82話「コーチの名前は」
陸斗は六月の下旬、ダービーに備えて現地時間の二十一時にヒースロー空港へ到着する。
予定では近くのホテルで一泊し、明日聖寿寺が用意してくれたコーチと顔を合わせることになっていた。
「結局、コーチの名前は教えてくれなかったんだよね。どうしてなんだろう?」
陸斗は薫に言っても仕方ないのは百も承知で、疑問をぶつける。
「本当よね。何もこの期に及んで隠さなくてもいいのに」
薫は彼の気持ちはもっともだと肯定した。
「よっぽど大物なのかな?」
「あるいはまだ名前が知られていない人かしら」
二人は歩きながらいろいろと予想しあう。
「アンバーにも、いい加減教えろってせかされているんだよね。さくらふじって店は知っていたみたいだけど。アメリカにもあるから」
陸斗は苦しそうな顔でため息をつく。
今回の待ち合わせ場所は日本料理屋さくらふじという店の前で、アメリカにも姉妹店があってアンバーたちも名前は知っているだろうとのことだった。
「ああ。アンバーとモーガンも合同でいいのよね? となると、アメリカ人でも知っていて、私たちも知っている人かしら。でないとふたりに対して失礼だと思うし……」
薫が言うと、彼はうなずきながらも別の意見を口にする。
「もしかすると、俺たちでも知っているアメリカ人なのかもしれないね。聖寿寺さん、あれでけっこうお茶目だからなぁ」
「……まさかモーガン本人とか? それなら疑問がほぼ氷解するわ」
彼女の言葉から飛び出た予想に陸斗は思わず足を止めた。
「なるほど。モーガン本人がコーチってオチか。その発想はなかったよ」
うなって感心する彼に対して、薫はあわてる。
「まだ決まったわけじゃないし、感心しないで」
と言いつつ、ふたりはホテルにチェックインし、隣の部屋で別れた。
翌朝、合流するとホテルのレストランで和食を選ぶ。
「うん、ご飯もみそ汁も、焼き魚も美味しい」
「日本食を選べるホテルにして正解だったわね」
ふたりは笑顔で舌鼓を打つ。
朝食を食べ終えるとすぐにチェックアウトして、ホテルの外に出る。
「トオル・ミノダ様ですね」
スーツを着た中年のイギリス人男性が、陸斗に話しかけてきた。
「ああ。今年もお世話になります」
彼は男性と笑顔で握手をかわす。
この男性はWeSAが手配してくれたハイヤーの専属ドライバーで、去年も彼と薫を送迎してくれたのだ。
「目的地はチェルシーのナイツブリッジ地区、日本料理屋さくらふじって分かりますか?」
「ええ。存じておりますよ。かしこまりました」
詳しい住所も教えられていたのだが、説明の仕方が分からない陸斗はドライバーの返答にホッとする。
一部の選手たちはこのようにタクシーや公共交通機関代わりに利用することもできた。
陸斗はランキング的には対象外だが、ロペス記念八位という結果で条件を達成している。
ふたりを乗せたハイヤーはなめらかに発車した。
男性は何も話しかけてこず、運転に集中している。
イギリス人ドライバーの特徴なのか、それともこの男性の個性なのかまでは分からない。
(それにしても聖寿寺さんは、何で料理屋の前を指定したんだろう?)
