溺死の先で。
クモは異常なほどに喉が渇いていた。そりゃあそうだ、此処連日何も食べていないし飲んでもいない、なぜそこまで何もしなかったかと言われれば、する気力がなかった。それだけで説明できてしまう。生きていく理由がもうクモには存在していなかった。
漣の音が聞こえる。海が近いのかもしれない、潮のにおいがする。こんな場所あっただろうか、そもそも自分が今どこにいるのかさえクモには判別のしようがないのだけれど。あぁこんなところで倒れていたらあの子が困り顔で助け起こしてくれただろうか、もうあの子はいない。仲間もいない。クモは間違えてしまった、その報いだろう。きっとそうに違いない。
「くっだらねぇ死にざまだな、クモ」
色がなくなり始めた舞台に覗き込む黒い影がクモの視界にうつった。それがもう誰だかは思い出せなかったが、そいつはどうにも嘲笑っているわけでもなくただクモを覗き込んではじっと見下ろしているだけのようだった。
「立てよ。お前は、まだそこで大人しく終わるようなヤツじゃあないだろう」
うるさいな、もう無理だって。
もう身体に力は入らない、声もからからで正しく言えているのかでさえも分からないような状況でお前は一体何を言っているんだ。クモは切実にそいつを殴りたかった、でもそう行動できるほど意識も届かずに死ぬことぐらい見えている。だから動こうとはしなかった。
「もう誰もいないぞ、もうお前を知るやつも誰もいない」
──分かってるって、いったじゃあないか。
「足掻いて咎めるやつはもういねぇよ」
──何を言っている。
「言えよ、まだ生きてえって、まだ死にたくねえって言えよ」
──そんなこと言えるわけがないだろう、あの子が待っている。追いかけないと。
「あの子と同じ場所に本当に行けると思っているのか」
──それは……。
「死にたくないならそういえばいい、殺したりないなら、そういえばいい」
──言って、どうなる。
「連れて行ってやる、死んだほうがマシな場所でもあるがな」
──そこに俺は行けるのか。
「お前が望むならば」
……そうか。
単純な問答を繰り返していくうちにクモの頭の中にたむろしていた熱は、どんどん下がっていった。
誇り、プライド、使命、義務、強迫観念。死にもの狂いで縋ってきたそれらが、途端にどうでもよくなったといってもいいだろう。
傲り、弱音、切望、今まで切り捨てていったものたちが息を吹き返したように脈動をはじめて、止まりかけていた心臓をどぐりと嫌な音を立てて無理矢理動かしていくようにクモは思った。
蜷局を巻く、執念。
忘れかけていた、忘れようとしていた肚の底で蠢いていたもっとも醜い感情が、内側から開けろ、開けろと叫びながら蓋を叩いているようだ。その手もきっと骨も何も剥き出しなのだろうけれど、結局それもクモなのだ。
気が付けば、クモは起き上がっていた。両脚で立つことはもうできなかった、だけれど上半身を起こすことはまだできた。焦点が合わないままに黒い影を見る、影はにやりと口角に釣り針をひっかけたような笑みを浮かべていた。
もはや誰もいない、誰もクモの選択を咎める者もいなければ、間違いだったからと言って犠牲になるものもいない。いっそ愉快だった、あぁなんで気が付かなかったのだろう。もう、誰もいないのだ。それはもう悲しいことですらないというのに。自分は何に掴まれていたのだろう。
「連れて行けよ。どうにもまだ、俺は死にたくないらしい」
何かが罅割れる音がしたが、その価値ですら、クモには必要なかったのだ。




