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彼女に触れた

 陽香がお風呂に入りに行き、リビングには今、俺と夕陽と舞の三人。


「私、ねむい……ゆえに、ねむる……」


 うとうとと船をこぎ始めた舞がそんなことを言い、二階へと上って行った。一人が減って、今は俺と夕陽の二人。


「……」

「……私も、少し眠いかも」


 ふああ、と夕陽は小さく欠伸をした。「でも、もう少しここにいる」と夕陽は言うと、そのまままたテレビ画面に視線をやった。


 その後、しばらくは無言で、俺たちはテレビを見ていた。


 画面の向こうの人々は相変わらず楽しげに、幸せに、笑っている。彼らの創り出す表層的な極楽を、俺たちは物言わずに眺めている。笑うような気分じゃない。けれど、楽しそうに笑う人々を見ている。無言で、無表情で。

 ちらと夕陽に視線をやると、彼女もまた表情が抜け落ちていた。人形のように精巧な顔で、冷然とすらとれる目つきでテレビを見ていた。ただ眠いだけなのかもしれないが。


「夕陽」

「なぁに?」


 肩越しに振り返った夕陽と視線が合う。


「ひとつ、尋ねたいことがある」

「いいよ。答えられる範囲なら、答える」


 切れ長でありつつもぱちりとしている彼女の瞳が、柔らかに細められる。


「なら、遠慮なく……」


 今、聞いてしまうか……聞いてしまおう。

 二の足を踏んでいても、俺はただ迷い続けるだけとなる。この質問を訊ねることが、ノイズと共に黒い影の姿となる一乃下夕陽という少女に対する、俺なりの誠意だ。

 俺の認識は正しく、そして間違っているということの確認でもある。


「君は……いや……」


 言い淀む。躊躇が生じる。

 だが、──けれど。


「桜利くん?」

「夕陽、お前は──」 


 悩むな。口を止めるな。聞いてしまえ。


「人間か?」


 人間であるかどうか。

 一般論で言えば、黒い影に姿を変える人間なんてものは存在しない。人には常に色がついており、奥行きがある。けれど現実が常に一般論の範疇で構築されているわけでもない……経験に基づいた、俺の一私見だ。


「……」ヂ。


 ある意味で予想通りのノイズ音。

 黒い影。先ほどまで少女の姿をとっていたものの中身──であろう外見。俺の問いに、現象でもって答えるが如くの変貌。

 そして彼女は、言う。


「ううん。違うよ。見ての通りだよ」


 自らが人間ではないと、云う。


「本当にそうなのか」


 更に問う。


「うん。本当。真っ黒で平面な姿の人間がいるわけないでしょう? 人ってもっと肉感的で、薄っぺらい黒色なんてしてなくて、髪だって黒だったり茶だったり金色で、身体には凹凸があって、柔らかくて、血が通っていて温かい──私にはその全部が当てはまらない」


 影は答える。自らが人間に非ずと断定する。


「真っ黒で平面な姿の人間だって、世界のどこかにいるかもしれないだろ」

「本気でその言葉を口にしているのなら、可哀そうに、狂ってしまったのね、きみ」

「狂ってはいない。俺は正しい」

「どうしてそう言い切れるの?」

「お前がそう信じてくれたから俺だって信じられる」

「あんな気休めを真に受けてくれるなんて、嬉しい」

「……」


 動くとするなら──今、だ。

 立ち上がり、すぐ目の前でシルエットとなる夕陽に近づく。座る少女の姿を採っている平面の黒い影に近づく。ぺらぺらで、横から見たら黒線一本で済まされてしまいそうな彼女に近づく。


「なに? どうしたの?」


 影が言う。

 答えず俺は、手を伸ばす。彼女の顔の辺りへと。


 普段の夕陽ではなく、今の夕陽に触れるならば。

 少女としての外見を持つ夕陽ではなく、今の黒い影である彼女に触れられるならば──そのとき俺は、死ぬのだろうか。いいや……


「触るの? 触れるの?」


 影の声が幾分か高くなった。愉快そうな響きを伴い始めた。それはまるで、これからしようとしている俺の行為を愚かであると笑うかのよう。

 

