表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

黄昏倶楽部【老夫婦】

作者: MAOちゃ

黄昏倶楽部の番外編。

部屋の中は、静まり返っていた。

痛み始めた畳の上に布団が2枚、隣り合わせで敷かれている。

布団の中の老夫婦は手をつないだまま動かない。

その傍らに、黒いスーツを着た驚くほど色の白い男が片膝をついている。

男は、老婦人の頬に流れたままの涙を優しくぬぐうと、その場から姿を消した。

そして、老婦人は安らかな顔のまま二度と動くことはなかった。



部屋の天井はいつもとなにもかわらない木目をしている。

喜美子は、天井の木材は板になっていても生きて呼吸をしているということを考えた。形は変わっても呼吸をしている。板になっても生きている。わかりきったことだと思うけれど、それは本当はすごいことなのだと思う。いつも同じようなことを考え、いつのまにか眠り込む、そんな生活の繰り返し。だが幸せは常にそこにある。隣に寝ている辰夫がいるから。

手と手をつなぐことしかできない中で、言葉にたよらない心の交流があるから。

隣あった布団に寝たままの辰夫は、動かない身体を一生懸命になって喜美子の方へ向けようとしているようだ。つないだ手にかすかな力が入っている。

喜美子も不自由な身体で、辰夫の方へ目を向ける。

目と目があう。

辰雄の目を見た瞬間に、別れがきたことを悟った。

覚悟はしていた。でも、実際に受け入れることと考えることは違う。

あらためて辰夫のことを見つめ直した。

細く痩せてしまった顔、身体。見慣れたはずの皺一つ一つさえもがいとおしいと思える。

辰夫がなにかを伝えようとしている、それはわかる。

「なにも言わなくていいの」心の中でそう思う。辰夫が伝えようとしていることが喜美子に伝わったら、なんだか辰夫が死んでしまいそうで怖くなったのだ。

「なにもいわないで」言葉にならない声を出そうとする。目をつむりたかったけれど、それはできなかった。

辰夫は、精一杯の表情でゆっくりと微笑むと涙を流して、口を動かした。

声は聞こえないけれど、想いは伝わる。一瞬、辰夫の顔が出会った頃の顔のように見えた。

「ありがとう。ごめんな。」

辰夫は涙を流して、ゆっくりと目を閉じた。

「ありがとう。ごめんね。」

喜美子は傍らにいる辰夫に声にならない声でそう言った。涙が出てきた。辰夫の言葉の意味をすぐに悟ったからだ。

つないだ手を通じて、辰夫がこの世を去ったことをあらためて感じた。

力にならない手で、一生懸命に手を握る。ありがとう、感謝の気持ちを精一杯こめて。

涙がこぼれてきた。

この、老いて枯れた肉体から涙がまだ出てくることに驚きもしたけれど、辰夫の身体から徐々になにかが失われていくのだと思うと、その現実が喜美子の心を痛めた。

そう遠い話ではない。いずれ私も後を追うことになるだろう。

死ぬのはもう、怖くない。

むしろ生きすぎたとさえ思う。

私が生きていることで、辰夫にどれほど迷惑をかけたことか。それなのに、辰夫は恨み言のひとつも言わず、献身的に尽くしてくれた。体を壊して寝たきりになり、苦しい思いをしていたのにも関わらず、喜美子の手を握りしめてくれていた。

隣り合う布団で天井をみながらだったけれども、喜美子は寝ても覚めても幸せを感じてこられた。

そうした幸せをもたらしてくれたのにも関わらず、自分の死がすぐそこまで迫っていることを悟り、わびるように死んでいった……。

今ほど生きていることが虚しいと思えることはない。

人は失って初めて知るのだ、失ったものの大きさを。後悔というものを。

耳はすでに聞こえない。体もほとんど動かない。寝たきりの自分。

私には、もうなにもなくなってしまった。

生きる意味も、支えも、辰夫という存在もなにもかもだ。

今までも死にたいと思ってきた。

生きていることで辰夫に迷惑をかけてきたから。

先に死んでしまえば、少なくとも辰夫の負担は軽減できたはずだった。でも、死はあくまでも遠くから眺めていただけで、そばにいてくれた辰夫に近づいたのだ。

「死にたい。」

言葉にならない声で口に出してみる。

「死にたい。」

やはり声にならない。だから、願うことにした。強く強く、願うことにした。

「神様がもし本当にいるのなら、私の命のともし火を、どうか吹き消してください。」

涙を流し、辰夫の顔を見ながら願った。

息子夫婦にも迷惑をかけっぱなしで、三年もの月日をこうして過ごしてきてしまった。なにより、辰夫に迷惑をかけ続けてきしまった。辰夫が寝たきりになったのもすべて自分の責任だと思う。

