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タイムリーパーは壁を越える

作者: OS

 夕暮れの交差点に、分厚いタイヤがアスファルトと激しく擦れあう音が響いた。

 次の瞬間、横断歩道に接続する歩道の隅の部分に侵入した大型トラックは一人の人間を弾丸のごとく跳ね飛ばした。

体がつぶれる音は、コントロールを失った車体の後部の側面をガードレールが打ち付ける金属音でかき消された。

水風船が破裂したかのように鮮血が辺りに放出され、夕焼けよりも淀んだ赤色が色彩を塗りつぶす。


そんな惨劇の中で、冷静さを保ち続けた少女がいた。

その少女は事故の直前からずっと同じ場所に立ち続けていた。

少女はたった今、惨劇を生み出した大型トラックの前方部分の側面を見つめていた。見つめることを強いられるほどの近距離にいたのだ。

距離にして十五センチメートル。

彼女は恐怖からそこに居続けているわけではなかった。彼女には、『事故が起こる前から』その場所は必ず安全だとわかっていたのだ。

 表情に恐怖は見られない。淡々と、目の前に起きた事実を認識するだけだ。加えて、少女の脳はこの事故を惨劇ともとらえていない。

リンゴを投げれば地に落ちる。

それと同じ程度の事柄としてしか認識しなかった。

鮮血を浴び、紅に染められた少女は呟く。

「また、失敗した」

 その呟きから三秒後には、彼女――――夏目の姿はこの世界のどこからも消えていた。



 親友を救うためにタイムリープを行う。

高校生一年生である夏目はまさにその最中にいた。

古来から洋画などで使い古された題材、スクリーン越しに見るその現象は今や目新しくもなく、退屈に見える。しかし、実際に体験すると話は違った。

この超常現象に巻き込まれた当初は幸運だと考えた。

救えなかった友人を救う可能性が砂粒の大きさとはいえ、誕生したのだから。

だが、ループした回数を数えられなくなり、この行為を義務に似たものだと考え始めたころから考えは変わってきた。

考えうる手段、それこそスクリーンの中で行われたら興ざめとなるような、手段をいくつも用いても夏目には自身の親友を救うことができなかった。

何度も夏目の目の前で惨劇は起きた。

本来の死因である交通事故を防いでも、同時刻に何らかの凶器が代わりに死を作り出した。

「…………夕焼け以外の空なんて、ほとんど覚えてないわね」

 夕焼けが差し込む放課後の教室。

自身の席に座っている夏目は窓の外を眺めてそんなことを呟いた。

その眼には、この事象に巻き込まれる以前に持っていた陽気な輝きはない。どこまでも続く深淵のような淀みが瞳を染め上げていた。

 夏目はしばらくそこに座っていた。

タイムループのスタート地点はこの教室だった。時刻にして三時五十三分。寸分の狂いもなく、同じ時間の同じ場所に戻される。

 最初の数回の内は、この席で先ほどの惨劇を見た自分を落ち着かせるためにこうして休んでいたが、今の彼女は何も考えず遠くを見つめていた。

半ば諦めているといってよかった。

夏目がそんな風にしていると、こちらに向かってくるような足音が耳に入る。

その足音の持ち主は経験上知っていた。何度も繰り返しているからだった。


「おーいっ」

 

