94話「優勝した夜」
決勝が終わった日のパーティーで陸斗は大忙しだった。
多くの業界人、スポンサーが彼に興味を持って話しかけてきたため、対応に追われたのである。
何とか隙を見て水を流し込んで喉はうるおしたものの、食べ物の方は何も口にできなかった。
彼がひと息つけたのはパーティーが終わり、自室に引き上げてからである。
「お疲れさま」
どっかりとベッドの上に腰を下ろし、深々と息を吐きだしながらネクタイをほどく陸斗に薫がねぎらいの声をかけた。
「いや、ほんとに参ったよ。試合の時くらい大変だった……モーガンやマテウスはいつもあんな経験をしていたのか……」
彼の声には疲労がにじみ出ている。
ずっと世界二強として君臨してきた二人の強豪の偉大さを、意外なところで再認識させられた気分だった。
「それだけ大変なのはトップ選手の仲間入りしたということよね」
と薫は指摘する。
彼女はただ黙って彼を慰めるだけはなく、こうして彼にない考えを口にすることもあった。
「……そうだね。トッププロになりたいけど、それについてくるものはいらないってのはワガママすぎるよね」
プロの世界はフェアである。
十代の少年だからと言って勝てないわけではないし、責任が免除されるわけでもない。
「ええ。できるだけ私にだけ愚痴るようにしようね。私にならいくらでも言ってくれてかまわないから」
選手の愚痴を聞き、ストレス発散に貢献するのもマネージャーの仕事のうちということだろう。
陸斗は素直にうなずく。
「あと、料理はそろそろ届くはずよ」
「ああ、薫さんが手配してくれたんだ。ありがとう」
彼が礼を言うと彼女は苦笑して首を横に振る。
「大会の優勝者が料理を食べられないというのは、割と有名らしくてね。ホテルが別途優勝者専用コースを用意というのが、習わしになっているそうよ」
「そんな習慣が……今回はありがたいけど」
何しろ腹の虫が必死に自己主張をし続けているのだ。
ただ、一点だけ彼は不安を覚えたため確認する。
「ところで料理ってどこの国のやつ? まさかイギリス料理?」
「フランス料理、イギリス料理、日本料理から選べると言われたから、日本料理にしておいたわ」
微笑して話す薫の姿が、陸斗には女神のように映った。
「ありがとう!」
持つべきものは自分の好みをよく理解しているマネージャーだと、彼はかなり本気で思う。
ノックの音が響いて薫がドアを開ければ、ホテルのスタッフが二台の台車を押して入ってくる。
台車の上には銀色のドームカバーがかぶせられた食器が並んでいた。
日本料理にドームカバーは合わない気がした陸斗だったが、ホテル側の気遣いに対して野暮な感想だと自戒する。
(二人分来たのは確かめるまでもないな)
と彼は思う。
彼のマネージャーは自分だけ先に食べるような女性ではないからだ。
メニューは野菜と白身魚の天ぷら、イカそうめん、白身魚の焼き物、握り寿司に牛肉のステーキと白米までついている。
「う、うん……ちょっとボリュームが」
彼が食べられるものよりはやや多い。
「食べきれなかったら明日の朝ごはんにしましょうか。冷蔵庫に入れればひと晩もちそうなものは、食べるの後にして」
薫も苦笑し、二人はきちんとついている箸を使って料理を楽しむ。
魚は鮮度がよく、味もうすめだった。
「美味しいね。特に肉」
「さすが一流ホテルの料理ね」
二人は褒め合いながら食べ終える。
「疲れた時はお肉もいいでしょう?」
「本当だね」
薫の言葉に陸斗はうんうんうなずく。
一流ホテルだけにいい肉を使っているのだろう。
平凡な彼の舌は十分すぎるほど満足できた。
「陸斗君、今日はもう寝るでしょう?」
ついていた緑茶を飲みながら、薫が彼に問いかける。
「うん。さすがに今日はもうゲームをやる気力は残っていないよ」
すべての力を決勝ステージで使い果たしたと彼は笑った。
疲労感はいまだに残っているのだが、心地よさが勝っているのはやはりそれだけ優勝の喜びが大きいということだろう。
「エラプルを軽くチェックしたらシャワーを浴びて寝ようかな」
「その方がいいでしょうね。明日は朝、起こさないからゆっくり眠って」
薫の配慮に感謝しながらも、陸斗は断る。
「いや、いつも通りでいいよ。生活リズムはできるだけ変えたくないし」
彼は良くも悪くも頑固なところがあった。
