『モルスの初恋』
19
警察はすぐにやってきた。
しどろもどろになりながらの桜花の言葉はしっかりと伝わってくれたらしく、パトカーが二台、西霊園の駐車場に停まった。パトカーの中から慌ただしく何人もの警察──コートを羽織っている者が一人──が出てきた。彼らは桜花を見つけると、一人、コートを羽織った者が歩み出てやってきて、にこりと、優しく笑いかける。
「きみかな。通報したのは」
「はい」
桜花が答えると、コート姿の警察は一冊の手帳を取り出し、桜花に見せた。
「未明ヶ丘警察署の、重川正義と云う者です」
「え、あ……条理、桜花です」
相手の名乗りに、桜花も戸惑いながらそう返した。
「それで……どこに」
「……あそこに」
死体が転がっている場所を、桜花は指し示す。
コートの警察官はゆっくりと頷くと、背後に控えていた警察官たちへ、「あっちだ」と手で示した。一斉に彼らはその方向へ歩き出した。
「きみは、少しここに待っていてくれないか。もしも寒いようだったら、あの人に言ってほしい」
そう、重川と名乗った男は一人残っていた女性の警察を指し示し、笑う。相手が子供で、しかも死体を見たときているため、その対応は桜花から見ても丁寧で、慎重だった。
「きみ、この子に付き添っていてくれ。私も見てくる」
と年配の女性警察官に言うと、重川もまた死体がある方向へと歩いて行った。
その後姿を見送っていると、その女性警察官は「佐藤です」と名乗ると、そっと、
「寒くはない?」
と尋ねた。桜花が「少しだけ」と答えると、
「飲み物、通りそう?」
心配そうに、壊れものを触るかのような慎重さで、そう言った。
「は、はい。大丈夫……だと、思います」
「ふふ。それじゃあちょっと、待っててね。カフェオレで、いい?」
「い、いやそんなっ」
女性警察官の言葉に察し、桜花が遠慮する。けれど彼女は笑い、「遠慮しないで。経費だから」と冗談めかして笑った。そして管理の為の小さな建物の入り口にある自販機まで行き、すぐに戻ってきた。その手には飲み物の缶を持っている。
「はい」
「ありがとう、ございます……」
プルタブを開け、桜花はカフェオレに口をつける。甘かった。
「私にもね、あなたみたいな年頃の娘がいるのよ。ひょっとすると同じ学校かもしれないわ」
「未明ヶ丘高校、ですか……」
「ええ、そう。そうなのよ。今確か、二年生だったと思うわ。あなたは何年生?」
「一年です」
「それじゃあ一つ年上なのね」
生来の話し好きなのか、それとも間を持たせるためか、佐藤と名乗った警察官は、娘のことについて、最近よく友達と出歩くことが多いだの、家に帰るのが遅いだの、お菓子作りに突然興味を示し始めただのという内容を──愚痴が大半だったが──桜花へ話して聞かせた。桜花は黙って、時には相槌、時には笑い、受け答えていた。
20
十数分、あるいは数十分ほど経った頃に、重川と一人の警察官が桜花達の下へ戻ってきた。最初に来たときはまるで違う、ひどく、ひどく深刻な表情を一様に浮かべている。その理由が小瀬静葉の胸を削がれた死体を見たというのは明らかだった。
「管理棟に人は?」
「事務所に一人。居眠り気味でしたが」
「なら後で話を聞こうか。とりあえずはそこに留まってもらうように伝えろ。たとえ駄々をこねられても何処にも行かせるな」
「分かりました」
その警察官は走って管理棟の方へ向かった。
「さて。条理くん、と言ったね」
「はい」
「確かに、あった。……きみも、見たのかな」
「……はい」
「そうか。それは……つらかっただろう」
脳裏で言葉を巡らせた上での重川の言葉に、桜花はゆっくりと頷き、意を決したように口を開いた。
「あのっ。その、なにか、ありましたか?」
「なにか、とは」
「え、えっと、なにかおかしなものです」
桜花の質問に、重川はただ首を横に振った。「なにもなかったよ」転がっている死体以外は、という言葉を、重川は呑み込んだ。
なにもなかったということは。
重川たちは黒い影を見ていない、ということを意味している。
消えたのか、いなくなったのか、それとも──そんなもの、そもそもいなかったのか。
そんなわけがない。そんなわけがない。
(そうだ俺は確かにこの目で見た。見たんだ)
桜花は首を振り、頭を占めようとする考えを振り払った。
「どうした?」
そんな桜花の様子に、重川が怪訝そうに問う。
「いえ、少し眩暈がしたの……で…………」
やっぱり、そんなわけがなかった。
そもそもいないわけがなかった。
「きみ。どうした」
だって。
だって、こうして今も目の前に、
「いったい、きみはどこを見ている」
いるじゃないか。
俺の。目の前。で、
首と胸を得た黒い影が俺を見ている。
「っ!? 佐藤くん! すぐに救急車を、いや、直接運んだ方が早いか……!」
「重川警部補、パトカーの準備ができました!」
意識に暗い帳が下りていく中、
「強い精神的ショックを受けた。当然だった。この子は死体を見たんだ。あんな死体を……! クソ! あんな、惨い……!」
義憤に肩を震わせる重川の姿が、ただ、見えた。
21
『私』はここであなたを見ている。
死があなたを見ているように。