42話「母と子」
三人はだらだらと二時間ほど雑談していたが、話題も尽きたためにお開きとなった。
「富田はこの後どうするんだ?」
「一回家に帰るつもりだよ」
立ち上がりながら放たれた水谷の質問に陸斗は肩をすくめて答える。
実のところ彼はゴールデンウィーク期間中に一度も帰宅していない。
母親のためにもそろそろ帰っておかなければならないだろう。
「ふうん」
何も嘘はついていないのだが、水谷と小林には意味を把握しかねる返事だった。
「今日はありがと。また学校でな」
そのことに気づかず彼は礼を言って別れを告げる。
「おう、またな」
小林たちは引き止めなかったが、二人きりになったところで首をかしげあう。
「あいつ、たまに意味が分からんことを言う時がないか?」
水谷がそう言うと小林が声をひそめる。
「バイトが忙しくて帰れなかったのか、それとも入院でもしていたかだろう。本人が言いたくないことは、詮索しない方がいいぞ」
「分かっているよ」
友達の忠告ともとれる言葉を聞いた水谷は肩をすくめた。
彼なりに反省したという意思表示であるため、小林は口をつぐむ。
一方そのころ陸斗は店の外に出ると通行の邪魔にならない場所まで移動し、そこで薫に向けてメールを送った。
昼に食べたもの、夜にできれば食べたいもの、さらに一度自宅に帰るつもりでいることなどである。
それをすませると携帯端末をズボンのポケットに入れて、バス乗り場に向かって足を動かす。
(今日は楽しかったなあ)
彼にとって同世代の男子と雑談を長時間するというのは初めての経験だった。
年が近い男の知り合いと言えばヴィーゴがいるが、彼にしてみればライバル同士という気持ちが強い。
同じ道を選んだ仲間には違いないものの、その認識は稀薄なのである。
バス乗り場では九人の老若男女がすでに列を作っていた。
どこへか向かうのか、それともどこからの帰りなのだろうか。
様々な年代、服装の人々の姿を見てぼんやりと益体もないことを考える。
目的のバスがゆっくりとやってきた時、彼の携帯から通知音が鳴った。
薫からの返事で「今なら家に由水さんがいるからちょうどいい」と書いてある。
(あっ、今日は母さんがうちにいるんだ……)
これを見て初めて母親がいる日なのだと思い出した。
単純に彼が忘れていただけで、別に母の予定を知らされていなかったわけではない。
(たしかにちょうどいいや)
今日仕事が入っていないならば久しぶりにゆっくり顔を合わせられるというものだ。
何とか元気でやっていると直接伝えておきたいというのが、彼なりの孝行心である。
もっとも夜勤明けならば今ごろは仮眠をとっているのだろうが。
のんびり来た時とは反対側の景色をながめる。
駅の近くはマンションやアパートが多く、それを狙ったようにコンビニ、ドラッグストア、スーパーが並ぶ。
駅から遠ざかるにつれて個人経営の病院、整体院といった医療関係が目立ちはじめる。
(スーパーは駅から近い方が便利だから人は集まるけど、病院は多少不便でもみんなは来るってことか?)
