一片の雪
――夢幻。
雪は、どんなに降っても、無くならない。
高い空から、まるで宝石箱を逆さまにした時の様に、限り無く落ちて来る。
雪の香り。
冬だけの匂い。
それは、天からの贈り物。
私は、寒さで目が覚めた。
眠い目をこすり、軽く背伸びをして、閉ざされた窓を開けてみる。
その瞬間、今まで体験した事の無い冷たい風が部屋に吹き込んで来た。
「雪かぁ……」
思わず、口から声が洩れる。
私の住む地方は、朝からこうして雪が降る事なんて滅多に無かったから。
もし降っても、夜だけだったり、朝が来る頃には溶けたりしている。
でも、今日はいつもと違った。
二階から見える、普段は茶色の地面が白く雪化粧を纏っている風景。
朝日は、とても綺麗に輝いていて。
雪に反射した光は、目が覚めたばかりの私の瞳に容赦無く飛び込んで来た。
「眩しい……」
私は、反射的に目を室内に向ける。
枕元に視線を運ぶと、赤と白の水玉模様で飾られた小さな箱が置かれていた。
「何だろ?」
疑問に思い、ふと、部屋の壁に掛けられたカレンダーを眺めてみる。
12月25日/誕生日。
良く見ると、赤いペンで何重にも囲まれた予定欄の中にそう書いてあった。
外に広がる、一面の銀世界。
そして、何故か高鳴る自分の心。
「……今日、クリスマスだったんだね」
その独り言は、外から吹いて来た冷たい風と一緒に消えてしまった。
窓を閉めて、私は、枕元に置いてあるプレゼントの側まで行ってみる。
「あれ?」
リボンの間には、サンタクロースの絵が描かれたカードが挟まれていた。
綺麗な字で、メッセージが書いてある。
『香澄へ。十二歳のお誕生日おめでとう。クリスマスと重なっちゃったけど、我が家では一年に一度の大切な記念日です。そんな香澄に、お母さんからもう一つのプレゼント。メリークリスマス!』
「お母さん……」
それが、とても嬉しかった。
忙しい中、私の為に時間を使ってメッセージカードを書いてくれたんだ。
「……ありがとう、お母さん」
言葉では、上手く気持ちを表せない。
でも、私の中にある暖かい何かは、きっとお母さんからプレゼントされた気持ち。
それは、たった一つの宝物。
箱を置いて、私は外へ遊びに行く為に急いで自分の部屋を後にした。
心にある、暖かい気持ちを引き連れて。
着替えて外に出ると、目の前に広がったのは鮮やかな白銀の世界だった。
雪を被った木々。
白く染まった大地。
空から降る白い結晶が、さらに幻想的な雰囲気を作っていた。
「皆、どうしてるかな」
そんな考えが、ふと頭を霞めた。
長い冬休みの間は、学校の友達と町で会う機会なんて滅多に無いから。
「会いたいなあ……」
ぼんやりと呟き、その場にしゃがみ込んで無造作に地面の雪を掬ってみる。
「……冷たい」
それは、手袋をしていなかった私の手に容赦無く注意を促して来た。
慌てて、持っている雪を地面に返す。
『何だよー』
『急に触るなよぉ』
まるで、私に触られてびっくりした雪達がこう言っているみたいだった。
「ごめんね」
私は、そんな雪達の事を思うと素直に謝らずにはいられなくなった。
雪だって、人間と同じで、急に触られたらびっくりするんだ。
先に言っておけば、きっと雪だって私が触る事を許してくれるだろう。
「今度は言うからね」
そう謝って、私は腰を上げる。
すると、突然立ち上がったせいなのか突発的なめまいが私を襲った。
前が真っ暗で、何も見えない。
(倒れちゃダメ……)
そう、自分に言い聞かせた。
両足を踏ん張り、何とか耐える。
すぐに、めまいは消えた。
「はぁ……び、びっくりした……」
あまりに突然の事に、私は自分の体に何が起こったのか分からなかった。
