーちゃんって、意外にロマンチスト……?」

 穂乃果が訝しむ。「かもな」と桜花は笑った。

「穂乃果は嫌いか? 夕暮れ」

「嫌いというほどじゃないけど……あの空いっぱいに満ちている寂しさみたいなのは、少し苦手かな。寂しいって感情自体、あんまり好きじゃないし、寂しい気分にはできるだけなりたくない」

 穂乃果は夕陽の寂しさを苦手とする。

「お前、意外に寂しがりやなんだな」

 そんな桜花の言葉は、「何を言ってるのよ」と夕陽が反発してくるのを意図してのことだ。


「そうだよ。私は、寂しがりなんだよ」


 だが少し、予想とは違う返事となり、桜花は戸惑う。口にした当人の穂乃果の表情はいたって真剣で、その顔には冗談ととれる要素が一欠けらもない。

 桜花は何か言おうとするが、何も言葉が出てこない。そのため二人はしばし無言で見つめ合うことになった。やがて口を開いたのは、穂乃果の方だった。

「重いとか思われたくないから、もうなにも言わないことにする」 

 そう言うと、桜花の言葉を遮るように椅子から立ち上がってずんずんとベッドに近寄って、「そろそろ起き上がろうよ、オーちゃん」と半身を起こした桜花の残り半分にかかっているなけなしの掛け布団を、情け容赦なくはぎ取った。

「鬼畜……」

「鬼畜じゃないわ」

 桜花が小さく零したつぶやきをしっかりと否定し、すとんとベッドに腰かける。朝早くなのに身だしなみはしっかりと整えているのか、シャンプーのような、香水のような甘い香りが桜花の鼻腔に届いた。

「暇なんでしょ? 今日はいっしょにいようよ。三連休の最終日なんだし」

「まあなぁ。特にすることもないが……」

「なら決まり。いっしょにいましょ。今日一日のオーちゃんの予定は私がたった今貰いましたっ。異論は聞きません」 

 ふふー、と穂乃果が笑う。まあいいか、と桜花も笑った。

 すると穂乃果は突如、体勢を自ら崩し、桜花のほうへとしなだれかかる。ぴとりと桜花の胸に頭をくっつけ、小さくぽつりと、


「明日、学校あるのかな」


 言葉を零した。

 その言葉に込められた意味を桜花は知っている。

 二人はそれまで目を逸らし続けていた。

 昨日以前に起こった死と殺人から目を逸らし、平穏な休日の朝を演じていた。けれど結局のところは仮初を演じていただけ。すぐに現実が戻って来る。

 残念な事実だが、朝になろうとなにも振り出しには戻らない。

「さあな。休みかもしれない」

「私、怖いよ……」

「ああ……怖いな」

 霊園内で倒れて病院で目覚めたのち、桜花はすぐに退院の運びとなった。身体にはとくに何の以上もなく、死体を見てしまったことによる精神性のショックであろうとのこと。カウンセリングだけは、しっかりと受けさせられ、見舞いを兼ねてやってきた警察からはいくつかの質問をされ、そこで終わりとなった。

 テレビの向こう側では今、『未明ヶ丘女子高生連続猟奇殺人事件』という言葉が、使われ始めている。

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