陸斗はそれが不思議だった。
アメリカのさくらふじはいい店だったが、ロンドンで待ち合わせ場所に指定するならばたくさんの選択肢があるはずである。
それを差し置いてあえて選んだとすれば、何か意味があるのだろうか。
彼らを乗せたハイヤーがさくらふじの店先についた時、アンバー、モーガン、聖寿寺の三人はすでに来ていた。
「お待たせしました」
あわてる陸斗と薫に聖寿寺は笑う。
「いや、十分前だよ。我々が早く着きすぎたのだ」
「ハーイ、久しぶりね、トオル」
アンバーは太陽のような明るい笑顔で陸斗にあいさつし、その隣でモーガンが威嚇するようにじろりとにらんでくる。
「ああ。ミスターモーガンもお久しぶりです」
陸斗がおそるおそるあいさつすると、モーガンは不愛想にうなずいたのみだった。
「もー、おじさま。それじゃ怖がられるわよ」
アンバーが叔父をたしなめたが、本人はくだらないと鼻を鳴らす。
「こいつになら、怖がられても一向にかまわん。それよりもミスター聖寿寺、姪たちを指導するコーチとはいったい誰なのだ? いい加減教えてもらえないか?」
モーガンではなかったのかと陸斗と薫が思っていると、聖寿寺は首を縦に振って店の扉を開ける。
「ええ。ではそろそろ紹介しましょう」
彼が中に入ってしまったため、アメリカ人たちと日本人たちは怪訝そうにしながらも後に続く。
店のカウンターの手前から二番めの席には、白い襟つきシャツを着たひとりの老年の男性が座っていた。
彼こそが聖寿寺が用意したというコーチなのだろう。
だが、陸斗とモーガンと薫は男性をひと目見て、絶句してその場に立ちすくむ。
「なっ……」
分からなかったのはアンバーひとりだけらしく、不思議そうに周囲の人間の顔を順番に見ていく。
聖寿寺はいたずらが成功した悪童を思わせる顔つきで、男性の名を告げる。
「今回君たちのコーチを引き受けて下さった、ダイキ・カンバラ氏だ」
「ダイキ・カンバラッ!?」
アンバーが悲鳴のような叫びをあげた。
「三大レジェンドの……?」
カンバラは彼女の声に呼応するように立ち上がり、口を動かす。
「初めましてだな。コーチと言うと少し違うかもしれないが……紹介にあずかったダイキ・カンバラだ。毎日来られるわけでもない、短い間だがよろしく」
落ち着いた重厚な空気をまとったあいさつに、陸斗は我に返って自己紹介をした。
「は、初めまして。ミノダトオル……トオル・ミノダです。よろしくお願いします」
アンバーとモーガンも名乗ったところで、彼はアメリカ人たちに聞く。
「モーガンとアンバーも知っていたんですね」
「カンバラの名前を知らない方がおかしいでしょ」
アンバーがまだ衝撃から立ちなおれていない顔で言うと、モーガンも同意する。
「カンバラなら誰も知っている名前だ。知らない奴はプロではないどころか、ゲーマーですらないと言える」
カンバラダイキが残した業績はそれだけ偉大であった。
「ふむ。モーガンの世代だけではなく、若者にも知られているとなると、私も捨てたものではなさそうだな」
伝説と語られる偉大な選手は、淡々として話す。
「何をおっしゃる。カンバラインシデントはステーツで知らない者がいないほどに、有名なのですよ?」
モーガンは敬意を込めて彼に言う。
「カンバラインシデント……カンバラ選手があまりにも強すぎて誰も勝てないことから、WeSAが大会ルールを大きく変更しようとし、反発した選手たちがストライキをしたアレか。アメリカ人はそう呼んでいるのか」
聖寿寺がなつかしそうな目でつぶやいた。
「結果、カンバラはルールではなく実力で倒すって宣言してルール変更を阻止した選手が、本当に決勝でカンバラ選手を倒して連覇を阻止したっていう、フィクションとしか思えないエピソードですよね」
陸斗があこがれの気持ちを込めて言うと、カンバラは気まずそうに咳ばらいをする。
「もう昔の話だ。老人をからかうのはよしてくれ」
そう言ってから彼は少しだけ感慨深そうな表情になった。
「ただ、よいライバルに恵まれたと思う。私ひとりではおそらく同じ結果にはならなかった」
彼の視線はやがて陸斗とアンバーに移る。
「君たちもそうなればいいと考える。モーガンとマテウスのように」
「ええ、そのつもりです」
アンバーはにこやかに言い切り、陸斗はやや自信なさそうに答える。
「そうなれたらいいのですが」
「自信がないのかね?」
カンバラの問いに陸斗は小さくうなずく。
「彼女と対戦で負けてばかりでして……いったい何が違うのか。貪欲さが足りないと指摘されたけど、それが理由なのか。自分ではよく分からないのです」
「ハングリー精神が足りない。日本人が外国人に負けるとよく言われる、使い古された言葉だな」
カンバラの言い方からすると、懐疑的らしい。
聖寿寺が老人に言う。
「説明したように、彼はどうも行き詰まりを感じているようでしてね。カンバラ氏から見れば、何か気づくこともあるのではないかと」
「ああ。やれるだけはやってみよう。人に物を教えるのは初めてだから、あまり気軽なことは言えないが」
「よろしくお願いします」
全員が唱和し、モーガンとアンバー以外の面子がカンバラに頭を下げる。
日米の習慣の違いがよく分かるひと幕だった。