ただ――ちゃんと生きている。
「当たり前だけどね」
冗談ぽく思い、極度の緊張感から引きつっていた顔に、笑顔が戻る。
「良く言うよ」
突然、背後から少年の声が響いた。
「何!?」
言うが早いか、私は振り返る。
すると、いつの間にか目の前にいた少年と額同士がぶつかってしまった。
「いたっ!」
額に、軽い痛みが走る。
かばう様に、右手で額を抑えた。
「……大丈夫?」
私の様子を見て、事故の張本人である少年が心配そうに声を掛けて来る。
顔は見えないが、割と高い声だ。
「あ、貴方ね……何で私の後ろにわざわざいなきゃならなかったのよ?」
「分かってる、ごめん」
素直に謝る少年の態度に、私は額をぶつけた事をすっかり忘れて顔を上げる。
そこには、私と、身長も年齢もあまり変わらないであろう少年が立っていた。
髪は長めで黒く、顔立ちも端整なせいか、自分より若干年上に感じる。
唯一違うのは、その瞳。
まるで、宝石の様な淡い翡翠色。
透き通った瞳からは、おおよそ人間では有り得ない神秘的な雰囲気が漂っている。
「えっと……貴方は?」
「何だか、さっきと比べて態度が豹変してるのは気のせい?」
「そ、そんな事無いわよ」
少年から発せられる独特の気に、私は一瞬どう接して良いか分からなくなった。
でも、私に話し掛けて来たという事は、何かしらの用事があるのだろう。
「オレは雫。よろしく」
「うん。私は香澄。よろしくね」
そう言って、雫の方から差し出された右手をぎゅっと握り返す。
瞬間、冷たさが私に流れた。
「きゃっ……雫君!」
「へへ、びっくりしたかい?」
雫の手は、まるで氷の様に冷えていた。
雪で冷えた私の手でも、はっきりと冷たさを感じる程に異様な体温だった。
「オレ、人間じゃ無いんだ」
私が驚いていると、雫はためらう様子など見せずにしれっと言い放った。
「人間じゃ無いなら、何なの?」
「そうだな、オレは……」
私の手を優しく離すと、雫はおもむろに右手の指をパチンと鳴らして見せる。
すると、今までちらちらと降っていた雪が何の前ぶれも無く止んだ。
「オレは、冬の使いさ」
得意気な顔で、確かに言った。
勿論、そんな事を宣告された私の心中には、混乱の二文字しか無かった。
でも、実際に目の前で雪が止む光景を見せられたら、信じてしまいそうになる。
とにかく、今は半信半疑。
「それで、雫はどうして来たの?」
取り合えず、私達は家の近くにある空き地へ場所を移動する事にした。
まさか、自宅の庭で、会ったばかりの少年と話をし続ける訳にも行かないから。
お母さんに見付かれば、知らない子と話をするなと言われるかもしれない。
そんな訳で、私達は、空き地へと繋がる路地をひたすら歩いている。
「この町に、雪が降らないからさ」
「え?」
「だから、オレは、この町に雪を降らせる為にわざわざ空から来たってわけ」
雲の方を指差しながら、雫は言った。
私には、どうしても、どう頑張っても、嘘を付いている様には見えない。
「雫の故郷は、ここから遠いの?」
「そうだなあ……香澄が考えてるより、ずっとずっと遠いかもな」
「名前、初めて呼んでくれたね」
「ん?」
「ううん、なんでも無い」
既に、疑う気持ちは無かった。
初めの内は、出会い頭に軽い頭突きを喰らわせられたせいで、変な人だと思った。
でも、こうやって話してみると、予想より格好良くて優しい人だった。
「空き地までは、まだ遠いのか?」
「う〜ん……もう少し」
移り行く景色を眺めながら、私と雫は転ばない様に歩を進める。
と、急に私の足元が滑った。
「きゃ!」
「おっと!」
転ぶ寸前、雫が素早く私と地面の間に滑り込んで、怪我を防いでくれた。
「大丈夫か?」
