95話「まるで別人のよう」
陸斗の朝の目覚めはすっきりしたものだった。
薫がノックをするとすぐにドアを開けて迎え入れる。
「おはよう? 一日経っての朝はどう?」
「特に何も変わらないかなあ」
彼女が中に入りながら放った問いに、彼は苦笑気味に答えた。
そんな彼にマネージャーは現地の新聞を見せる。
「ほら、どの新聞もあなたのことを取り上げているわよ」
彼女が持っていた新聞は全部で三社だが、どれもミノダトオルのダービー優勝が大々的に取り上げられていた。
陸斗は英語が不得手ではあるものの、さすがに自分のプレイヤーネームとダービーの綴りは分かる。
「本当だね……」
新聞を見つめる陸斗には、昨日の体感したものとはまた別の感覚がジワジワとこみあげてきた。
両手をかすかに震わす彼に薫が優しく声をかける。
「ストイックに自分を律するのもいいけど、もうちょっと喜んでもいいと思うわよ?」
「う、うん。でも、次のことを考えなきゃいけないから。八月はミュンヘンカップだし」
ドイツで開かれる六大タイトル戦で、せいぜい一か月ほどしかあいていない。
「ああ。去年はグループステージ敗退だったものね。リベンジしなきゃか」
「そうだよ。リベンジだよ」
陸斗は静かに意気込む。
彼にとって前年のミュンヘンカップはグループで四位に終わってしまった苦い大会だ。
いい結果で上書きしたいところである。
「その前にまず朝ごはんね」
「……うん」
彼の闘志が高まってきたところで、薫が一回クールダウンをはかった。
朝食は昨夜の残りの白ご飯とすまし汁、魚の焼き物だが十分美味しい。
「帰国予定はどうする?」
ご飯がすむと薫が問いかけてくる。
「明日に帰ろうか。本当なら、このまま一か月ヨーロッパに居座りたいくらいなんだけどなぁ」
陸斗は無念そうに天井をあおいだ。
コンディションの管理という点から言えば、今からドイツに移動して備えたほうがいいに決まっている。
「さすがにそれは厳しいでしょうね。まだ夏休み前なんでしょう?」
「うん。帰らないとね。友達にも会いたいし。それに条件はみんな大して変わらないしね」
薫の言葉に陸斗は苦笑しながら肩をすくめた。
シード選手だって現在の位置を維持するためには試合に出続けなければならない。
地元で試合が続く時、多少有利になるくらいの差しかないと言える。
「陸斗君だって桜ノ宮杯の時は有利な条件ですものね」
薫の言うとおり、日本で開催される唯一のタイトル戦は陸斗たち日本人にこそアドバンテージがあるのだ。
「今日はどうする? 観光する?」
「どこかへちょっと出かけたい気はするね。せっかくのロンドンなんだし、カフェに行くとか。それにカンバラさんに練習を見てくれたお礼も言いたいよ」
マネージャーの問い合わせに彼は遠慮なく自分の希望を伝える。
「カフェは大丈夫だと思うわ。何ならお昼もそこで済ませましょうか。カンバラ氏に関しては私の一存じゃどうにもできないから、聖寿寺さんに聞いてみるわね」
薫はメモを取りながらハキハキと応えた。
「じゃあしばらくはこの部屋でトレーニングしてくる?」
「いや、ホテル回りをぐるっとウォーキングするよ。体がなまったらいけないし」
陸斗の回答に彼女はぷっと吹き出す。
「あなたは高校生なんだから、学校の授業で体育があるでしょうに。まあいい心がけには違いないけど」
「なまっていると体育の授業がつらいんだよ。足を引っ張ったらみんなに申し訳ない」
彼は情けない声で言う。
ゲームの世界で彼と同等以上の高校生は世界を見渡しても、ほとんどいないに違いない。
だが、現実世界で自分の肉体を使うとなると、残念ながら彼は平均以下なのである。
「個人競技だったら自分の成績が悪くなるだけですむんだけどね」
「チーム競技じゃそうもいかないわね」
薫は苦笑して陸斗の心情を思いやり、許可を出した。
「ロンドンは初めてじゃないし、ホテルを周回するくらいなら平気でしょう」
ロンドンはかなり治安がよい街だが、それでも油断はしないに越したことはない。
陸斗は携帯端末以外を薫に預けてエレベーターでロビーに降り、ホテルの外に出ると赤いジャージ姿のアンバーに遭遇する。
「あら、トオルじゃない」
彼女は明朗な笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「おお、おはよう」
陸斗は右手を軽く挙げてあいさつをする。
「服装を見たかぎりじゃ、偶然では片づけられそうにないな」
「ということはトオルも運動を?」
アンバーは青い目をきらりと光らせて問いかけてきた。
「うん。体は大切な資本だからね」
陸斗は少しだけ見栄を張る。
「ええ、そうね」
アンバーはにこやかに同意してくれた。
「ところでアンバー、モーガンはどうしたんだい?」
その彼女のすぐそばにはいつもいるモーガンの姿が見当たらない。
珍しいと思って陸斗がたずねると、当のモーガン自身が青いジャージ姿でぬっと現れる。
「トイレに行っていただけだが、何か?」
「いえ、なんでもありません」
けん制するようにジロリと鋭い目でにらまれた彼は苦笑して応じた。
「せっかくだし、三人で行きましょ。おじさまもいいわよね?」
「ああ」
姪に問いかけられたモーガンはあっさりと承諾する。
少し意外に感じたものの声に出す勇気がなかった陸斗は、何となくモーガンの強面に視線をやった。
ばったりあった挙句「なんだ?」と言われてしまい、気まずく目をそらす。
「ふん。別人のような顔をするようになったかと思えば、そこは変わらんのか」
モーガンはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「えっ、俺そんなに変わったように見える?」
陸斗は彼にではなく、アンバーに話しかける。
「ええ。風格と言うか、雰囲気が出てきたわね。カッコいいし、じつに倒しがいがありそうよ」
彼女は笑顔で褒めてくれたが、純粋な賞賛と言うよりは美味そうな鹿を発見したことを喜ぶハンターのようであった。
「ありがとうと言っておくよ」
陸斗が頑張って微笑むと、彼女は満足そうな顔つきになる。
「うん、本当に変わったわね。そういう姿のほうがあたしは好きよ」
アンバーのような美少女に「好き」と言われたのだから、男としてうれしく感じるのが普通なのかもしれない。
しかし、彼にしてみれば「獲物の品質」を評価する声にしか聞こえなかったため、聞き流す。
「ところでウォーキングコースはどこに?」
「泊まっているホテルの近くを中心に、テムズ川にでも行こうかと思っている」
陸斗の問いにモーガンがぶあいそうに応じる。
「なるほど、後をついていってもいいですか?」
「勝手にしろ」
モーガンはぶあいそうに、アンバーはにこやかに彼の前を進む。
ゆっくりと彼らの後に続く陸斗はちらりと太陽を見上げる。
(念のため、パーカーを持ってきたんだけど、必要ないかもしれないな。傘はまだ分からないけど)
ロンドンの天気は良く変わるため、油断は禁物だった。