少し駆け足で教室の扉を開け放ち、夏目の座っている席へ向かってくる。

夏目はその光景を何回も見てきた。表情すら、瞼の裏に染み込んでいる。

「綾乃。何か用?」

 夏目はその少女を「綾乃」と呼びながら、彼女のほうを振り向いた。

何か用? なんて言葉を使っているが、彼女には綾乃がこれから何を言い出すのかをすでに把握していた。

えっへっへ、と呑気に笑いながら綾乃は夏目に返す。

「放課後暇だったら、一緒に図書室で勉強しようよっ」

 無邪気な笑顔とともにそう言った。

夏目は、不自然に思われないように笑顔を作ってそれを承諾した。



四時一分、夏目は綾乃とともに教室を出た。

四時四分、図書室にて、夏目と綾乃は勉強とは名ばかりの雑談をした。

四時三十六分、二人は宿題を始めた。

四時五十分、閉館時刻を知らせるチャイムが図書室に響いた。

四時五十七分、二人は図書室を出た。

四時五十九分、二人は校門を抜けた。

五時、地域の子供に帰宅を促す放送が町中に流れた。

五時三分、綾乃は自身が昨日読んだ漫画の話をした。

五時八分、二人の通学路の途中にある自動販売機で綾乃は炭酸飲料を買った。

五時十分、二人は目の前で赤くなった信号を見つめながら交差点で立ち止った。

五時十一分、歩道に侵入した大型トラックによって綾乃は死んだ。




「…………ふぅ」

 タイムリープは綾乃が轢き殺され、その後の一分間に夏目が望めば行われる。

その場合三時五十三分の教室の、自分の席に座った状態から意識が覚醒する。

時間にして一時間十八分。

それだけの時間があり、そしてどんな手段を使っても綾乃は五時十一分には死んでしまった。

「さっきのループは何もしなかったけど、そうするとやっぱり死んじゃうのね」

 いつからか、夏目はあまりその死の運命に、当初に比べて積極的に抗わなくなってしまった。ありのままに綾乃との最後の時間を過ごして、そして知っている通りの綾乃の死を目の前で見つめていた。

