101話「もう一つの報告」
「晩ご飯、できたわよ。薫さん、悪いけど並べるのを手伝ってもらえるかしら?」
由水に声をかけられて薫は笑顔で立ち上がる。
「はい、もちろんです」
女性たちがキッチンに向かい、ソファには陸斗ひとりが取り残された。
ほどなくして薫だけが戻って来て彼に声をかける。
「お待たせ。行きましょ」
「今日のご飯は何なの?」
陸斗が問いかけると彼女は笑う。
「あとちょっとだから待ってね」
あと少しならば言ってしまってもいいと彼は思うのだが、薫は違う意見らしい。
陸斗の視界に飛び込んできたのは冷麺とから揚げだった。
「おお、冷麺とから揚げかあ!」
若鶏のから揚げは彼の好物のひとつで、特に由水の手製が好みである。
ひと目見ただけでテンションがあがるくらいだ。
「海外で食べられる豪華な料理は無理だけどね」
息子の反応を喜びながらも、由水は謙遜する。
「とんでもない。立派なごちそうだよ」
陸斗は目を輝かしながら本音を言う。
よだれが出そうになるのを自制する必要さえあった。
彼の腹の虫が、本当のことを言っていると証明するかのように大きな声を出す。
由水は笑って「食べよう」と声をかける。
富田家の冷麺はいたってオーソドックスなものだ。
よそと違う点があるとすれば、息子の好みを理解している由水が、彼好みにしていることだろう。
おかげで陸斗は箸がよく進み、
「もう少しゆっくり食べたほうが体にいいわよ」
と由水と薫に一回ずつ注意をされてしまった。
「う、うん。だって美味しいから」
陸斗は珍しく言い訳をする。
由水はうれしそうに目を細めたものの、よくないことはよくないと譲らなかった。
「ごちそうさま」
彼が最初に食べ終わると、薫が彼にさっと麦茶を入れてくれる。
実にスムーズで、由水には彼女が陸斗の世話に慣れていることを改めて認識させた。
「せっかくだし、陸斗の話を聞かせて?」
ただし由水が言ったのは別のことである。
「え、話って何を……」
急に母親に水を向けられた陸斗は困惑して、眉間にしわを作った。
「ロペス記念の話とか、ダービーの話とか。今まであまり聞けなかったから」
母の言葉を聞いて彼は正直「興味がないわけじゃなかったのか」と思う。
これまで一度も聞かれなかったため、興味ないのだろうと判断して話題に出さなかったのだ。
「由水さん、実は陸斗君の試合の結果、こっそり集めていたりするからね」
ここで薫がとんでもない暴露をして、由水を慌てさせる。
「ちょっと薫さん!」
彼女の狼狽ぶりを見て、薫は本当のことを言ったのだと陸斗に分かった。
「仕事のことは根掘り葉掘り聞くものじゃないって言われているからって、聞きたいのをずっと我慢なさっていたのだと思うわよ」
「そうだったのか……」
陸斗は薫の言葉を聞いた母の反応を見て、自分の思い違いを悟る。
「聞いてもいいなら聞いてみたいわ」
改まって由水に言われると、彼はうれしさで胸がいっぱいになった。
「いいよ」
母が自分の仕事を気にかけていてくれたことがこれほど喜ばしいとは、彼自身でもやや意外である。
彼は言葉を選び、時々麦茶で唇を湿らせながら、今年に入ってからの大会の話をしていく。
業界にうとい人間にとっては退屈ではないのかという不安はあったが、薫が適度に補足を入れてくれたし、由水も分からないことは質問してくれたので何とかなった。
「そっか。マテウスとモーガンってそんなに強いのね」
由水は感心したように言う。
eスポーツについて多少の知識があれば絶対に出てこない言葉である。
「うん。アンバーも強いよ。クーガーも。強い人ばっかりでいやになるよ」
「そう? その割にあなた、ずいぶんと楽しそうよ」
陸斗の表情を見た母としての感想だ。
「まあ楽しいと言えば楽しいかな。全力でぶつかって、鎬を削りあう相手なんてあんまりいないし……」
ここには母と薫しかいないからこそ吐露された、彼の本音である。
普通の相手では圧勝ばかりでつまらないというのは、時と場合を考えて言わないと問題発言になってしまう。
「ええっと。天塩ちゃんと栃尾さんだっけ? そのふたりはどうなの?」
