スポーツ少女がいた
「じめってる。世界がじめってるわ……」
家を出て数分、雨が降ったあとの世の中のじめり具合に陽香が早速嘆いていた。彼女を象徴するサイドテールもまた、宿主の気持ちを表すかのようにしんなりと萎れている。
「雨が降ったのだから当然でしょ」
冷ややかに夕陽が言う。
「はー……ま、自然の現象を嘆いていても意味なんてないか。歩いてりゃそのうち慣れるでしょーしぃ……」
「ええ……それで、ひとつ疑問があるのだけど」
俺と陽香の前に夕陽が歩み出て、くるりと半端なピルエットをするかのように上機嫌に回る。上機嫌。上機嫌か。今の夕陽、なんだか機嫌が良さそうだ。
そんな彼女が、問いかける。
「私たちはいったいどこへ向かっているの?」
「明日よ」
「観念的な答えは求めていないわ。抽象ではなく具象が欲しいの」
「めんどくさー……いいでしょ、私たちがどこへ向かおうと。テキトーに歩きゃいいのよ。テキトーに歩けば。私たちの今の目的は辿り着くことではなく歩くことなんだから」
「……そうね。私、目的を履き違えていた。珍しく、あなたの意見に賛同できたわ」
「珍しくは余計なんだけど」
薄闇は次第に濃ゆく、濃ゆくなる。
左右の住宅には明かりが点き、道端の電灯が心もとないスポットライトとなりゆく。こんなに暗い街の中、人殺しが潜むかもしれない路上を歩む恐れを知らない少年少女を、憐れむように照らしゆく。死へと続くかもしれない道を微かに照らし、知れず終着点へ向かう俺たちの一助となっている。……考えすぎか。考えすぎだ。思考が明らかに死に傾いてしまっている。
俺たちは三人……今、三人いる。
三人……三人だったら、どうなったか。
あの紙は、俺の机の抽斗の中に入っている。帰ってもう一度見てみるとするか。
「商店街には、さすがに人がいるみたいね──あ。見覚えのある背中」
陽香が立ち止まり、指を指す。
住宅街の出口、店が立ち並ぶ商店街──『ようこそ朝陽ヶ丘商店街』と描かれたアーチの門がかかっている──の境目に当たる場所で、スーツ姿の偉丈夫の背中を見つけた。
稲達孤道──おそらく探偵であろう男だ。
「探偵も商店街に寄ったりするのね」
「探偵と言えど人間だからな。日用品を補充する必要もでてくるだろ」
俺と陽香がそのまま進もうとすると、
「でも、待って」
そう、夕陽が俺たちを手で制した。
「なに?」
「稲達さん、と言ったわね。あの人、誰かと一緒にいるわ。会話してるみたい。それにあの制服……朝陽ヶ丘高校のものじゃないの?」
夕陽の言葉に、俺たちは目を凝らす。
彼女の言葉通り、稲達の背中は立ち止まり、傍らの制服姿の人間──肩ほどまで伸ばした茶髪の女子生徒らしき──と会話していた。会話する二人の姿が、店からの明かりと電灯の照明で照らし出されている。
「ほんとだ。誰かしら。後ろ姿じゃ分かんないわ……んー? でもあの人、どこかで見たような気もしないでもないかも……」
「近寄って、見てみるか」
俺と陽香が近寄ろうとすると、夕陽に「待って」と制された。
「止まって。桜利くん、未知戸さんも。今は止めておきましょう。無理にあの人たちと話す必要はないと思うの」
「けどユーヒ、気にならないの? あのヒゲ探偵と女子高生の組み合わせよ。いかがわしい香りがするわ。ゴシップ的な香りがぷんぷんする」
「今の私たちの目的は歩くこと、でしょう? 私には、あれは厄介ごとの匂いにしか思えないのよ。だから行きましょ。早く、ほら、早く」
「お、おい……」
ぐいぐいと夕陽に背中を押され、俺は方向転換を余儀なくされた。
「何で俺をそんな、陽香はっ……」
「桜利くんを先に連れて行けば、必ず未知戸さんもついてくるだろうし」
夕陽の言葉は正しく、すぐに陽香も「ちょっと置いてかないでよ」と小走りで追いついてきた。