「死んじゃうかもしれないのにぃ?」


 待ちくたびれた死が目の前にいるならば。

 触れたその時、俺は死ぬ。

 俺の手は、影の頬の部分に触れようとし、寸前で止まっている。


「死なない」


 俺は自分の認識の間違いが正しいものであると信じる。

 一乃下夕陽は、俺の正しさを信じると言った。言ってくれた。なら、俺とて信じるべきだろう。目の前の、この少女が……この決断に謬はない。


「怯えてるよ? きみ、死ぬことに怯えてる。止めたら? まだ間に合うよ?」

「うるさい」


 影の言葉を一蹴し。

 彼女の頬に、手を付けた。ぷに、とした。


「ほら、触れ──られた」


 ……身体に異常はない。

 心臓はばくばくと激しく打っているが、止まる様子はない。

 視界に暗い帳は下りてこない。息が唐突に詰まる兆しはない。少し後頭部が痛み、息が荒くなっているだけだ。生きている。黒い影の彼女に触れても、生きている。

 即ち俺は、死ななかったということだ。ヂヂ。


 ノイズ音の後、人間の姿になった夕陽は、戸惑いに切れ長の目を見開いていた。俺の手が触れている彼女の頬が、桜色に染まっている。


「な、なに……? いきなり、どうしたの……桜利くん?」


 がしりと、頬に触れている俺の手を夕陽が掴む。そしてそのまま彼女は身じろぎし、座った状態のまま下がろうと動き、「あっ」バランスを崩し、俺たちはそのまま倒れ込んでしまった。


「いたっ」


 夕陽は尻もちをついて仰向けに倒れている。

 その真上に覆いかぶさるように倒れかけ、かろうじて膝をたてる。どん、と強く打ち、膝小僧に痛みが走る。


「……!」


 すぐ眼前に、夕陽の顔。

 いよいよ目は大きく見開かれ、口は小さく開かれ、紅潮も増している。


「ど、どうしたの、ほんとうに……いったい……きみは……」

「……良かった」


 本当によかった。

 やはり、この子は人間だ。


「桜利、くん……?」

「……ごめん。いきなり妙な行動をして。すぐに離れるから」


 一乃下夕陽は、紛れもなく人間である。

 俺の認識では彼女は黒い影となるときがあり、そのとき人間ではなかった。俺の把握している人間の容の定義から外れていたからだ。だがそれは正しくもあり、間違いでもあった。

 彼女は黒い影()()()()()、人間()()()()のだ。


「ま、待って」


 離れ、身を起こそうとする俺の身体は、けれどもなぜか夕陽の腕に掴まれ、阻まれた。


「どうした?」


 意図が分からず、彼女に訊ねる。すると途端に、夕陽は紅潮した頬のまま、不機嫌そうに眉根を寄せた。


「どうしたじゃないわ……! いきなり変な質問して、頬に触れてきて、こ、こんな体勢になって……それで一人で納得して、離れようとしたりしてっ……」

「事情はきちんと話す。でもそれは起き上がってから」「じゃなくていい!」


 遮られた。


「え……?」

「お、起き上がってからじゃなくてもいいって言ってるの。この体勢のままで良いから今、話して」


 いつもより近い夕陽の顔は、いつにもまして表情の変化が分かった。

 ふるふると微かに口が震え、普段の白磁のような肌は面影なく紅い、瞳は潤み、泣きそうな表情をしている。今の彼女の表情は、人間の浮かべるソレだ。


「君がときどき、黒い影に見えるときがあった」

「え……え? 黒……影?」


 やはり夕陽に自覚はなかった。戸惑いを浮かべている彼女の姿に嘘は見られない。


「そのときの君の姿は……はっきり言うが、人間とはとても思えなかった」

「にん、げん……」

「だから確かめた。事後承諾になるが、触れて大丈夫だったか。もし大丈夫じゃなかったら、思いっきりでいい、君の気が済むぐらいの力で殴ってくれていい」

「……。それが、きみを悩ませていたの?」

「そうだ。この言葉に嘘はない」

「……そう。そうなんだ。それで触ってみて私が人間だったから、安心した、ということ?」

「ああ」

「なんで、触ることが人間かどうかの証明になると思えたの?」

「俺は死に損なった。そのときから……視界に、黒い影が見えるときがあった」


 あの日、あの廃墟内で。

 足を滑らせ、後頭部を強打してから。


「……それを、私だと思った」

「痺れを切らしたかと思ったんだ。あのとき迎えに来たけどいつまで経っても俺が死なないものだから、早く死なせるために来たのかと思った」


 一拍、二拍……数拍、会話が止まる。

 その間、夕陽の双眸は俺を見つめ、睨みつけるかのように歪められ、やがて、


「……馬鹿を言わないで」


 目尻に涙が溜まり、彼女の顔に筋を引く。仰向けなものだから、涙の通り道はいつもと違っている……

 まただ。また俺は、この子を泣かせてしまった。


「夕陽……」


 戸惑う俺に、彼女は睨み、怒っている。


「私はあなたの死を望んだことなんて一度もない」


 決して許せない一言を言われでもしたかのように。


「死んでほしいと思ったことなんてないっ。死んでほしくない人は、死んでほしくないに決まってる! 私は、わたしは……! っ……! 人が生き返ったりしないのなんて、分かってるんだもの! だから、私は……なん、で……っ!」