辰夫には感謝の気持ちと申しわけない気持ちばかり。私がもっと早くに死んでしまえていたら、辰夫が介護疲れで倒れることも、もしかしたら病気をすることもなかったと思う。

だから、祈るのだ。

神様、どうか私の命を、命のともし火を吹き消してください、と。

どうして私のような者を生かすのか、と。

目を閉じて、願い、祈りを捧げる。何度も、何度も……。


どれくらいの時間が経ったのだろう。ふと、音が聞こえた気がした。

耳はもう遠くなってしまっていて、音を聞きわけられるわけがないのだ。

それでも荘厳なクラシックのような音楽が聞こえるような気がする。

耳に意識を集中してみる。

クラシック音楽……ショパン、ベートーベン、知っている名前を考えてみる。クラシックには詳しくはないけれど、第九くらいなら知っている。

モーツァルト、そう、モーツァルトのレクイエム。

ずいぶん前にモーツァルトの映画……アマデウスだったか、それを見たときに聞いたことがあるような気がする。

モーツァルトは、たしか誰かに曲を依頼されて、再三の催促でようやく作曲……結果、自分の葬式でこの曲を流されるという話で終わったんじゃなかったかしら。

でもなぜ急にこんな曲が思い出されたのかわからなかった。

それでも、これから死ぬにはおあつらえ向きの曲かもしれないわねと、そんなことを思う。

「えぇ、そういうことになるのかもしれません」声が聞こえた。

視線を向けると、黒いスーツに身を包む男性が片膝をついていた。

色の白い、驚くほど美しい男。

知らない男だったけれど、驚きはしなかった。怖くもない。むしろ涙があふれてきて、祈りが通じたのだと思った。

神様がとうとう私の願いを聞き届けに来てくれたと思うと、涙はとまらなかった。

男は優しい表情でずっと見つめている。

「あなたがもし神様であるのなら、どうか、私の命のともし火を、吹き消してくださいませ。」

声にならない声で口にする。慈愛に満ちた表情の男の声は、まるで頭の中に直接語りかけられているようだ。

「私には神や悪魔といった名前はありません。それでも、あなたの願いを叶えにきました。だから、ゆっくりとおやすみなさい。」

男の手が目の上にやさしく触れた。

「ありがとう。」

言葉にならない声で言うと、目を閉じた。


そう、覚えている。

その日の空は雲一つなく晴れていた。

地上に目をうつすと、国土は荒れ果てて戦火の後がまだところどころ残っている。

みすぼらしい服、敗戦で生気を失ったような表情の人々がまだたくさんいる。

日本は戦争に負けて、すべてを失ったのだ。

その日暮らしの生活を余儀なくされた喜美子は、年の離れた弟妹を食べさせるために、日々をなんとかしのいでいるような生活だった。両親は戦争中に死んでしまったために、まだ15歳の喜美子が親がわりとして生きて行かなければならなくなったのだ。

戦争が終わると、ほどなくしてマーケットが各地で開催された。いわゆる闇市で、新橋を皮切りに新宿や渋谷でも開かれ、取引が盛んに行われていた。

たまたまその日は、弟妹をつれて闇市にくず鉄を売りに行っていた日だった。

戦後の混乱期、闇市はヤクザが仕切っていたものの、街は活気を取り戻しはじめていた。復員した兵隊の姿もちらほら見かけるようになってはいたが、復員兵だということを隠す者も少なからずいた。復員兵はお国のために戦ってきたけれど負けたことは日本兵のせいだといって、たちの悪い誹謗中傷の的になることがあったからだ。