「……………………」

 炎に包まれているような空を眺めながら、改善策を考えるが夏目は何も思い浮かばなかった。

精神をすり減らし、優秀とは言えない頭脳を限界まで酷使しても未来は変わらないのだ。

本当は助ける方法なんて無いのではないか、と夏目が考えたことも無いではない。しかし、それは「方法がないから仕方がない」という言訳を用意したいだけに過ぎない。

だから、明確な答えが現れるまで頑張ろう。

それが夏目の考えた結論だった。

しかし。

それは綺麗事でしかない。


「おーいっ」


 夏目は、胃の中にヘドロがたまっているかのような不快感に襲われた。

 考え事に熱中していた夏目は、今の時刻が綾乃が自身を呼びに来る時間だということに気付けなかったのだ。

振り向くのを一瞬躊躇して、不自然に見えないように振り向いた。

そこには、夏目の感覚では数分前に死んだ綾乃が笑顔を浮かべていた。

 口を開けば何かを吐き出してしまいそうで、夏目は口をつぐむ。そうしながらも綾乃に対して、嬉しそうにしている表情だけは崩さなかった。

 綾乃は夏目が何も言いださないので、言葉をつづける。

「放課後暇だったら、一緒に図書室で勉強しようよっ」

 夏目にとって既視感のある笑顔とともに、綾乃は言った。

その既視感に耐えられず夏目は顔をそむける。夏目にわかっていた。こういった反応をすると、無邪気な綾乃は傷つくだろう。

綾乃を傷つけるのは不本意だったはずだった。

「夏目ちゃん具合でも悪いの?」

 寂しそうな声色で綾乃は夏目に尋ねる。『今回』の綾乃にとって、夏目が自分にこういった対応をとるのは初めての経験だったからだ。

夏目の胸中に、謝らなければ、という考えが浮かんだ。

そして同時に、――――――、という考えも浮かんだ。

どちらを取るかについては完全に偶然だったように夏目は思っていた。

けれども、確実に言えることとして。

 どうせループできるのだから――――何をしても構わない、と夏目はその時にあたりまえの常識のように考えていた。


夏目が気づいたときには目の前の綾乃に向けて殴り掛かっていた。

虚をつかれた綾乃はその行動に驚き、反応ができなかった。強く握られた拳を頬に受け、その衝撃に耐えられずに周囲の机を巻き込みながら倒れこんだ。

机や椅子の角に体中を打ち付け、ようやく綾乃は現実を認識した。そして、身に降りかかった痛みに耐えかねて叫びだす。

真珠のような柔肌を抑えながら綾乃は叫び続けた。

助けを求めているのか、痛みから遠ざかろうとしているのか、それとも豹変した友人への慟哭なのか。

夏目はそれを知ろうともしなかった。

加えて、夏目はその光景を見ても罪悪感に襲われなかった。

ただただ、次に殴るべき個所を考えていた。

そこから先はあまり覚えていなかった。

 唯一覚えているのは、何も知らないでいる綾乃に向けて夏目は支離滅裂に、それども一つの理由を持って叫び続けたことだった。

「お前がいなければ」

 何度も何度も、

それを叫んだ。



「胸糞悪い、ってこういう気分のことを言うのね」

 そんなことを言いながらも、どこか自身が爽快に感じていることに気付いて、座っているベンチを殴りつける。

拳が痛かった。

いつもは縛ってあるはずの前髪が視界の右半分を、古びたカーテンのように覆っていた。手で払いのける気にはならず、放っておく。

拳に加えて腹部と顎、その他いろいろな箇所が痛んだ。口の中も切れているのか鉄の味がする。

あまり覚えてはいないが、周りの生徒が自分のことを止めに入ったのだろう――――そう思った。その際に殴られたのだ、と記憶はないが決めつける。しかし、綾乃が自身を殴っていないことだけは思い出せた。

綾乃が夏目に殴られながらも、夏目のことを心配するような目で見つめていたことは覚えていた。

そのことが一層、自分のことを腹立たしく思わせる。

夏目は今、公園にいた。

公園のベンチで座る。目的はなかった、茫然としていると言い換えることもできるだろう。

ふと、時刻が気になって公園に刺さっている金属のポールの上、そこに設置されている時計を眺めた。

五時九分。

綾乃が――――交通事故じゃなくとも、死ぬまであと二分。

ループを重ねていないころは、その時刻になると救えなかったことへの罪悪感が湧いてきた。しかし、今となっては次のループまでのカウントダウンでしかない。

「止めることもできるんだけどね。止める気にはなれないのよ」

 誰に言うわけでもない言葉だった。

そしてそれは事実である。

夏目は目に見えず、触ることもできない一種のスイッチのようなものを持っていた。それを綾乃の死後一分間に押そうと思うとループが始まった。

誰かに教えられたわけでもない、それでも夏目はそのことを知っていた。

 そんな風に無駄な考えを巡らせていると、ループまであと数秒。時計の秒針が真上を指そうとしていた。

ループをしないという選択肢はなかった。

心の中にあるスイッチに指をかける。

秒針の動きがスローモーションに見える。時空を超える前兆のようなものだと、夏目は思った。

しかし、その考えは改めることになる。

スローモーションに見えていたのではなく、世界の動きが緩やかになっていたのだ。

「…………えっ?」

 素直な感想が言葉にならず、意味を持たない音が口から洩れた。全く経験したことのないその現象は、夏目自身が巻き込まれているタイムループとは別種の超常現象だった。

そして、緩やかになっていた秒針の進みが、完全に止まった。

「こ、こんなこと初めて。一体何が……」

 辺りを見渡す。

先ほどまで幼児が乗っていたブランコはノの字のように、空中に固定されていた。数秒前に蹴り上げれられたであろうサッカーボールは重力に逆らって空中で静止している。

時間が止まった。

そうとしか形容できない異常が夏目を囲っている。

「綾乃の死が回避されて、タイムリープが終わった? だからそのために、世界が……」

 その先の言葉は思いつかない。このような超常現象を内包する世界なんて、夏目には把握できなかった。

思考は半ば暴走気味に働いた。

「タイムリープが、失敗した? それとも、回数が限界を超えたの……?」

 思い付きは確実性を持たず、妄想と推定で埋め尽くされる。

夏目の言葉の背後には、タイムリープの失敗への恐怖、そしてそれによって綾乃の死が確定されてしまうことへの恐れがあった。

積み上げてきたループ、永遠に続くと思っていたそれが唐突に終わった。

ぎりぎりを保っていた夏目の精神に刃が突き付けられる。

「な、何が悪かったのよ――ー―いや、わかりきってる! 綾乃を、私が綾乃を傷つけたから!

