プロローグ
男女の格闘家が激突する。
「はっ!」
女が鋭く空気を切り裂くような気合を発し、拳を乱打した。
予備動作なく繰り出されたそれは、容赦なく男の体力を削っていく。
やがてバランスを崩してよろめいた。
それを見た女はここぞとばかりに大技である飛び膝蹴りを繰り出す。
(かかった!)
だが、それは男の誘いだった。
男は前に転がって蹴りをかわし、両手を叩きつけた反動で飛び上がって蹴り上げる。
女に対してこの上ないカウンターアタックとなった。
しかし、次の瞬間男は目を向く事になる。
女は左足の裏で男の蹴りを防ぎ、そのまま宙へと舞ったのだ。
見事な防御である。
観衆からは大きな歓声が起こった。
そして女は空中で体勢を整えると、男へ目がけて落下する。
(やばい!)
男は慌てて回避行動に移った。
体を捻った少し後、女の肘が頭があった部分に突き刺さる。
少しでも反応が遅れていれば、まともに食らっていたに違いない。
男が肝を冷やしながら立ち上がった時、目の前には女の膝があった。
流れるような波状攻撃であった。
男はとっさに右の掌で受け止める。
そして左のアッパーで女の顎を打ち抜いた。
女の頭が激しく揺さぶられ、細い体が崩れ落ちる。
「ゲームセット! 勝者ミノダトオルっ!」
フィールド内、そして会場内にアナウンスが響き渡った。
ひときわ大きな歓声と拍手がモニターの向こうで起こる。
男、ミノダトオルは大きく息を吐き出してログアウトした。
銀色の筐体から空気が抜けるような音が発生し、ドアが開く。
ミノダトオルが外に出ると熱気と拍手が出迎える。
隣から先ほどまで対戦していた相手である女性が出てきた。
両者ともゴーグルで目を隠し、白いライダースーツのようなものを着ている。
これは選手用のコスチュームと言える「バトルスーツ」だ。
二人のところにスーツにネクタイをきめた司会が寄ってくる。
「ご覧のように第三十三回ゴーナムカップはミノダトオル選手が優勝、そしてエトウミナ選手が準優勝となりました」
彼の言葉が途切れるとより一層大きな拍手が起こった。
二人の男女はモニターでそれに気づき、応えるように手を振る。
これは大手ゲームメーカー、株式会社ゴーナムが主催するVR(仮想現実)ゲームの大会なのだ。
ホテルの大ホールを借り切って行われていたのである。
ミノダトオルは見事優勝し、賞金一千万円と副賞のカップをゴーナムの代表取締役から授与された。
ゲームがスポーツとして日本で認められてから数十年が経過し、eスポーツという呼称とそのプロ選手の存在は一般的に浸透してきている。
それでもまだまだ野球やサッカーという、以前から存在しているスポーツと比べれば、人気・知名度・マスコミの露出度はまだ低い。
だからこそ、大会が終わっても選手の仕事は終わらなかった。
大会の後に主催者が開く食事会があり、それに参加しなければならないのである。
ゲーム大会の興業が成立するのは主催者やスポンサーたちのおかげだからだ。
それ故に選手たちにはあいさつ回りや顔つなぎが義務づけられている。
ミノダトオルはまだ中学生だったが、そのことをよく理解していた。
それに彼くらいの年頃ならばパーティーで出される料理や飲み物は、心惹かれるものが多い。
だからさほど抵抗はなかった。
「いやあ、おめでとう。私も鼻が高いよ!」
トオルにそうやって話しかけてきたのは、五十代の黒いタキシード姿の男性だ。
彼個人とスポンサー契約をしている企業の重役である。
「ありがとうございます」
スポンサーが相手だけに、努めてにこやかに応じた。
最大の注目を集める「タイトル」戦ほどではないが、「ゴーナムカップ」も世界電脳スポーツ協会(WeSA)が主催する主要な大会のひとつである。
