51話「キャンプについて」
陸斗の心境を把握していたわけではないだろうが、茂沢は咳ばらいをひとつして話を切り出す。
「ところで確認しておきたいんだが、今度の赤石キャンプ合宿にお前は参加できそうなのか?」
「はい。できると思いますよ」
彼は即答する。
その次の週となるとアルテマオンラインのイベントに参加しなければならないため、本当に都合がよかったのだ。
「そうなのか? それならよかった」
彼の返事を聞いた茂沢は安心した表情になる。
「何か分からないことがあったら佐野に聞いておけ」
「佐野?」
陸斗が怪訝そうに首をかしげれば担任は気の毒そうな目で彼を見た。
「お前の隣に座っている女子の名前だよ」
「あっ……」
反射的に声が漏れる。
どうやって隣のあの子の名前を知ればよいのかという問題は解決したが、今この場が気まずい。
それでも担任教師相手だったからまだマシだと彼は自分自身に言い聞かせる。
「覚えていなかったのか」
「ごめんなさい」
茂沢の声に責めるような色はなかったものの、陸斗は罪悪感に耐えかねた。
「俺に謝ってもな……まあ佐野を傷つけずにすんでよかったじゃないか」
「ありがとうございます」
彼は担任のフォローに礼を言う。
たしかに本人に名前を覚えていなかった事実を知られずにすんでよかった。
「次の欠席はいつになりそうなんだ? ダービーか?」
「そうですね。そうなると思います」
茂沢の問いに陸斗はうなずく。
ダービーが開催される時、まだ学校は夏休みになっていないのだ。
また公欠制度を利用することになるだろう。
「ダービーか……そろそろマテウスとモーガン以外の選手に優勝してほしいな」
茂沢はワクワクしているかのような顔でにぎり拳を作る。
彼が言うようにここ数年はマテウスとモーガンの二人だけで優勝を独占されていた。
風穴を開ける選手が出てきてほしいと思っているのはきっと彼だけではないだろう。
「そうですね。僕も止めたいと思っている一人ですよ。今はまだなかなかそうはいかないですけど」
担任の言葉に触発されたか、陸斗は思わず本音をポロリと漏らす。
教え子の気持ちを聞いた茂沢はうれしそうに顔をしわくちゃにして、彼の左肩にぽんと手を置く。
「おお、その意気だぞ。簡単に勝てる相手じゃないってことくらいは俺でも分かるが、勝ちたいって気持ちがないと余計に勝てないもんだとも思うぞ」
「はい」
モーガンやマテウスに勝ちたいと言っても無謀だといさめたり、馬鹿にしなかったどころか、この反応である。
陸斗にしてみればとてもうれしいことだった。
「俺は見守ったり応援したりしかできんが……」
「いえ、大丈夫です。それで充分です。どうもありがとうございます」
申し訳なさそうな担任に彼はそう答える。
一人の教師が一人の生徒に肩入れしすぎるのはよくないだろう。
何となく程度であれば陸斗にも理解はできる。
「そうか。じゃあそろそろ戻ってくれ」
他のクラスの担任教師が彼らの横を通りすぎ、時計を見なくてもおよその時間が想像できた。
「はい。ありがとうございました」
彼がドアを開けて中に入ると付近の生徒が話しかけてくる。
「先生、何だったの?」
驚いたものの、話すきっかけがあれば同級生に話しかけるのは当たり前だ。
そのことに気づいた陸斗は自然体をよそおうと努めながら、返答する。
「もう大丈夫なのかってことと、キャンプのことで分からないことがあったら誰かに聞けってさ」
これは水谷たち用として考えたものだ。
「ああ、そっか。富田君、いなかったもんね」
質問してきた女子と聞き耳を立てていた周囲の生徒たちはうまい具合に納得してくれる。
ほっとして席に戻ると隣の女子に同じことを訊かれたため、同じ内容をもう一度繰り返す。
「ふうん。何なら私に聞いておく? 私と富田君がペアで行動するし」
よく知らない女子と会話するのは正直緊張してしまうが、聞いておかないと後で困るに違いない。
陸斗は試合に挑む時のような気分で首を縦に振る。
「うん、じゃあ休み時間にでもお願いしてもいいかな。佐野」
「ええ、いいわよ」
佐野はにこりと笑う。
陸斗はその笑顔にどぎまぎしながら、茂沢に名前を教えてもらっておいてよかったと思った。
一時間めは数学である。