「なにも商店街を通らずとも、こっちの道を行けば朝陽ヶ丘の森方面に行けるわ。自然を楽しむのまた乙なものではないかしら」
「ごーいんだわ」
「良いでしょたまには強引でも」
仕方なしに、俺たちは朝陽ヶ丘の森方面へとぶらぶら歩き始めた。
◇
「うえー……くっら。くっらいわ。こわい」
「夜だものなぁ」
歩いているうちに、朝陽ヶ丘市の森手前広場である。
何の飾り気もない名称の公園内は、やはり点々と電灯に照らし出され、真っ暗闇である。奥に広がる木々の空間に至れば、もはや闇だった。一応、森の中を続く道には電灯があるものの、心細いことこの上ない。
俺たちは森の中に分け入っていく道の入り口で、どうしようかと突っ立っていた。公園の敷地内をなんとなくぐるりと歩き回り、楠木を見上げたり、無人の四阿の中を覗きこんだりした後、ここまで来たのである。
前方に広がる木々の群れの隙間から何かが覗き込んでいそうだ……例えば、
「桜利くん? どうしたの?」
夕陽がきょとんとした様子で俺を見つめ返す。
「いや、なんでも」
「気になるわ。どうして今、私をじっと見つめたの?」
お茶を濁そうとしたら、夕陽が思いのほか食いついてきた。どうしたものか。
「なんとなくだよ。本当になんとなく」
「そうなんだ」
「夕陽の背後にきっと誰かが立ってたのよ」
けっ、とばかりに不機嫌そうな陽香が怖いことを云った。
「そうなの? 桜利くんは、だから私を……?」
「違う違う。そうじゃない。本当に夕陽の後ろに誰かいたらもう俺はとっくに逃げてる」
「ちきんね」
「臆病者ほど長生きするんだよ。それだけ生存本能が優れているってことだろうから」
「口ではそう言ってもね、オーリ。本当にあなたは臆病者なのかしらね。危うい事態になったら真っ先に突撃しそうな感じもあるわ」
「自分じゃそう思えないな」
「私もあんまりそう思わないけどね」
「じゃあどうして言ったんだっ」
「あははっ」
笑う陽香につられて笑う。
すると、そっと服の裾を引っ張られた。夕陽だった。
「やっぱり、この道に入るのは止めましょう? ここを通っても、途中に変な廃墟があるだけだわ」
「あら、ユーヒさんは怖くなったの?」
「暗闇は好きじゃないのよ。あなたは怖くないの?」
「ふふん、怖いけど?」
「そんな自信たっぷりに言われても困るんだけど……ま、この道を通るのは止めるということで良いでしょ」
「どーかん。珍しく意見が合うわね」
「ありがたいことにね」
意見の合っている二人をしり目に、俺は公園の入り口の方を見ていた。
ふと見て、見つけて、視線が釘付けになってしまっていた。
公園の入り口に、誰かが立っている。
電灯が、スポットライトのように円錐状の光を落とし、その姿を照らし出している。
細身の、誰かだ。顔はよく見えない。黒くてよく見えない。
「オーリ、あなた一体どこ見て……」
「桜利くん、きみはどこを見……」
俺の視線の向かう先を、陽香と夕陽もまた見て固まる。
ああ、彼女たちにも見えているのだな、と少し安心した。
「あ、あああれなに、なにっ? なんなのあれぇっ……」
「分からない。分からないわちっともさっぱり分かんないっ……」
震え声で、二人は言う。
「もしかしてあれ、こっち見てる?」
「見てるわ。ぜったい見てる」
「見ちゃってるかー。はー、うわー……んー? なんだかこっちに走ってきてなーい?」
「来てるわ。走って、来てる……!」
「うわわわわわ……!」
あの影は、スポットライトの下にはもういない。
走って来ている。すごい速さで、こっちに向かって。なにかチカチカした光をこちらに向けて……チカチカ?
「おい、おーいっ、陽香だろ。それに久之木も……あと、転入生、さん?」
聞き覚えのある声で、懐中電灯を振る彼女は。
「ち、近泉、だったのか……」
近泉咲だった。