そんなある日、喜美子は辰夫と出会った。

見るからに復員兵といったぼろぼろの格好で、闇市の活況ぶりにとまどいを覚えていたらしい。

空腹らしく煮込みを売っている店の前でたたずんでいたのが辰夫だった。

なんとなく、気になったことを覚えている。

弟妹は闇市の盛況ぶりに驚きと、興奮していた。無理もないなと思った。弟の充はまだ6歳、妹のみちは4歳なのだ。二人に芋を食べさせている間、喜美子は空腹を紛らわすために掘り出し物がないか見てまわることにしたのだった。

いくつかの店を見ているうちに、同じ顔をみかけるようになった。アメリカ兵……嫌な響きだ。そろそろ充とみちのところへ戻ろうと思った。

足早に歩いていると、突然腕をつかまれた。驚いて振り向くとさっきのアメリカ兵だ。

あたりは夕暮れで薄闇が遠くから忍び寄ってきていた。弟妹は少しばかり離れた場所にいる。

アメリカ兵はとても大きく、その青い目を細めて唇をなめた。犯されるだけでなく、殺される、そう思った喜美子は周りに助けを求めて声をはりあげたが、そばにいる日本人は誰一人として見ぬふりをし離れていった。

日本人の土地なのに、アメリカ兵に逆らうとあとが怖い。逆らったがゆえにひどい目にあった日本人もいる。

下品に笑うアメリカ兵の、その青い瞳の周りの白目が濁ってみえた。顔が赤くなってきている。興奮か酔いなのか、ただそのときは赤鬼に殺される、と思った。

つかまれていないほうの手で、アメリカ人の胸を叩いた。必死だった。その厚い胸板を叩くたびにアメリカ兵は痛そうなふりをして、下品な笑みと声を張り上げるのだ。遊んでいる、非力さをあざ笑っているのだと思うと、余計に恐怖が増した。

逃げられない、殺される……。

そう思った瞬間、アメリカ兵が抱きついてきた。

「助けて!」

思わず目をつぶると、アメリカ兵の重みがなくなった。

恐る恐る目をあけると、鉄パイプをもったまま震えている日本人がいた。

さきほど見かけた日本人だった。

倒れているアメリカ兵は、後頭部を殴られて口から泡を吹いている。気を失っているようだ。

喜美子が礼をいうより早く、その男は腕をつかみ「とにかくここから離れよう。ここにいたら面倒なことになる」充とみちにも声をかけ、二人の手をとって走った。

足をもつれさせながら、必死に駆けた。

つないだ手がなんだか温かくて、目に涙をためながら必死に走った。


日が暮れる頃、辰夫は喜美子の家にいた。

家と言っても立派なものではなく、あくまでも住める場所という状態でしかない。

辰夫は恐縮しきっているようだが、喜美子は恩人をもてなしたいと考えて連れてきたのだ。

戦後の貧しい時代だけにろくなものを用意できない。それでも、なにかしら恩返しをしたいと喜美子なりに考え、夕飯を食べてもらおうと思ったのだ。とはいえ、食事に出せるものと言えば麦飯にお漬物、干物くらいの質素な食事だけに少し後悔もしていた。辰夫はそんな喜美子の気持ちを知ってかわからないが、ゆっくりと噛み締めるようにして、ご飯を食べた。弟妹はそんな辰夫の食べる様子をじっと見ている。

アメリカ兵から助けてもらったということは話してあったので、英雄だとか思っているのかもしれない。戦争には負けたが、日本人はアメリカ人より強いんだというくらいには考えているのかもしれない。

辰夫はきれいにご飯を食べ終わると、ごちそうさまでしたと頭を下げた。

「こんなに楽しいご飯を食べられたのは久しぶりでした」

その言葉で、喜美子は救われた思いがした。辰夫は戦地では苦労をしてきたはずで、食卓を家族で囲むような団欒とは離れていたに違いないのだ。

いろいろと聞きたいことがあるが、なかなか聞けない。そう思っていると充が戦争のことを聞いてきた。

辰夫は「戦争はいいことじゃないんだよ。でも、男として生まれてきた以上、戦わなければいけないときにはにげちゃいけないんだ。充君はこれからお姉ちゃんとみちちゃんを守っていく男にならないといけないよ」と自嘲気味に言っただけだった。