チャイムが鳴る少し前、佐野が彼に話しかけてきた。
「数学、前の時間休んでいたけど大丈夫?」
「うん、水谷たちがフォローしてくれたからね」
彼の言葉を聞いた佐野は理解の光を黒い瞳に浮かべる。
彼らとこの間一緒にご飯を食べていたことを思い出したのだろう。
「そう、分からなかったら聞いてね」
彼女がそう言ったところで数学教師が入ってくる。
話は中断し、二人は前を向いた。
授業は何とかついていける。
水谷たちに範囲を教わり、自分でもやっていたおかげだろう。
休み時間になると教科書とノートをしまった佐野がさっそく彼に声をかける。
「キャンプの件だけど、私たち以外は一組の二人と組むことになると思うの」
「何で一組なんだろうな?」
思っていた疑問を彼が口にすると彼女はすぐに答えた。
「くじ引きらしいよ? 担任の先生同士で」
なるほどと思ったものの、「どうして他のクラスのメンバーと組ませるのか?」という疑問の答えにはなっていない。
だが、この様子だと彼女も知らないのかもしれないと思った。
(そして他に聞きたいこと、特にないなあ)
さすがにしおりを読めば分かることがほとんどだろう。
「そうなんだ。他はそうだね、からないところがあるかどうか、それがまず分からないから」
彼が困惑した顔で言うと佐野はくすりと笑った。
「そうかもね。性急に言っちゃってごめんなさい」
「いや、佐野は悪くないよ。俺が休んだせいで迷惑かけちゃっただろう」
他のメンバーはペアの相手と打ち合わせなり、相談なりする時間があったのだろうが、彼女は陸斗が休んだせいでできなかったのだから。
「別にそこまでは思っていないけど」
佐野は目を丸くしていた。
どうやら彼女が彼の世話を焼いていたのは、純粋な親切心だったらしい。
内心気まずく思ったものの、吐いた言葉は取り消せなかった。
「そっか。迷惑をかけていないかなって心配していたんだよ」
「大げさね」
佐野は右手で口元を隠しながらクスクス笑う。
愛嬌のある笑顔に彼はようやく安堵する。
「逆に俺に聞いておきたいことってない? ペア同士、知っていた方がいいこととか」
こうやって彼女に聞いた方が早いのではないかと、ふとひらめき尋ねてみる。
「えーっとね。料理を作ったり行動を一緒にするのが一組のペアを含めた四人なのよね。体力は男子だから大丈夫として、料理ってできる?」
佐野はまっすぐに彼を見つめて問いを放つ。
一緒に料理をする相手のスキルを知っておきたいというのは当然の考えだろう。
陸斗は恥ずかしいのを我慢して返答する。
「皮むき器を使ってリンゴや野菜の皮をむいたことさえもないよ」
正確にはプロ選手になる前には多少やったことはあった。
しかし、下手な期待は持たれない方がよいと判断したのである。
「えっ、そうなんだ」
彼女は意外だったらしく絶句してしまう。
「でもまあ、男子だし仕方ないのかな」
数秒の間を置いて言語化されたフォローが、陸斗の耳に痛く突き刺さった。
「と、当日俺は何をやればいいんだ? 食器洗いくらいはやるよ」
彼なりの意思表示だったが、佐野の反応はにぶい。
「うーん、気持ちはうれしいけど、食事のメニューが書いていないからね。たぶんカレーとか比較的難易度が高くないものになるんじゃないかなって気はしているけどね」
「そうか」
カレーが難しいのか簡単に作れるものなのか、それさえも陸斗には判断できなかった。
彼女が難しくないと言うならば従おうと思う。
「カレーなら皮むきか……?」
「やったことあるの?」
彼の自問のような言葉を耳ざとく拾った佐野が小首をかしげる。
「小学生のころにちょっと」
陸斗は本当のことを言ったものの、やはり気恥ずかしさはぬぐえなかった。
「そうなんだ。皮むき器で? それとも包丁?」
「皮むき器を使ったと思う。親の手伝いだったはずだし」
記憶があやふやになっていてあまり自信はないのだが、一人でやった覚えはない。
すぐ近くに母のまなざしがあったことはたしかだった。
「そうなんだね」
佐野は黙って聞き役に徹して何も問いかけてこなかったが、これは彼にしてみればとてもありがたい。
小学生のころは手伝っていたのにどうして今は手伝っていないのか?
などと言われても答えられなかったからだ。




