19話「その日の夜」
陸斗は薫をともなって広々とした廊下に出て、まっすぐにエレベーターホールに向かう。
窓ガラスからはウォール街が見えるが、彼はまだそれを楽しむ気にはなれなかった。
三基横並びになっているエレベーターのうち左二基が同時に開く。
より近い中央のエレベーターに乗るとそこにはミナがいた。
彼女は陸斗に気づくと力なく微笑み、左にずれて彼を招き入れる。
最大八人乗りのエレベーターはそろそろ定員になりそうだった。
「あなたは無事に通過したみたいね。おめでとう」
「ありがとうございます」
彼が神妙な顔で応じるとくすりという声がエレベーター内に響く。
「私に気を遣わないで喜んでくれていいのよ」
「あ、はい」
そればかりが理由ではなかったのだが、少しは喜んで見せないと彼女が気にしてしまうと理解する。
迷ったものの本音を打ち明けることにした。
「明日の決勝ステージのことを考えていたんですよ。バシュロとラックウェルがそろって敗退して、ちょっと計算が狂ったと言いますか」
バシュロとラックウェルの二人は間違いなく強敵である。
だが、それだけに得意ゲームやプレイスタイルといった情報も多く、対策を考えることができた。
その二人を倒すような形で突破してきたアンバーという選手に関する情報はほとんどない。
「……私はまだまだということね」
ミナは何故か一人で納得したような顔になった。
「えっ? 別にそういう話をしたわけじゃないですよ」
「ううん、勉強になったわ」
戸惑う陸斗に対して彼女は吹っ切れた笑みを向ける。
何か勘違いされているような気がしてならなかったが、彼女が立ちなおるきっかけになったのであれば否定するのもどうかと思う。
結局彼は何も言わないことにする。
ビルの一階にはミランダが待機していた。
「トオル、おめでとう。ミナ、残念だったわね」
彼女は簡単にそう言っただけで、ミナになぐさめの言葉をかけようとはしない。
それもひとつの優しさなのだろう。
二人の日本人選手はそう考えた。
ホテルに戻ると陸斗とミナは休み、薫はデータ収集に向かう。
普段の陸斗は自分でもやるため彼女は手助けする程度なのだが、タイトル戦のような大きな戦いを終えた後では休まなければならず、データを集める余裕まではない。
それをフォローするのもマネージャーの仕事だった。
幸い、決勝ステージに進んだ十六名のうち情報がないのはアンバーくらいである。
それくらいならばあまり時間がなくても何とかなるだろう。
三時間ほどの仮眠から目覚めた陸斗は、ベッドの上で大きく背伸びをする。
時計を見れば午後七時であり、なかなかよい時間帯だった。
まずは携帯端末を確認すると薫から「起きたら知らせてほしい」というメッセージが届いている。
起きたと連絡を送るとほどなくして部屋のドアがノックされた。
ドアスコープで薫の姿を確認してから開く。
「よく眠れた?」
彼女の問いに陸斗は無言でうなずいた。
枕が変わっても熟睡できるのは彼の長所である。
「他のグループの試合の録画、それとアンバーの最近の試合をいくつか持ってきたわ」
薫は自身の白い携帯端末を振り、それから左手に抱えている茶色の紙袋を軽く持ち上げた。
「ご飯を食べてからチェックしてちょうだい。私じゃ気づけないことでも君なら気づけるでしょう」
プロ選手ならではの視点や感覚というものはたしかに存在する。
もう一度うなずいてから彼女を部屋に入れた。
紙袋からただよってくる匂いが彼の鼻腔をくすぐり、腹の虫が大きく自己主張する。
薫はクスクス笑い、陸斗は頬が熱くなった。
「元気なのはいいことだわ。明日も戦えるわね」
「うん。それは大丈夫さ」
彼はそう答えるとベッド側のソファに腰をおろす。
薫はその向かい側に座り紙袋をガラステーブルの上に置き、中身を取り出した。
中から出てきたのは分厚いベーコンやタマゴ、トマトやレタスが挟まれたサンドイッチである。
具材などは日本でもおなじみのものだが、ひとつあたりの厚さが違う。
「相変わらずのアメリカンサイズだよね」
「ええ」
苦笑する薫の方に置かれたものは、彼のものよりも二回りほどボリュームが小さい。
食べざかりの男子高校生ですら完食できるか不安になるような量なのだから、当然の判断であろう。
コーヒーをおともに無言で食べ終えた陸斗はタブレットを起動し、それからUSBケーブルで薫の端末と接続する。
A組はアレクセイ・モーガンが危なげなく一位通過、二位通過はランキング二十位の男、ミナは三本とも四位以下に終わっていた。
B組は岩井は二位で通過し、ランキング一ケタの男が一位通過。
D組はヴィーゴが一位で通過し、H組はマテウスが一位通過している。
「大きな波乱があったのはC組って言っても、ランキング一ケタクラスはちょくちょく敗退しているんだね」
「まあタイトル戦だからね。ランキング一ケタなら安定して勝てるってほど甘くないってことでしょう」
陸斗の感想に薫は背後から画面をのぞきこみながら言う。
「そのおかげで俺にもチャンスはあるからね」
レースゲームは強豪同士のつぶし合いが激しいせいか、波乱が起こるのはしばしばある。
それを体現したのが今回のC組と言えるだろう。
(頭では理屈を理解しているつもりだけど、いざ目の当たりにするとな)
アンバーの戦法は見事だったし、二人の上位ランカーを沈めたテクニックは素晴らしかった。
あれほどの選手が無名でノーマークだったのが信じられないくらいである。
「そう言えばアンバーって選手のこと、調べてくれた?」
陸斗の問いに薫は「ええ」と答えた。