だから彼女はくすりと笑って承知する。
「分かったわ。じゃあおやすみなさい」
「うん。薫さんもゆっくり休んで」
彼が知らないところで彼女は苦労しているだろうという思いから、いたわる言葉が生まれた。
「ふふ、ありがとう。でも私は大丈夫よ」
そして彼女は彼の前では見せようとしない。
選手にはプレーに集中してほしいからだ。
その想いが伝わるからこそ、陸斗はそれ以上は言わない。
ただ、一言話しておきたいことを口にする。
「ボーナス、払わせてもらうよ。ダービーの分」
「え? ああ、そういう話だったわね」
彼女は忘れていたような反応だった。
「その話はまた今度にして、今はもう休んでね」
「うん、おやすみ、薫さん」
薫が彼の右隣の部屋に戻ると、彼は立派なシャンデリアの下で携帯端末を取り出す。
新着メッセージは三件だった。
天塩、栃尾、アンバーからでいずれも
「優勝おめでとう!」
と書かれている。
アンバーから来ていたのは意外だったが、それだけにうれしい。
もちろん天塩と栃尾の二人のものも。
礼を送ると一分ほどで天塩から返事が届く。
(あれっ? ああ、もう十時を過ぎていたのか)
一瞬怪訝に思った陸斗だったが、すぐに納得する。
ロンドンが夜中の十時を過ぎていれば、今ごろ日本は朝の六時過ぎだろう。
朝が早い人は起きていても不思議ではない。
決勝ステージは午前からだったため、時差が八時間前後の日本では普通に観戦できたはずだ。
「全部見てたよ! 興奮した! 感動した!」
どちらかと言えばクールな文章が多い天塩にしては珍しく、大きい感情がこもっている。
それだけのプレーができたのだと考えれば、陸斗は今日の自分を褒めてやりたくなった。
散々称えられたのだが、親しい相手から言われるとなるとまた格別のうれしさがある。
「応援、ありがとう」
とメッセージを送れば「こちらこそ」と返ってきた。
そのうち、栃尾からもメッセージが届く。
「すごかったっ! カッコよかったよ!」
こちらも興奮冷めやらぬ様子が文字と端末画面越しに伝わってくる。
(もう一回同じことをやれと言われてもたぶん無理なんだが)
陸斗は喜びながらも、栃尾のテンションの高さに若干気おされて冷静な意見が頭に浮かぶ。
もっとも、このように謙遜した返事をしたとしても、栃尾も天塩も「そんなことない」と言ってくるだろう。
そのような展開が容易に予想できたため、礼を言うだけにしておく。
「早朝のニュースでも取り上げられているわよ。日本人選手としては二十数年ぶりの六大タイトル優勝だって」
と言ってきたのは栃尾だった。
「テレビをつけたら、どの局でもミノダトオルがダービー制覇って言っているよ。日本全国で報道されてそう」
天塩もこのような報告を送ってくれる。
(日本のマスコミもけっこういたもんな、そう言えば……)
陸斗は今更ながらニュースが伝わる速さを思い知った。
「よかったら音声を伝えようか?」
天塩が言うので通話を選ぶと、向こうから男性アナウンサーの声が陸斗の耳朶を打つ。
「緊急特番でお伝えしております。ロンドンで開催されていたWeSAツアーのタイトル戦【ダービー】で、日本人のミノダトオル選手が見事優勝を果たしました。日本人選手としてはカンバラ選手以来となる……」
「ありがとう。すごいことになっているみたいだな」
陸斗が礼と感想を言うと、栃尾の笑い声が聞こえる。
「やったのは富田君なのに、どうしてそんな人事みたいなのよ?」
「いや、何でだろう? 実感はあるんだけど、ニュースで聞くとなぜか他人のことのように感じたんだよね」
彼は自分でもよく分からない感覚に首をひねった。
「そうなの? 案外そういうものなのかしらね」
栃尾は肯定的な返事をくれる。
「ところで富田君、そっちだと夜中なんでしょう?」
「ああ。そろそろ寝た方がいいかなと思ってはいるんだよ」
そして彼女の冷静な問いかけは今の陸斗にはありがたい。
睡魔が笑顔で彼の肩を叩いていたからである。
「そう。疲れているところごめんなさい。また後日ね」
「うん。気を遣わせちゃって申し訳ない」
「いいのよ、謝らないで」
彼の謝罪に栃尾はクスリと笑って応じた。
「おやすみ」
二人はほぼ同時にそう言って通話を切る。
陸斗は携帯端末を机の上に置き、シャワーを浴びる用意をはじめた。