そのようなことを漠然と考えた。
まだ十五歳であっても厳しい社会の荒波に身をさらしているせいか、ふとそのような思考になる時がある。
成長しているのか、考えなくてもよいことの内容が変わっただけなのか、本人には判断つかないが。
陸斗の家はごくありふれた一戸建てだ。
玄関の右側のガレージは白いシャッターが降りているが、これだけでは母が在宅かどうか分からない。
反対側の猫の額のような庭に面した窓が少しあいているため、おそらく仮眠中なのだろうと予想する。
財布の中に入れていたカギを取り出し、玄関の前の片開きのアルミ製伸縮ゲートにつけられている南京錠を開けた。
そこで持つカギを変えて玄関のカギも開けて取っ手を引く。
「ただいまー」
返事はないと分かっていても母がいる時はつい帰宅のあいさつをしてしまう。
彼自身不思議に感じている行為ではあるものの、別に悪いことではないと思い止める努力はしていない。
靴を脱いでまっすぐ廊下を進み、キッチンの白いスライドドアを横に滑らせる。
四角い机の清潔な白いテーブルクロスの上には何もない。
(書き置きがないなら今夜は仕事が休みなんだな)
仕事がある場合は必ず書き置きを残す母の性格を考慮して判断する。
メールの方がよいのではないかと思うのだが、書き置きにするのが由水のこだわりのようだった。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して自分の黒い湯飲みにそそぐ。
さほどのどがかわいているわけではなかったが、何となく欲しくなったのだ。
冷えた水の影響で頭まですっきりすると陸斗はこの後どうするか迷う。
通例ならばまた借りているマンションに移動してVRゲームをするのだが、それをやるならば薫に連絡して迎えに来てもらわなければない。
移動手段が理由ではなく、彼女との契約上の問題だ。
(それは申し訳ない気がするしな)
大体、すぐに練習に戻るならば何も母と会える確率が低い今の時間帯に家に帰って来ず、もう少しずらせばよかったのだろう。
彼は自分でも自分の心理を正確に把握していなかった。
(まあいいか)
頭を横に振り、まだ水が残っているペットボトルを冷蔵庫の中に戻すと二階にある自分の部屋に行く。
必要最低限なものしか置かれていない殺風景な部屋の机の上に異質なものが存在している。
それは母のまるい字で「ロペス記念お疲れさま」とだけ書かれた一枚のメモ用紙であった。
わざわざ彼の部屋にメモを残すあたりがとても母らしいと陸斗は思う。
目を細め頬がゆるまった自覚もせず、彼はきちんと整えられたベッドの上に寝転がる。
「おっと」
声を漏らしながらポケットから携帯を取り出し、薫に「自宅で少し仮眠をとる」とメールを送った。
一分未満で承知したと告げる返事が届く。
それを目で確認して携帯をベッドの上の宮棚に置て目を閉ざす。
彼が再び現世に帰還したのはたっぷり二時間ほど経過してからだった。
携帯の画面を見てそれに気づくと、思わず時刻が表記されている部分を凝視してしまう。
(マジか……疲れが溜まっていたのかな)
仮眠で二時間も眠ったのはめったにないことである。
見えない疲労や疲れやすい生活習慣は彼にとって大敵であるのは今さら言うまでもない。
(やっぱりロペス記念の影響かな。それとも友達と遊びに行ったのが初めてだったから?)
とっさに思い浮かぶ原因はふたつであった。
彼が緊張で神経をすり減らしそうなのはそれくらいしか心当たりがない。
昨晩日付が変わるまでゲーム三昧だったのは毎日ではないにせよ、よくあることである。
眠気覚ましのストレッチをすませると身体が水分を欲したため、キッチンへと向かう。
ところがキッチンには先客がいた。
彼と同じように寝起きだと一目瞭然なぼさぼさになった黒髪と、黒と青の縞模様の長そでしゃつとジーンズをだらしない着こなしをしている四十歳前後の女性である。
「母さん、起きていたのか」
「お? 陸斗、お帰り」
息子の第一声を聞いた由水は、寝ぼけまなこを彼に向けてそう言う。
まだ眠さが残っていることを感じさせる声色だった。
「あ、うん、ただいま」
母のマイペースさをよく知っている彼は何も言わず、返事だけをする。
「今日はこっちにいるの?」
「ああ、たまには親孝行でもしようかと思って」
「ふーん」
息子の言葉に気のない反応をすると大きなあくびをした。
気のない返事をしただけの時は話を聞くつもりだというサインである。
独特とも言える母親の性格を知らなければイラッとしていたかもしれない。
母と子は仲よくコップに水を入れながら向き合う形でテーブルに腰を下ろす。