その日を境に辰夫と喜美子はお互いを意識するようになった。

辰夫は喜美子と弟妹のために稼いだお金でなにかしらの差し入れをするようになったし、充もみちも辰夫のことをたつ兄ちゃんと慕うようになったのだ。

喜美子が辰夫に好意以上の気持ちを抱くのに、さほど時間はかからなかった。


三年が経った喜美子の誕生日に、辰夫から結婚を申し込まれた。

断る理由もなかったし、なにより充とみちも喜んでくれた。




「貧しかった時代だったけど、幸せだったのよ。」喜美子は傍らにいる男にそう伝えた。

喜美子の声はでなかったけれど、男には伝わっているだろうと思った。

もしかしたら、夢なのかもしれないとも思う。でも、夢ならばいつまでも夢のままでいいと思う。

不思議なことに辰夫との思い出ばかりが走馬灯のように見えてくる。

「見えてきたあなたのお話をきかせてください」男はそう言った。



結婚してから三年目だったわね。

第一子の辰己が生まれたときの辰夫さんのはしゃぎようったら本当にすごかった。

あぁ、この人との間に子供を授かることができて本当に幸せだと思ったわ。

「俺はね、本当は生まれてきたらいけなかったんじゃないかと思うときがあるんだ。」

出会って間もない頃にそう言っていたから、子供ができたということを伝えるのも怖かったのよね。子供ができたと伝えると喜んではくれたけれど、どこかにあの言葉が残っていてね、子供が生まれるまでとても不安だったのよ。そんなこと辰夫さんには言えないけれど。

「生まれてきたら親に寺の前に捨てられたんだ、俺は。子供ながらに窮屈な思いだけはしてた。そんなときに戦争が起きたから家を出るいい機会だと思ったんだ。死ぬことは怖くなかった。もともと寺にいられなければ死んでいたわけで、それならばだれかのためによりも俺自身のために死ぬでいいんじゃないかって志願したんだよ。」

古びた橋の欄干を拳でこづきながら、そんなことを言っていたのよ。でも私、なにを言ったらいいのかわからないじゃない。困ってしまってね。そうしたら辰夫さんは夕日を見ながらつぶやいたのよ。

「戦争に行ったら考え方がまったく変わったんだ」

「どうして?」それが私の言葉。

「蟻の群れを足でつぶすみたいに、人が死んでいくんだ。戦闘機が撃ってくると、着弾点付近の仲間は皆吹き飛んで死んだ。大義だとかなんてしょせん戦場ではなんの役にもたたない、それをまざまざと見せつけられたんだよ。さっき話していた奴が、被弾してただの物になっていて……こりゃ、来るとこ間違えたなって。」

辰夫さんはそう言ってほほ笑んだあと「あいつはいい奴だったんだけどなぁ」

「でも辰夫さんは生き延びてここにいる」夕日に照らされて赤みがかった辰夫さんの横顔を見て言ったのよね、私。

「本当は死んでいたのかもしれなかったんだ」

「え?」

「うん、もしかしたら、終戦があと1日遅かったら、俺はここにはいなかったはずなんだ」

辰夫さんが戦争について話してくれたのは、結局あのときだけだったのよね。



フィリピン諸島方面での戦いは熾烈を極めた。

戦局は日を増すごとに悪化し、怒涛の攻撃をしかけてくる連合国軍に空と海を封じ込まれた日本軍は、陸上での戦闘にすべてをかけるという手しか残されていなかった。武器、弾薬、燃料、人数……戦争を勝ち抜く上で必要となるそれらすべてが、俺たちにはなかったのだ。

銃があっても撃つ弾がない、味方の人数どころか食料の備蓄もない。制空海権は連合国軍にあったため、近隣の諸島からの補給もままならないだけでなく、各島ごとに決死戦を繰り広げているような状況だった。

