夜だった
ブオオオというドライヤーの音が聞こえる。
侵入者騒ぎも収まり、少し遅めの夕食をとった後。
俺はぼんやりとソファーに座りテレビの画面を眺めていた。チャンネルはバラエティ番組。ブラウン管の向こう側には、賑やかさと明るさしか知らずに育ったように演じる人々が、華々しい笑みを浮かべ楽しさを提供している。彼らの楽しげな会話は思考の端を滑りゆき、一かけらもなく掻き消えた。今の俺はひとつとして考え事をしたくないらしい。
「あははっ」
「ふふふ」
テレビの向こうの人たちが演出する"笑いどころ"に、陽香と舞が楽しそうに笑っている。
目の前のテーブルに置かれているガラスのコップを持ち、口をつけた。中身はウーロン茶だ。氷は入れず、常温である。ドライヤーの音が止んだ。
「お風呂、お先にいただきました」
リビングの扉を開けて入ってきた夕陽が、そう言う。風呂上がりの為か、頬が上気している。
「あら、バスタオル一枚で出てくると思ってたのに」
陽香の何気なしの言葉を、夕陽は「出てくるわけないでしょ」と淡々とあしらった。
「次は陽香おねーちゃんが入る? それともおにーちゃん?」
舞が聞く。
「俺は最後に入るよ」
「舞ちゃん、お先にどうぞ。その後に私も入るから。オーリは私たちの身体から分泌された液体の混じる残り湯に全身で浸りたいみたいだし」
言い方ってものがあると思う。
「分かったー」
そう言って立ち上がると、ととと、と舞はリビングから出て行った。
「ってか陽香はこっちで入るのか?」
「そうよ。たまにはいいでしょ。お母さんにも言ってるわ」
「ああ、うん」
「あなたと同じ屋根の下で今日私は、一糸纏わぬ姿になるのね……」
「裸にならないと風呂入れないもんな」
「もーいけずっ。そこはノってきてよ」
もうっ、と陽香は憤慨した。こっちが『もうっ』だ。
「でもさ、オーリ。あなたやっぱり、ユーヒの残り湯だけじゃ不満なの?」
彼女は何を言っているのだろうか。満腹感からか、微睡みつつある頭ではすぐに意味が呑み込めなかった。今も呑み込めない。彼女は何を言っているのだろう。
「……」
夕陽は無言だ。
無言で、冷たい瞳で俺たちを見下ろしている。何とかして陽香の言葉を止めなければならないのだろうが、どう言ったらいいものか。
「今、湯船にはユーヒから流れ出た体液が大量に混じっている状態ということになるの。まーユーヒは私目線で言っても悔しいけどキレーな方だしぃ? そーいう女の子の残り湯って、オーリ的にはよろこば」「未知戸さん、そろそろ止めてもらってもいい?」「むぎぅ」
夕陽の手が、陽香の口をふさいだ。なるほど、実力行使か。
「ひへほほはへふー」
「絞め殺したりしないわ」
「ははひへほ」
「あんまり変なこと言わないって約束するなら、離すけど」
「ひははひ」
「……分かった」
手を離され、陽香は解放された。そして不満げな視線を夕陽に向けるものの、夕陽は相手にせず、ぺたんと絨毯の上に尻を落ち着けた。ソファーに座る俺の、ちょうど斜め前あたりである。
乾かしたばかりの彼女の長い黒髪が、電灯に照らされ光っている。甘い香りが漂ってくる。うちのシャンプーの匂いだ。そりゃあ、そうか。うちの風呂に入ったのだもの。
そんなことを考えていると、くい、と控えめな力で腕を引っ張られた。見ると、陽香が俺の腕を両手で掴み、不服そうに膨れている。
「なーにーを、ユーヒばっかり見てんのよー」
ぶんぶんと俺の腕が振られる。
「見るなら私を見なさいよー私だって美少女なのにー!」
「自分で言うなよ」
「でも実際そうでしょー。私、間違ったことは言ってないし」
さも当然と、陽香は言う。大した自信だ。自らが美少女に分類される人間であることに一縷の疑いも持っていない。そして、その自信の持ちようは正しい。
「……まあ、そうなんだけどさ」
口にした瞬間、陽香の表情が輝いた。
「いやっほーい! 聞いた? 聞いた聞いたっ? ユーヒ今の言葉きーた!? オーリが私のこと美少女だって言ったのきいた!?」
「聞いたわ」
「いやー照れちゃう。照れちゃうなーもーオーリったらー。なんでそんなに私を嬉しい気持ちにさせるのかなー。もーどーしよーユーヒー。ねーユーヒー。どーしたらいーとおもうー?」
「外でも走ってきたらどう? その興奮も発散されると思うから」
「えー? やだーオーリの傍から一秒でも離れたくないしー」
そう言い、陽香は距離を詰める。ソファーに座っている俺の、すぐそばまで詰めてくる。
「頑張ってね桜利くん。私、テレビ見てるから」
冷ややかに言うや否や、夕陽はテレビ画面の方へ視線を戻した。
相変わらず距離の近いユーヒが、ぐいぐいと身体を当ててくる。
「あんまり嬉しくなっちゃったからね、オーリ。私ね、バスタオル一枚ででてこよーと思う!」
「思わなくていい」
「もー照れちゃってー」
このテレやさんめ、とユーヒにつんと突かれた。
夕陽がまた、俺たちの方を肩越しに振り返って見ている。
「未知戸さん」
「なーにー? 今の私は超キゲン良いからなんだって答えたげるわよ」
「あなたはどうしてそう、桜利くんの言葉に喜べるの? 言ってはなんだけれど、今さっきの桜利くんの言葉だって、そんなに喜ぶようなものではなかったように思えるの」
夕陽の質問に、陽香は「なんだそんな質問かー」と機嫌の良さを崩さず、答える。
「好きな人が私を見てくれている。見て、私に関する思考をしてくれる。それだけでも嬉しいのに、褒めてくれるならもっと嬉しい。当然の話よね。そもそも好きな人といっしょにいられるだけで幸せなんだわ、きっと、私。そのためにはなんだってできる。愛のエネルギーは時として倫理の境目をひとっとびするのよ!」
夢を語る少女のように、滔々と陽香は言う。
「あなたはよほど、桜利くんのことが好きみたいね」
対する夕陽の無関心な返答に、
「大好きに決まってるでしょ。ユーヒの数億倍は好きなんだから」
陽香はそう返す。夕陽は「ふうん」と言ったきり、またテレビの方へ視線を戻した。どっ、と画面の向こうの人々が笑う。彼らは一様に、喜劇を見たかのようだった。
そしてテレビを見ているうちに、舞が風呂から上がった。
「オーリ、一緒に入る?」
「断る」
さらっと提案された陽香の誘いに遠慮し、
「まーねぇ、オーリは美少女たちから排出された混合湯をタンノーしないといけないもんねー」
そんな言葉を残し、陽香はリビングを出て、浴室へと向かった。
「……そうなの?」
夕陽の声。侮蔑も軽蔑もない、純粋な疑問のように聞こえた。
「違うよ」
だからそう、答えた。夕陽からは、「へえ」とだけ。その反応は淡々としており、込められた感情はよく分からなかった。