「かなり強いよ。プロでやっていく実力はあると思う」
だからこそふたりがプロ試験を受けることに陸斗は反対しなかったのだ。
「六大タイトルの出場枠争いをするのは厳しい気がするけど、プロの試合をこなせばいやでも鍛えられるから」
「陸斗君もプロに入ってから強くなったわよね。あのころは岩井さんには敵わなかったけど、今やダービー優勝者だものね」
薫の言葉に彼は小さくうなずく。
たしかに格段に強くなったと言えるだろう。
ただし、由水は頬杖をついたまま苦笑し、彼らの思い違いを指摘する。
「そうじゃなくて、仲良くしているのかとかどっちが彼女なの? とかそういうことよ」
「えっ」
薫はああと理解したが、陸斗は絶句してしまった。
彼はどちらも魅力的な微笑だと思っていたが、彼女にしたいと考えたことはなかったのである。
目に見えて動揺をあらわにした彼のことを、大人たちは微笑ましく見守っていた。
「そ、そんなことをいきなり言われても、ふたりだって恋人を選ぶ権利はあるはずだよ」
やがて陸斗は声を発したが、自分でも何を言いたいのかよく分からない。
「私が見聞きしたかぎりだと、どっちも彼氏はいないと思うけど」
薫が口を出してくる。
「たしかに聞いたことはないね。栃尾はけっこう秘密が多いから、こっそりいても不思議じゃない気がする。天塩は隠しごとが苦手なタイプだろうから、いるなら教えてくれるかな」
陸斗は自分を落ち着かせようとテーブルに視線を落としつつ、ゆっくりと頭の中を整理しながら発言した。
すると薫は嘆かわしそうにため息をつく。
「どうやら恋愛方面はダメみたいですよ、この子」
「……なるほど」
彼女の言葉を聞いた由水は納得したと言わんばかりの表情で、何度もうなずいた。
「な、何だよ、ふたりして。たしかに恋愛スキルないけど、女の子と触れ合う機会がなかったんだから仕方ないじゃないか」
陸斗は弁明しながらも少し悲しくなる。
小中そして高校と、女子と仲良くした記憶はほとんどなかった。
(それなのにいきなり上手くやれって言われても、無茶ぶりにもほどがあるよ)
と彼は真剣に思う。
天塩と栃尾に嫌わずにやれているだけ、立派だと自分で自分を褒めたいくらいだった。
「そう言えばそうだったわね」
薫は思い出したようにつぶやく。
彼女は陸斗がプロ選手になってからの付き合いであるため、それ以前のことはよく知らないのだ。
「この子、大丈夫かしら?」
由水が心配そうな顔になったところで薫が笑いながら言う。
「女子に嫌われやすいタイプではないと思います。どちらかと言うと、いい人で終わるタイプじゃないでしょうか」
「それはそれで母親としては心配なのよね……」
このマネージャーと母親相手に恋愛関連の話は分が悪すぎる。
そう判断した陸斗は麦茶を飲みほして、そそくさと部屋に退散した。
残されたふたりは、お互いしかいないのにも関わらずひそひそと小声で話す。
「天塩さん、安芸子さんにアンバーの誰かを捕まえられれば……全員に逃げられると厳しいですけど」
「どういう子たちなの?」
由水の問いに薫は自分の印象を伝える。
「天塩さんはご主人様大好きな子犬タイプ。安芸子さんは冷静で客観的な判断ができる、パートナーとして頼れるタイプ。アンバーは明るく活発で、プロ仲間として切磋琢磨していけるタイプですね。アンバーとは実力の差が小さいのもプラスかなと思います」
「ふうん……あの子の好み、正直想像もつかないわ」
由水が言うと彼女も同意した。
「陸斗君はたぶん、恋愛のれもよく分かっていない段階でしょうね。まだあまり言わないほうがいいかもしれません」
「反省しましょう」
こうしてふたりでの反省会がはじまる。
終わると由水は立ち上がり、陸斗の部屋の扉をノックした。
「はい?」
律儀に返事をする息子に愛おしさを感じつつ、彼女は用件を話す。
「お父さんにはまだ報告していないでしょ?」
「あっ……」
すぐに陸斗はバツが悪そうな顔をして部屋から出てくる。
そして母と並んで仏壇へ向かい、父の遺影に手を合わせた。
「父さん……俺やったよ。これからも頑張るよ。見守っていてくれ」
写真の父は若々しい笑顔のまま何も応えない。