明日になればマスコミに取り上げられるだろうし、それを想像するスポンサーとしては笑いが止まらない。
長々と続く賞賛の言葉を必死に受け止めた後、男性は去っていく。
スポンサーだからと言って、契約選手とだけ話すわけにはいかないのだろう。
トオルは誰にも気づかれないよう、こっそりと嘆息する。
そこにスーツ姿に身を包んだ若い女性が彼に水を持ってきてくれた。
彼のマネージャーを務める星野薫という女性である。
黒いボブヘアと切れ長な瞳が印象的な、敏腕秘書を絵にかいたような美女だった。
彼は一言礼を言って水で喉をうるおす。
そこに一組の男女が彼のところへとやってくる。
五十代くらいで髪に白いものが混じり始めている上品な男性と、水色の清楚なドレスで着飾り、美しい黒髪を後ろで束ねて白いうなじを見せている少女だ。
彼らの姿を認めた薫はそっとトオルの背後に控える。
「やあ、見事な戦いぶりだったね。トオルくん」
「これは聖寿寺社長」
トオルの背筋が無意識のうちにまっすぐ伸びた。
聖寿寺正克は彼が所属契約を結んでいるプレジターグループの創業一族であり、中核企業の社長でもある。
財政界やeスポーツ界にも大きな影響力を持つ要人で、彼でなくても姿勢を正さずにはいられない相手だ。
隣に控える美しい少女は、その自慢の娘志摩子であると知らない者はこの場にはいない。
もちろん、トオルとは面識があった。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
父親ほどの年齢の男性より、年の近い美しい少女に祝われる方がずっと嬉しかったが、それを態度に出さないくらいにはトオルは場数を踏んでいる。
「ありがとうございます。ご支援を頂いているご恩、少しでも返せてよかったです」
苦手な敬語を駆使して感謝の気持ちを述べた。
これは決して嘘ではない。
彼らの経済的支援なしだと選手生活は一気に厳しくなるのが現実であった。
トオルの堅苦しい態度に聖寿寺父娘は微笑を浮かべる。
あどけない少年が精いっぱいのふるまいをしようと努めているのだから、至らぬところを指摘するのは野暮というものだ。
少なくとも彼らはそう考える人種である。
「四月からは高校に進学だったね?」
「はい」
正克の問いにトオルはうなずく。
契約しているスポンサーは「ミノダトオル」というプレイヤー名ばかりではなく、「富田陸斗」という本名の方も把握しているのだから、当然年も把握している。
何も驚くようなことではない。
「どこの学校にするのか決めたのかい?」
その質問には内心でおやと思った。
企業の方には連絡したはずだが、正克まではまだ届いていないのだろうか。
(いや、単に直接訊きたいだけなのかも)
トオルはそう思い直す。
いわゆる「お偉いさん」は時々理解不能な行動をとることがある。
今回はこれなのだと解釈すれば、一応の説明はつく。
「ええ。星峰高校です」
「……聞かない名前だな」
聖寿寺父娘は本当に初耳だったのか、揃って訝しげな表情を作る。
「VR制度が新設されたりしたのでしょうか? ……それならばお父様のお耳に入っていないのは不思議ですが」
志摩子が鈴の鳴るような声で疑問を表明した。
彼女の指摘通り、VR関連の制度ならばどんなささいなことでも正克の耳に届くであろう。
日本電脳スポーツ協会(JeSA)にとっては特に重要な人物なのだから当然である。
それなのにも関わらず、星峰高校のことについて知らなかったのには訳があった。
「いえ、普通の公立高校ですよ。母と高校までは普通に卒業すると約束しましたから」
トオルは微笑を浮かべて説明する。
「そうか」
父娘の胸にはほろ苦いものが宿ったが、何も口にすることはできなかった。