「じゃあロペス記念の結果までは知っているからね。その後、こっちに帰って来てからのことを聞こうかな」
由水にうながされた陸斗はグラナータ、アルジェントの名前は伏せつつ複数の友達ゲーマーとゲームを楽しんでいたこと、今日は友達とハンバーガーを食べてきたことを語る。
黙って聞いていた彼女はホッと息を吐き出す。
「友達を作るのに苦戦していると思っていたけど、何だ作れたんじゃないの」
安堵があふれた表情を見て、彼はやはり心配させていたことを痛感する。
それと同時に今日報告しておいてよかったとも思う。
「まあ何とかね」
自分から輪に入っていったわけではなく、思いがけない原因があったのだから頑張ったと胸をはってもいいのか微妙だ。
生真面目なところがある陸斗はそう考えてひかえめな反応をする。
そのような息子を見る母の目は優しい。
「わざわざ報告ありがとう。ところで宿題はやったの?」
「学校には免除にしてもらった。ちょっとラッキー」
彼がいたずらが成功した子どものような笑みを浮かべると、由水はそっと息をはく。
「それなら宿題をちゃんとやれとは言わないけど、授業についていけるくらいには勉強もやっておいた方がいいよ。少なくとも英語はね」
「うん、でも学校の勉強って何の役に立つんだろう?」
陸斗は一度訊いてみたかった問いを放つ。
別に学校に行くのが嫌だというわけではないし、友達ができたのはうれしい。
ただ、母が一体どのような理由ですすめたのか一度訊いてみたかった。
「あんたにとってはあまり意味ないかもね。私が思っている学校ってのは土台作りなのよ」
「土台作り……?」
息子の問い返しに由水はゆっくりうなずく。
「自分の嫌いなことが分かり、好きなもの、得意なものを理解する。人間関係についても学べる。何になるにせよ必要最低限の基礎は身につく。あってよかったと実感することはないかもしれないけど、もしなかったとすれば困る。そういうものじゃないかな」
「……たしかに嫌いなもの、苦手なものは分かるし、対人能力の低さもよく分かったなぁ」
母の言葉に陸斗は納得したような顔でつぶやいた。
それに対して浴びせられたのは嘆くような視線である。
「何かにつけてネガティブな発想になるのがあんたの悪い癖よね。まあ、慎重で用心深くて自分なりに何でも分析しようってするのは、悪いことじゃないけど。少なくとも考えなしで無鉄砲よりはずっといいし」
「あ、うん」
実の母だけあって彼のことをよく理解している上に手厳しい。
欠点をあげつらうばかりではなく評価もしてもらえたはずだが、何故か喜ぶ気にはなれなかった。
「だから競争が厳しいプロの世界じゃ通用しないんじゃないかって不安だったんだけどね」
由水の黒い瞳には誇らしそうなあたたかい色が浮かぶ。
「何とかやっているみたいね」
「うん、一応は」
WeSAツアーの一般戦で優勝し、世界ランカーに名前を連ね、タイトル戦にも出場している選手を「プロで通じない」とは誰も言えないはずだ。
自分を心配してくれている実母相手に強弁する気になれなかったが。
それでも安心してほしいという気持ちもあったため、ひかえめ(?)な主張を試みる。
「こないだ優勝した大会の賞金と、ロペス記念八位の賞金を合わせると……」
「そういうのはいいから」
しかしながら途中で由水はさえぎってしまう。
「自分のためにとっておきなさい」
「えっ? でも知り合いのプロも親にお金を送っているって言っていたよ」
親孝行をやるのもプロの義務の範疇だと言われて納得したものだ。
全額家に入れる必要はないというならば分かるが、一円も受けとってもらえないのも困る。
陸斗は言葉にしなかったが顔には出てしまっていた。
「分かった。じゃあ、あんたが高校を卒業したら受けとってもいいわ。あんたまだ十五歳でしょ? 私の心配をするよりもまず自分が高校を卒業できるのかを心配しなさい」
「うぐっ……」
たしかに勉強はそこまで得意ではない。
陸斗は言葉に詰まってしまう。
「ちょ、ちょっと勉強もしてこようかな」
苦しまぎれにそう言い残し、彼は自室へと退散する。
それから一分ほど経過してからそっと薫がキッチンに姿を見せた。
母と息子の二人だけの方がよいだろうと気を利かせていたのである。
「あの子に孝行してもらわなきゃいけないほど、私はまだ年食ってないのにねえ。まあ親不孝者なんかよりは万倍マシだけどさ」
由水の言葉は独り言のようでもあり、薫への愚痴のようでもあった。
彼女の視線はやがて息子のマネージャーをとらえる。
「薫さん、あの子のこと、よろしくお願いしますね」
「はい」
頭を下げる母の手をそっと握りながら、薫は笑顔で答えた。




