20話「決勝の朝」
陸斗が目覚めたのは午前七時五十分だった。
学校がある日と比べるとかなり遅い。
それでも寝すぎたということはなく、頭はすっきりとしている。
(よし、これなら十分戦える)
少なくともベストを尽くしたと胸を張れるような戦いはできそうだ。
彼は己のコンディションを軽く自己分析して、そう安心する。
薫が起こしに来る前にベッドから出て、服を着替えて顔を洗う。
ベージュブラウンのカーテンを開けると明るい光が差し込む。
太陽は五月のニューヨークの空をのぼってきていて、歴史を感じさせる建物を優しく照らしている。
eスポーツの戦場は屋内だからどのような天候でも関係ないのだが、それでも決勝らしいよい朝だと陸斗は感じた。
八時ちょうどに薫が朝食を持ってやってくる。
今朝のメニューはベーコンエッグ、イチゴジャムがぬられたトースト、海藻サラダ、プルーン入りヨーグルトだった。
それを味わった陸斗は彼女に礼を言って、一言つけ加える。
「白いご飯もみそ汁は毎日食べなきゃ嫌だってほど好きじゃないはずなんだけど、何でこう海外に来ると食べたくなるのかな」
「郷愁かしら? 好きな時に食べられないからってのはちょっと違うわよね。こっちにも日本食を食べられるところはかなり多いし」
薫は小首をかしげた。
昔のアメリカはどうだったのか知らないが、現代のアメリカでは日本人のオーナー兼コックがやっている日本食専門店は少しも珍しくない。
陸斗が希望すれば食べる機会は作れるはずだ。
それなのにもかかわらず彼が一度も希望したことがないのは、ぜひ食べたいという強い気持ちを抱いたことがないからである。
ただ、食事中にばくぜんとそのような気分になる時があった。
彼女もそのような微妙な感覚を理解できているからこそ、日本食をあえて選ぶようなことはしてこなかったのだが、気持ちが強くなってきたのであれば考えを改める必要がある。
「どうする? 一回くらい行ってみる? このホテルから徒歩数分の距離にもあるはずよ」
「うーん……」
陸斗は一分ほど悩んでから答えた。
「じゃあ明日にでも行ってみようかな」
決勝ステージは午後二時からで、その二時間前にコースが発表される。
決勝が終わった後はセレモニーがあり、スポンサーも参加する立食式パーティーというスケジュールだ。
とても日本食専門店に食べに行くヒマなどない。
大会前のパーティーとは違い、決勝ステージの後のパーティーは選手の参加は義務付けられている。
正確には決勝ステージ進出者全員であり、グループステージ敗退者は任意なのだが参加率は高かった。
タイトル戦のスポンサーになるような企業は、選手個人のスポンサーもやっているところが多い。
そのせいで少しでも顔つなぎをしておきたい選手は自然と集まるのである。
食事を終えた陸斗はゴーグル型VR機を装着して、バトルサーキッツを起動させた。
決勝に向けた最後の調整である。
ゴーグル型はフルダイブタイプではないため厳密には別物と言えるが、それでも軽い調整には十分役に立つ。
現ランキング一位のマテウスはいわゆる万能型で、どのゲームもまんべんなく強い。
レースゲームでも隙らしい隙はなく、陸斗単独で倒すのは容易ではない難敵だ。
二位のモーガンは割と好不調の波があり、あっさり敗退してしまうこともある。
その代わり得意ゲームでは滅法強い。
レースゲームはそこまで得意ではないのが救いだが、その分マテウスがより脅威になってしまうという見方もできる。
三位から十位くらいまでは割とよく入れ替わり、大きな実力差があるとは言いがたかった。
だからこそ陸斗にもチャンスはあると言えるし、彼はそのつもりでいる。
(現実的に言えば十位以内入りを目指すってところになるかな)
彼の現在のランキングとポイントからすれば、ロペス記念で優勝すれば十位入りは射程圏だ。
十一時半になるとゲームを終了して大きく背伸びをし、それから肩甲骨ストレッチをおこなう。
ゴーグル型ならば装着したままある程度動き回れるのだが、陸斗はついついゲームに熱中してしまう癖があった。
陸斗がストレッチを終えたころ、薫は簡易キッチンで料理を作ってくれている。
小松菜としらすのチャーハンにインスタントのワカメスープをつけてくれた。
「さすがの薫さんも簡易キッチンじゃこれが限界か」
彼が口元をゆるませながら言うと、彼女はじろりとにらむ。
「決勝の前はこういう食べものがいいって言っているの君でしょ?」
「はーい。いつもありがとうございます」
反撃を食らった陸斗はあっさりと白旗をふる。
本気で言ったわけではなく、軽いじゃれあいなのだ。
これは緊張をほぐす儀式のようなものでもあるため、薫も嫌な顔をせずにつき合ってくれる。
専属マネージャーとして実にありがたい女性だと彼は思う。
「それにしてもコースが直前発表だなんて。もうちょっと何とかならないのかしらね」
薫はそうつぶやく。
ロペス記念のシステムは選手やその関係者からの評判はあまりよくない。
それでもこのシステムは一般視聴者からは割と好評を得ている。
「まあどのタイトルも同じシステムだとつまらないっていう気持ちは、分からなくもないけどね」
陸斗はあいまいな反応を示す。
純粋な観戦者としては気持ちは分かるが、出場する身としては困る。
そのような複雑な心境であった。
「グループステージの総計視聴者数は八千万を超えたみたいだしね。それだけの視聴者から人気があるんじゃ変更しにくいかしら」
WeSAのツアー運営の大きな柱が試合の放映関係の収入である。
数千万から数億もの視聴者がいるからこそ放映権料が高くなるし、スポンサーもつきやすい。
そのためわざわざ変更されるとは考えにくかった。
「そうだろうね。別に健康的な被害があるわけでもないし」
ただ事前にコースの準備ができないというだけで、被害と呼べるものはまるでない。
もしあれば選手たちのメディカルチェックを担当する医師たちから警告が発せられるだろう。
そうでないのだから抗議したところでプロたちのワガママで片づけられる。
「まあ条件は他の人と同じだし」
全てを理解しているわけではないが、陸斗は気楽な口調で応じた。
チャーハンとスープをたいらげた彼は流しのところに食器を運ぶ。
その後で携帯端末をチェックする。
そろそろ決勝ステージのコースが発表される時間だった。
WeSAからの通達がまさかメールで来るとは、関係者以外はきっと信じないに違いない。
陸斗は正直そう思っている。
やがて通知音とともにメールが届き、それを開く。
定型文は読み飛ばして重要な部分だけ見ると「アンゼ山岳」と書かれている。
「うわっ……アンゼ山岳かよ」
彼は思わずうめいてしまう。
通称山岳と呼ばれるコースは曲がりくねった山道をひたすら登っていくコースだ。
妨害技が禁止されている数少ない難関である。
タイトル戦の決勝にふさわしいコースと言えばたしかにそうかもしれない。
「世界ランカー相手に山岳……」
陸斗はタフになりそうな展開を思い描き、げんなりとしてしまった。
(いや、弱気になったらだめだ。きっとみんな似たような気持ちのはずだ)
そう自分に言い聞かせる。
試合会場には十五分前に移動完了しておいた方がよいのだが、このホテルから試合がおこなわれるビルまでは車で十五分ほどだ。
つまりまだ後一時間くらいは練習時間が残されている。
コースの感覚を呼び覚ますためにも何回かは走っておくべきであった。
山岳の厄介さとそれを乗り切る感覚を思い出し、十分なウォーミングができたころに時間となって薫が迎えに来る。