 神様が見てたのよ! 綾乃の死を止めることもしない馬鹿神様がっ、何が、ああ。ふざけてる! 全てっ、私もっ!」

そして、落ち着いていくとともにこの現実を理解し、夏目は壊れ――――。


「あなたが――――――ですね」

 声がした。

夏目の声ではない、誰かの声だった。

中性的な男の声。優しい印象と、その裏に無機質な印象を持っている声だ。

「あ、あんたは」

「失礼。――――――なんて言っても、この○○○○の生物には認識できませんでしたね」

 夏目の言葉を聞かず、その声の主は話し続ける。

夏目はその人物の出現を認識できなかった――――それにも関わらず、その人物は夏目の正面から現れた。錯乱していたとしても気づけないはずはないのに、だ。

背の高い、柔和な青年だった。

彼は夏目に語る。

紡がれる言葉は夏目にとって衝撃的なものだった。

「任意的時空循環化、いわゆるタイムリープを行っていたのはあなたですね」


「僕は◇◇◇を、時間の流れをできるだけ正常に動かすためにいる存在です」

「はぁ」

 先ほど座り込んでいたベンチに二人で腰を掛ける。

これだけ近づいているのに、夏目は隣にいる男から不気味さしか感じなかった。行為はもちろん、警戒心や恐怖すらなかった。

まるで人形でも相手にしているようだ、夏目はそう思った。

「あなたはタイムリープをすれば、すべてがなかったことになると思っているんでしょう――――ー実際、あなた方の生きる▽▽▽では事実です」

 男の話の中には音になってはいるが、どうしても認識することのできない単語があった。男はそれを言い替えたり、そのまま話を進めたりしている。

「僕たちにとって、その影響は大きくはありませんが、無視し続けられるものではありません。だから、手間はかかりましたがその原因まで突き止めました」

「要は」

 夏目は自分なりに理解したことをまとめ、口にする。

「タイムリープを止めろ、と言ってるわけね」

「そのように解釈したなら、そうなのでしょう」

 含みのある言い方。しかし、夏目にはその真意を探ることができなかった。

ただ意味深なのか、それとも意味はないのかを判断することはできない。それほど訳のわからない存在との会話だったのだ。 

それでも、夏目には自分の意思は分かっていた。

「嫌よ」

 自分でも驚くほどに、あっさりと口から出た言葉だった。

夏目はそのことによって、自分がまだ綾乃を救おうとしていることを確認できた。その確認が彼女の背中を強く押す。

立ち上がり、座っている男に向けて夏目は言った。

「あんたたちにどんな迷惑がかかろうとも、私はタイムリープを繰り返させてもらうわ。義務感じゃなく、私があの娘の友達でいるために、ね」

 夏目は、だから時間を動かして、と続けようとした。

しかし、その言葉を遮るように男が口を開く。

夏目の言葉に何の驚愕も持たず、台本を読み上げるような口調だった。


「彼女は必ず死にますよ」

 

続ける。

「未来は変わりません。正確にはあなた方に見える範囲では、変わることはありません。説明のしようがないですが、そういう仕組みです」

 夏目はその言葉に反論しなかった。口をはさめない雰囲気を持っていることもあるが、なによりも、

「全ては偶然起きたことであり、あなたのタイムリープが彼女の死をトリガーにしていたとしても、それが彼女の死を救うためであるわけではないのです。世界はそんなに優しく個人を見つめてはいません」

 男の話が全てでたらめという可能性はあった。

全て自分の都合のいい方向へと物事を運ぶための嘘なのだと、決めつけることは夏目にとって簡単なことだ。

しかし、

「これ以上あなたがタイムリープをする意味は――――ありませんよ」


 ――――――ああ。

夏目の心に落とし込まれたものは怒りや疑いではなく、納得だった。

無限ともいえるタイムループの中で、幾度となく感じていた壁。人間程度の抵抗では貫けないような限界点。

気づきつつも目を逸らし続けていた。

それを目の前の男に言いきられることで、夏目の心は理解させられた。

簡単な答えを見失っていた。

そして、ようやくそれに気づくことができたのだ。積み重ねていた感情のすべてが、単純に瓦解していく感覚。爽快や感動、衝撃とは違う感覚だった。

「そっか」

 簡単な言葉は、彼女にとっての長い時間を、あらゆる感情をこめられた呟きだった。

男はそれに耳を傾けず、言葉をつづけた。

「ええ、それともう一つ」

 