その日を生きることがすべてで、穴を掘っては逃げるを繰り返すばかりの日々でしかなかった。


そんなある日、沖縄で特攻隊なる部隊が活躍しているという話が入ってきた。

日本男児の誇りを掲げて、文字どおり連合国軍に特攻するのだ。

一人一殺どころではない、一人の命で敵艦ごと沈められるのだ。

敵艦目がけて体当たりを食らわせるというその戦略は、疲弊しきった俺たちにはこの戦局をひっくりかえすほどの方法と思えた。誰もがその作戦に疑問を挟むことはなかったということも、疲弊しきった肉体と精神の極限下では当然だと思う。

どちらにせよ、この戦場から逃げ出すには死ぬしかないのだ。敵に撃ち殺されて死ぬか、飛び込んで死ぬか、それだけの話。

ただし、特攻隊として飛び立てば少なくとも誇りは守られる。同じ死でも、意味合いは大きく違う。

そんな話で大いに盛り上がってきた頃、俺たちのいる島に極秘で移動してきた部隊があるという。

詳細はわからなかったが二十数名の非戦闘員だという。

その部隊が考えていた作戦は特攻隊組織を作り、俺たちに特攻させるという話だった。

皆、笑うしかなかった。

特攻が出来るならそれでかまわない。しかし使える武器となりうるものは、各自携行している銃程度しかないからだ。

なにに乗って飛び立てばいいのだ、それが現実だった。

だが、身近すぎてわからなかったことが奴らには見えていた。

飛び立つ飛行機などいくらでもあるのだ。

この小さな島には、破壊された飛行機などがそのまま捨て置かれている。それらの中から直せば使い物になりそうなエンジンをかき集めて特攻隊機を作ればいいと言う。

こうして、俺たちに与えられた任務は島に捨て置かれた飛行機のエンジンをかき集めててくるという任務に変わった。

調べてみると島全体で使えそうな飛行機のエンジンは200以上あるらしかった。

それらの、型もなにも違うエンジンを組み合わせても飛べる飛行機を設計すること、それが非戦闘員部隊の仕事だった。

飛行機には鉄とガソリンが必要だ。しかし、この島全体で見ても俺たちが飛ぶだけの飛行機を作るだけの材料はない。なんといっても木と竹ばかりのような未開拓の島なのだ。

その日から、俺たちは連合国軍に見つからぬようエンジンなどを始めとした材料の回収をし、奴らの部隊は寝る間も惜しんで設計図をつくるという作業におわれた。


二週間ほどしてだろうか、敗戦の様相を呈した戦局の中で部隊招集がかかった。

その日はあいにくのひどい雨の日だった。

俺たちが招集場所に集まると、非戦闘員部隊の奴らがやつれた姿で集まっていたのだが、その目は自信であふれていたようだ。

「出来たんだな」誰かがつぶやいたのを耳にして、招集の目的をあらためて感じ、その棺桶となるであろう機体を目で探してみた。

部隊長から、あいにくの雨でテスト飛行は見合わせるが、設計図が出来上がったと聞く。いつでも飛ぶ準備はしておけと言われた。

つまり、死ぬ準備をしておけということだ。

俺たちはその夜、はしゃいだ。

死ぬ準備をするということは、実は考えるより難しい。

その夜は馬鹿騒ぎをし、未来への期待と家族への思いなどそれぞれが好き勝手に話をした。

俺も聞かれたんだけどなぁ、俺に家族はいなかったから「生まれ変わったら嫁をもらい子供を作って平凡な生活をしたい」と言ったんだ。そうしたらみんなに笑われた。

「平和に暮らせるってことが一番大事なことなんだよな」部隊長のその言葉で、なんだか俺たちの浮かれた気分が消えた。

俺たちは死ぬという現実から目をそらして生きていたんだよ、そのときまで結局は。戦場でいつ死ぬかもわからないと緊張しながら、死ぬかもしれないではなく死ねと言われたときに、その違いから目を背けようとしてはしゃいだんだ。