彼の母親は息子がプロのeスポーツ選手としての道を歩むことについて大いに危惧していて、できるならば普通の学生としての生活を送ってほしいと願っている。
彼らはそのことを知っているのだ。
「親孝行は成人してからでも遅くはない。息子には一度しかない青春を謳歌してほしい」という母の愛を、単なる親のワガママだと否定するのは難しい。
トオルにしても父を亡くした後、女手ひとつで育ててくれた母の意思はできるだけ尊重したいが、一方で少しでも早く母を楽させてやりたいと思ってもいる。
そんな不器用な母子の妥協点が、普通の高校に進学するというものであろう。
トオルの実力ならばVR特待制度がある高校には、どこでも大歓迎してもらえたはずだ。
そう考えた正克は、
「目先の利益よりも、君の人生を心配するとても立派な方だ。大切にした方がいい。説教臭くなって申し訳ないがね」
ついこんなことを言ってしまう。
年頃の少年というものはえてして、親の愛情にわずらわしさを感じて反発しがちだからだ。
「いえ、とてもありがたいお言葉です」
トオルは神妙な顔つきでゆっくりと頭を下げる。
年齢の割にはひどく大人びていて、聖寿寺父娘を感心させた。
もっとも娘の方はともかく、父親の方は「親御さんが心配するのも分からなくはない」と思う。
大人相手に隙を見せない立ち回りが出来るのは大したものではあるが、子供らしさが欠如していることも否定しきれない。
重くよどみかけた空気を払しょくするべく、志摩子がことさら大きく手を叩く。
「トオルさん、星峰高校はどちらにあるのかしら?」
美しい少女に話しかけられ、少年はドギマギしながら口を開いた。
その言葉を聞いた時、彼女は嬉しそうに「まあ」と声をあげる。
「私の通っている天嶺学園からそれほど離れてはいないわね。今度、遊びに行ってもよいかしら?」
「えっ」
トオルは思いがけぬ申し出に困惑してしまい、返事を見つけられずにいた。
天嶺学園は大金持ちでなければ願書の段階ではねつけられてしまうということで評判の、国内でも屈指のお嬢様学校である。
更に志摩子は耳目を集めずにはいられない美少女だ。
そんな人間に遊びに来たら、一体何が起こるだろうか。
一秒にも満たぬ間に、暗い闇が彼の脳を支配した。
「いえ、せっかくのお申し出ですけど」
「あら」
遠慮がちに断りの言葉をつむぐと志摩子は目に見えて落胆する。
彼女の中ではとても素晴らしいアイデアだったのだろう。
「そうだな。お前が遊びに行ったりしては、彼がプレイヤーネーム制度を利用している意味がなくなるだろう。遠慮しなさい」
父親たる正克がトオルを援護してくれたので、話は正式に却下される。
プレイヤーネームとは小説家や漫画家でいうペンネームのようなものだ。
本名を出さずに活動したい選手のために制定され、試合を放送する際もできるだけ顔を映さないように配慮される。
彼らが試合の時にゴーグルなどをかぶっていたのもその一環だった。
トオルは自身が悪者にならずにすんで胸をなでおろしていると、そこへ紫のドレスを着た若い女性がやってくる。
決勝でトオルに敗れたエトウミナ選手だ。
聖寿寺正克にeスポーツ選手があいさつに来るのは常識とも言えることだった為、トオルは目礼だけして譲る。
彼ら父娘とエトウ選手が挨拶をかわす隙に食べ物を口に放り込む。
会話と会話のあいまを逃さずに実行しておかないと、腹の虫の大合唱にみまわれるからだ。
薫はそれを承知しているから、適度に料理を運んできてくれる。
そんな少年を尻目に三人の会話がひと区切りついた時点で、ゴーナム社の重役たちが姿を見せた。
主催者の登場とあってはトオルも知らぬ顔を決め込むわけにはいかず、話に戻ることにする。
こうして大会が終わった後の時間は過ぎていくのだった。