 ――――これから行うタイムリープが最後になります。



四時一分、夏目は綾乃とともに教室を出た。

――――傷一つなく、無邪気に笑いかけてくれる綾乃に、夏目は少しだけ負い目を感じながら隣で笑った。

四時四分、図書室にて、夏目と綾乃は勉強とは名ばかりの雑談をした

――――言いだそうとしていることは、胸の奥から出てこようとしなかった。時計の針の動きに合わせて、心臓が痛いほど鼓動していた。

四時三十六分、二人は宿題を始めた。

――――こんなことをしている暇はないはずだけど、何でもない日常の一ページのようなその時間は私に束の間の喜びを与えてくれた。

四時五十分、閉館時刻を知らせるチャイムが図書室に響いた。

――――現実が近づいてくる感覚がして、鳥肌が立った。

四時五十七分、二人は図書室を出た。

――――何度も通り抜けてきた校門に名残惜しさを感じることに、自分でも驚いた。

四時五十九分、二人は校門を抜けた。

そして、



何度も見た夕焼けも、今日ばかりは少しだけ淡い色合いに見える。

そんなことを思いながら、夏目は綾乃の隣を歩いていた。

普段のタイムリープをした状態なら、何度でもやり直せるということもあり、綾乃の楽しめるような会話を振っていた。

しかし、今回に限っては違った。

「………………」

「………………」

 残った時間は十数分。

夏目の、綾乃に対する思いを語るには短すぎた。そして、覚悟を決めるための時間としても足りない。

時間だけが過ぎてゆく。そのことに焦りを覚えても、行動には移れなかった。だから黙り込んでいる。すると、綾乃のほうも夏目に対しての接し方を見失ってしまった。

何かきっかけがあれば、後は全てを吐き出せそうだと、夏目は思った。


五時、地域の子供に帰宅を促す放送が町中に流れた。

――――何度も聞きなれたその音色は、そのループが無駄では無かったと言うかのように夏目の背中を強く押してくれた。

一歩は踏みだした。

夏目は成り行きに身を任せることにした。

「ねえ、綾乃」

「な、何かな」

「あんた死ぬわよ」

 足を止めて、綾乃の瞳を見てそう言った。

冗談のような口調で、真剣な瞳で。

綾乃からしたら、この言葉は余りにも荒唐無稽。面白くもない冗談のようなものだろう。夏目はそれを分かっていて、それでもまっすぐ伝えたのだ。

 時間の流れがゆっくりと感じて、少しだけ時間に余裕ができたという錯覚が生まれた。

夏目は表情を崩さず、綾乃の反応を待っている。

綾乃は、困ったような表情を一瞬だけ見せ、目を閉じて何かを考え始める。

長くはない、ほんの少しの時間だった。

次に口を開いたのは綾乃だった。

夏目のほうへ振り向き、言う。

「手を繋ごう!」

 いつもの無邪気な笑顔を携えて、綾乃はそう言った。

夏目は返答のあまりに意外な内容に呆気にとられた。予想していた反応は頭の心配をされるか、悪口ととられて怒られるか、冗談ととられるか、だった。

しかし、これでは――――何もなかったかのようではないか、夏目はそう思った。

 これじゃ駄目だ、直ぐにその考えにたどり着いて、夏目は口を開いた。

「あのね綾乃――――」

「ずっと様子が変だったから安心したよー」

 夏目の言葉をさえぎって綾乃はそう言った。

死の事実を突き付けられた人間の反応ではない。夏目によく知る、綾乃の持っている天性の明るさだった。

その様子に何を言っていいのかわからず、夏目は掌で存在感を放つ綾乃の手のひらを感じていた。柔らかく、自分の手より暖かかった。

えっへっへ、綾乃は可笑しな笑い声をあげ、話し続ける。

「図書室のときとか、なーんか楽しそうじゃないと思ってたんだよね。変だと思ってたけど、無事解決ってね!」

 夕焼けを背に語る彼女は、夏目にはとてもまぶしく見えた。同時に、その姿は夏目にも希望を与えていた。

 夏目は何かが動いていくのを感じてた。そして、未来が変わらないことを思い出して現実に引き戻される。

「……信じてくれるの?」

「いやー、衝撃的だけどね。でも信じるよ」

 何で、と聞こうとした。しかし、それより早く綾乃は口を開いていた。

「――ーー大事な友達だからね」


五時三分、夏目と綾乃は大事な話をした。

五時八分、テンションが上がった二人は走りながら帰り道を通って行った。

五時十分、二人は目の前で赤くなった信号を見つめながら交差点で立ち止った。


「私はここで死ぬのかな」

「……うん」

 綾乃の口から言われると、急激にその事実が現実味を帯びた。夏目は綾乃に対して、詳しいことは告げなかった。それでも自分の死というのはなんとなく感じ取れるのかもしれない。