笑っちゃうだろ?でも、人間なんてそんなもんなんだ。

沖縄で特攻したという同志のことを考えて、その日は一睡もできなかった。

おそらく他の仲間もそうだったと思う。


朝を迎えた。

外へ出て見ると、どしゃぶりとも言える雨だった。

雨くらいでなぜテスト飛行を延期しなければならないのか、それは機体を見て納得したよ。

設計部隊に課せられた使命は、どんなエンジンでも特攻することのできる飛行機の設計をすることだった。

出来上がった機体には、エンジンと鉄屑、木、革、ゴム、紙など、島で手に入ると思われる材料と俺たちの持つあらゆるものが飛行機の部品として使われていた。

雨でだめになる部品もある。だからこそ、テスト飛行も晴れの日でなければならないのだ。

今でも思う。

俺たちは歴史の証人なんだとね。

あらゆる材料をもとに飛行機を作ることのできた世界一の人種なんだと。

そして翌日、天候の関係や機体への影響も考慮した短時間のテスト飛行を終えると、四日後に特攻機に乗り込むことが決められた。

そして再び雨が降り始めた。

次の日も、次の日も。


死を前日に控えた夜も不思議と眠ることができた。

しかし、外は雨だった。少しの雨なら飛べるのではないかという意見もあったが、さらに翌日に延期。

死が一日伸びた。

降り続く雨を眺めながらふと、ひげをそろうと思った。

死を目前にして感傷的になっていたのか、ひげを生やした汚い顔のまま死にのが嫌になったのかわからないんだけどね。

そんなことをしていると、緊急で招集がかかった。

強硬して飛ぶのか、そう思いかけつけてみると終戦をむかえたという。

日本人が負けを認めたというのだ。

にわかには信じ難かったことだが、信じるしかなかった。

なぜならば、設計図と出来上がった飛行機、そしてそれにかかわるすべてのものを燃やせと言われたからだ。

連合国軍が乗り込んできたときに、反抗の意志ありと思われることを避けるためだという。そうでもしなければ、戦い続けようとした者たちもいたかもしれない。

俺たちは、その瞬間から再び翼をもがれた鳥になってしまったのだ。

一縷の望みが絶たれたことで、敗戦を現実的に受け入れられたんだよな……。



いつの間にか夜の闇が訪れていたのよね。

流れる川を見ていた辰雄さんがふいに空を見上げて、だから私も空を見た。

暗闇に数え切れないほどの星が瞬いていて、辰雄さんは目に涙を浮かべていたように見えたの。

「なんだか、つまらない話をしてしまったね。寒くなってきたから帰ろうか」

私の方を向いた辰雄さんは笑顔だった。でも、なんだかとても悲しくて、私の方が泣きそうになった。

それ以来、辰雄さんは戦争の話をすることはなかった。

私も戦争のことは聞かないでおこうって、そのとき決めたの。



辰夫さんが寝たきりになったのは、私のせいなの。

辰夫さんは私のことを責めもせず、献身的に介護してくれたの。でも、過労で脳梗塞を起こし、倒れた。私は献身的に介護してくれている辰夫さんに感謝と幸せを感じていただけでなく、いつのまにか甘えていたのよね。

その甘えが寝たきりにしてしまった。

何度悔やんだことでしょう。私は地獄に落ちればいいのに。むしろ私が地獄に落ちる代わりに辰夫さんを助けてあげてとさえ思っていた。

でも、先に辰夫さんは死んでしまったのよね。

私がいなければ、辰夫さんは死ぬことがなかったのに……。

ねえ、神様。

私を早く殺してください。

あの世で、辰夫さんにわびたいのです。それがかなわないのならば、せめて辰夫さんにこの思いを伝えていただけないでしょうか。私は罪人であり、咎人なのです。

だから、お願いします。

願いを叶えてください。



なにも見えない暗闇。

ふと気配を感じた。

柔らかで温かい、そんな気配だ。香りがする。

喜美子が横を向くと、傍らに辰雄がいた。笑顔だった。

そっと手を握ってきて、ほほ笑んでいる。

「辰雄さん、私はあなたと出会えて幸せでした。今までありがとうございました。」喜美子は、頭を下げた。

「俺も幸せな人生だった。ありがとう」喜美子は涙があふれてきて、ありがとうと言いたいのに、嗚咽で声にならない。辰雄が喜美子を優しく抱き締めた。

「ありがとう」




黒いスーツを着た、驚くほど色の白い男が片膝をついている。

男は、老婦人の頬に流れたままの涙を優しくぬぐうと、その場から姿を消した。

そして、老婦人は安らかな顔のまま二度と動くことはなかった。



[FIN]

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