 そう言った。

 泣き怒りの表情で俺を睨みつける彼女の目からは、ボロボロと涙がこぼれ出る。


「わ、わるい。責めるつもりじゃないんだ」


 予想よりも遥かに激しい感情の爆発っぷりに、しどろもどろになってしまう。彼女の気持ちの昂りが、しかし俺にははっきりと分からない。


「責められてるつもりなんてないから謝らないでよ」

「あ、わ、分かった……わる……」


 また謝ろうとして、どうにか抑えた。どうすればと思ったが、彼女の怒りようの理由が分からない今、刺激するような言葉は控えるべきだ。

 何も言えず、ただ、彼女の悲しみと怒りが混じったような視線を受けていた。それはやがて落ち着き、怒りは消えさって、彼女の眼差しには悲しみだけが残っていた。


「……謝るの、私の方。ごめんね、桜利くん。私もよく分からない。分からないけど、嫌だった。とにかくすごく、イヤだって思ったの……でももう、たぶん落ち着いた……生きてるから」


 彼女の目からはまだ涙が流れている。


「……そうか。なら、良かった」

「──ねえ、オーちゃん」


 その呼び名の不自然さに気付く間もなく、背中に腕を回され、


「なん────っ!?」


 引き寄せられ、抱き締められた。


「……ずっと、こうしたかったんだ。私はね、オーちゃん。ずっとこうしたかったの……」


 夢うつつの境目のように朧げに夕陽は言うと、その後には何も言葉が続かなかった。


「ゆ、夕陽……?」


 すうすう、と寝息が聞こえる。


「まさか、眠った……のか……?」


 答える声はない。眠ったらしい。

 離れるにもすっかり抱き締められている為、離れられない。


 起きるまで待つか。


 そう考え、そのままの状態でしばらく待っていると、どたどたと脱衣所の方から足音が近づいてきた。


「おっさきしましたー! オーリ! お望みどーりのバスタオル姿よ──っておわぁ!? なにしてんの!?」


 バスタオル一枚姿の陽香が叫び声をあげる。

 夕陽に抱きしめられて絨毯の上に転がっている状態だ。無理もない。


「眠ってる。静かにな、陽香」

「眠るにしてもどうしてジュータンの上なのよ。それになんでユーヒが私のオーリを抱き締めたりなんかっ。オーリもオーリで大人しく抱きしめられたりしちゃって……! ああもう、言うこと多すぎワケわかんなくなってきた私も混ぜろ!」

「お、おい待て」


 言うも聞かず、陽香はバスタオル一枚のまま俺たちに覆いかぶさってきた。いつもよりもダイレクトな柔らかさが身体に当たった。夕陽は起きた。

 

「な、なに、この状況は……!? 未知戸さんバスタオルだし、お、桜利くんまでどうして……!?」


 眠そうな眼が一転覚醒し、いつもの様子の夕陽が呻く。


「すぐに離れる」


 言い、返答を待たずすぐに二人から離れた。

 夕陽を抱き締める陽香という構図になり、「ユーヒは別に、抱き締めなくていい……」と醒めた様子で陽香が離れ、「なに、なんなのよ……」と未だ状況が分からない様子の夕陽もまた、立ち上がり……「私眠る前に……あぁ……」俺を一目見、恥ずかしそうに頬を染め上がらせる。事態を完全に理解したようだ。


「とりあえず未知戸さんは服を着てっ」

「やだっ」

「着なさい!」

「オーリもヤダって言ってる!」

「桜利くん?」

「言ってないから。着ておいで」

「ほら」

「やだー、服なんて着ないー」

「つべこべ言わない」


 と、夕陽は露出狂めいた駄々をこねる陽香の腕を掴んで脱衣所へと引っ張って行った。

 苦笑で、彼女たちを見送ると、俺は何もなかったかのようにテレビの画面を見始める。楽しそうな画面の向こうの人々に、こちらも自然、笑みが零れた。今はなんだか、笑える気分だ。

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