そんなことを夏目は思った。

掌には綾乃の手がずっと収まっている。

だから、夏目にも震えているのが伝わっていた。

「怖い、わよね」

 こくり、と。綾乃は小さく頷いた。

すぐ隣にいるのに、夏目にはその距離が長く感じられた。

「手、離そうか。危ないよ」

 そんなことない、と思ったが、夏目の反応を待たずに綾乃はそのつながりを断ち切ってしまった。

もう一度手を繋ごうと手を伸ばすと、綾乃は一歩前に出て、そのまま私と向かい合うように振り向く。歩道の淵ギリギリの場所で未来のことを除いても危ない場所だった。

先ほどよりも距離が延びて、何かしらの壁ができたように夏目は感じた。

時間はもう一分もないだろう。慣れている状況だったが、一つだけ違う。

もうやり直しはきかない。

そのことが夏目に後悔を伴う絶望を与える。何度も繰り返して、何も変えられなかった無力感が大きかった。

綾乃の顔に恐れは見えなくなっていた。

おそらく夏目を気遣っているのだろう、夏目はそのことに気付いていた。事情は話していないが、綾乃は自身の表情から何かを感じていたのだと、そう考えた。

その事実にたどり着いて、思わされる。

綾乃は夏目のことを大事に思っていて、彼女のことを信じ、思いやれるような人間だと。

しかし、自分はどうだろうか――――いや、言い切れる。綾乃ほど、自分の友人を思いやれるような人間ではない。

もしかしたらループを繰り返す前の夏目はそのような人間だったのかもしれなかった。しかし、度重なるループは夏目の世界から現実味を奪い、感情をすり減らしてしまった。

今ここにいる夏目は綾乃の思っている彼女とはかけ離れていた。

人間ともいえるか怪しい心しか持ち合わせていないのだ。

そのことが綾乃の純粋な心を刃に変える。

一瞬一瞬が、夏目を責めたてるようだった。

 それでも、

胸を去来する思いがあった。

今の自分が持っていていいのかわからないほど純粋な感情が確かにあった。

「……」

夏目にはもう超常現象を起こすことはできない。時間を操り、全てをやり直そうと動くことはできない。

きっと今胸にある感情は、前回のループのように何かの拍子で消えてしまうようなものだと、夏目にはわかっていた。

それでも、無駄にはしたくなかった。

自分のことを信じてくれた綾乃を裏切りたくなかった。


時間の流れは残酷で、人の決断を待ってくれない。

だから、自分の本能に任せて体を投げ出した。

綾乃との距離はいつの間にか短くなっていた。必要なのは一歩踏み出す勇気ただ一つだ。

 そして、

一歩踏み出した。


 壁を越えた。

人間らしく、超常現象でもなく、至って普通のことだ。

体の勢いに任せて綾乃の体に抱き付いた。

触れ合って、体温が伝わる。穏やかな熱が夏目の凍った心を溶かしているようで、心地よく感じていた。

対等には足りないかもしれないが、ようやく同じ土俵に立てたのだと夏目は思った。

綾乃の近くにいるという意味は十分分かっている。わかっているだけで、覚悟なんてしたわけではなかった。

「な、なんで」

 綾乃は理解できないようなことを言う。

そこで初めて夏目は気付いた。

自分が思っていた以上に友達というのは自分のことを大切に思ってくれていて、そしてそれを気付くのは本当に大事な時なのだ。

夏目には伝えたいことがたくさんあった。

けれど、全てが足りなかった。

短くまとめよう、そう思った。

その方が自分らしいとも。


「友達だからよ」

 

後悔なんてなかった。

目の前の少女とようやく友人になれた喜びだけが脳内にあった。


音が聞こえた。

一瞬のことだった。


五時十一分、歩道に侵入した大型トラックによって夏目と綾乃は死んだ。

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