「と言っても時間はかぎられていたから、簡単なものだけど。二年前からツアープロになった選手ね。ツアー大会で優勝経験はなし。そのせいもあってかランキングは大会前のランキングは六十二位だったの」
「それで全然聞き覚えなかったのか……」
主だった大会で実績がある選手であれば、ランキングが高くない海外選手でも名前は聞こえてくる。
「まさか今までずっと実力を隠していたってことは……」
陸斗が最悪の予想を口にすると、薫は笑って否定した。
「さすがにその可能性は低いでしょう。あれが本来の強さなら去年の段階でタイトル戦に出場できていたかもしれないわ。実力を隠してまでグレードの大きい大会に出ないというのは、ちょっと考えられないんじゃないかしら」
「そうだよね……」
彼はほっとしたが、彼女の意見はそれで終わらない。
「ただ、何かのきっかけで急速に実力をつけてきた選手ってのはありそうよ。アメリカ期待の新星なんて呼ばれ方もしていたみたいだから」
「そのへんがよくわからないんだよね。アメリカで期待されている割にはパッとした結果を出してなさそうというか」
陸斗が困惑まじりにため息をつくと、薫は苦笑しつつ頭を左右に振る。
「何を言っているのよ。デビューして数年でタイトル戦に出場できるようになった若手選手って、まさにあなたがいるじゃないの」
自分の専属マネージャーにはっきりと指摘され、彼は一瞬言葉に詰まってしまった。
「あなただって天才少年と呼ばれているの、知らないわけじゃないでしょう?」
たたみかけるように、それでいて追いうちではなく優しくさとすような言葉に彼はついうなずく。
あまり好きな呼称ではないのだが、彼のことをそう呼ぶ人がいるのは事実であった。
「去年の俺みたいな立場っていうことなのかな……俺はいきなり決勝ステージに行けたりしなかったけど」
「それに近いかもね。強敵の一人だと考えていた方がいいでしょうね」
バシュロとラックウェルが姿を消したからと言って、決勝ステージのレベルが下がったわけではない。
十分承知しているつもりだったが、改めて肝に銘じておく。
タブレットの画面をタッチして、アンバーが出ている試合の映像を再生する。
彼女の映像がある試合は格闘、レース、シューティングの三つだった。
その中で目を引いたのはレースである。
グループステージの最後で見せたような戦法でトップに出て、そこからモーガンに差し返されて二位に終わるというものだ。
「これはグレート十二じゃないの?」
「ええ、一般戦よ」
陸斗の問いに薫がすぐ答える。
グレート十二とはタイトル戦の次に大きく賞金も高い十二の大会のことだ。
それに対して一般戦はその下に位置し、賞金も規模も出場者のレベルもバラバラである。
グレート十二でモーガンに次ぐ二位に終わったのであれば、必ず名前が世界に轟いていただろう。
アンバーが無名扱いされていたのは一般戦だったからに違いないと彼は判断したのだ。
「そっか、似たようなことをやっていたのか」
失敗に終わったのは相手がモーガンだったこと、今回の戦いで選ばれたコースとは違って最終コーナーの後の直線が長かったからだろう。
もし最後の直線が数メートルくらいしかなければ、モーガンと言えども敗れていたかもしれない。
(そう考えるとかなりやばいな……)
陸斗は自然と冷や汗をかく。
ただ、今ごろ他のグループステージ突破した選手たちも、アンバーの情報を集めて対策を考えているだろう。
もちろん彼女ばかりではなく、陸斗のものも。
そのあたりはお互い様である。
相手のデータを分析し今後の戦術を予想しあうのもプロの戦いの範疇だ。
ロペス記念優勝を狙うと彼は大見得を切ったものの、具体的な作戦があるわけではない。
だが、せっかくならば目標は高い方がよいと思ったのである。
(じたばたしても仕方ない)
今の彼ができることはライバルの情報を分析し、対策を考えること。
そして自分のコンディションを整えることくらいだ。
決勝ステージのコースは当日にならないと発表されないからである。
背伸びしているとふとエラプルのことを思い出す。
小林と水谷からはたまに益体もない内容のメッセージが届くだけなためすっかり忘れていたのだが、学校を休んだ件について何か言ってきているのではないか。
それにグラナータもひいき選手がグループステージを通過したと喜んでいるかもしれない。
このタイミングでようやくそう思ったあたり、まだまだ彼の日常にエラプルというアプリが馴染んでいない証拠だろう。
通知欄を確認してみるとグラナータ、アルジェントから個別で、水谷と小林からは三人のグループ欄のところにメッセージが届いている。
(うっわー……ニューヨークと日本との時差はたしか十三時間)
こちらでの時刻が午後八時を回っているということは、日本では朝の九時ごろになっているだろう。
とりあえず何とでもなりそうなグラナータとアルジェントの二人の方を先に開いてみる。
アルジェントはやっているゲームなどの報告がメインで、グラナータからはミノダトオルのグループステージ突破を喜ぶものだった。
これらは予想どおりだったため、彼としてもホッとする。
今返事をすると不審に思われるかもしれないため、時間を置いてからにしようと思う。
次に級友たちの方は画面をタッチするのに一瞬指が止まる。
それから無意識に深めに息を吸い込み、ゆっくりと触れた。
「お前が休むなんて珍しいな」
「体調大丈夫か?」
二人のメッセージを見て学校はただ彼が休むとしか言わなかったらしいと察する。
ホッとすると同時にそのつもりで受け答えしなければと思う。