「うん……ありがと」
「香澄、見た目より重いな」
「……バカ!」
小さく笑う雫を見て、私はどうにも恥ずかしい気持ちが心に溢れて来た。
「な、何で怒るんだよ?」
服に付いた雪を払いながら、心底分からないと言った表情を浮かべている雫。
無視していると、やがて雫は何かを思い立った様子で、私の手を握って来た。
「飛んだ方が早いな」
「え?ちょ、ちょっと待って!」
忠告も虚しく、雫は、まるで重力との関係を断ち切る様な感じで地を蹴る。
ゆっくりと、私の体が宙に浮いた。
「わぁ!飛んでる!」
「伊達に、冬の使いじゃ無いさ」
雫の言葉も、私の耳には届かなかった。
普段見ている町が、遠くの方まで見える。
電柱の高さ位まで飛んだ体は、ふわふわと何の抵抗も無く空中に止まっていた。
「すごい!雫君!」
「で、空き地はどっちだ?」
「えっとね……あ!あの、土管が三本詰まれてる場所が見えるでしょ?」
不思議と、恐怖は感じなかった。
こんなに高い所から、普段は見る事の出来ない空き地が見えているのに。
「分かった。じゃ、行くぞ!」
刹那、私と雫の体は、まるで雲の様にゆっくりと空き地の方へ動き始める。
「寒くないかい?」
「うん。……不思議だね」
「何が?」
「……雫君が。こんなに高いのに、手を繋いでるだけで怖くないから」
「……参ったな」
恥ずかしそうに、頭を掻く雫。
何故、怖さを感じないのか。
どうして、高い場所を飛んでいるにも関わらず、恐怖感に駆られないのか。
「頼りにしてるよ」
「ああ」
それは、雫に手を握られているから。
彼の手には、最初の冷えた感覚と違って、暖かい体温が確かにあった。
もう、握られても冷たくない。
暖かみのある、雪で冷えた手を優しく包み込んでくれる様な感じで。
冬の使いは、とても暖かかった。
「降りるぞ」
「うん」
空き地の上空に来ると、雫は再び左手をパチンと勢い良く鳴らしてみせる。
すると、私達の体がゆっくりと雪化粧を纏った地面に近付いて行った。
「久し振りの地面だね」
「空と大地、どっちが気に入った?」
「んと……空かな」
私が答えると、雫は今まで見せなかった程に満面の笑みを浮かべていた。
「俺も空が好きだな」
「やっぱり、冬の使いだから?」
「かもしれない」
やや自嘲的に言うと、私達はお互いに顔を見合わせて、また小さく笑った。
話を交すうちに、私達の足は地面に付く。
雪の感触を確かめると、私は改めて雫と一緒に空を飛んだ現実を実感した。
「ここが空き地か」
「うん。いつもは誰かいるんだけど、今日は誰もいないみたい」
軽く背伸びをすると、雫は周りの土地を確かめる様に辺りをじっくり見回す。
目に入るのは、いつもは緑色の木々に、真っ白な雪が積もってる事ぐらい。
「香澄、ちょっと」
「え?」
何を思ったのか、雫は私の手を握ると近くに生えていた木の側へ近寄った。
「話を聞いてみよう」
「話って……木と話すの?」
「まあ、見てて」
私の怪訝な表情とは裏腹に、雫は自信満々な様子で木の幹に左手を当てる。
すると、どこからか声が聞こえた。
『こりゃ驚いた……今時、ワシの声が聞こえる者がいたとは』
それは、耳からでは無く、脳に直接語り掛けて来る様な低い声だった。
「じいさん。今年も来たよ」
『その声は……雫か』
「一年振りかな?会うのは」
それを聞いて、今度は雫が言葉を紡ぐ。
状況が飲み込めず、自然と会話を静観していた私の方に会話の矛先が向いた。
『雫。手が早いのう』
「何が?」
『隣にいる女子だ。大方、可愛いからという浅はかな理由で得たのだろう?』
「じいさん……オレは、この町に雪を降らせる為に来ただけだっての!」
『嘘を申すな、分かるぞ』
一体、何の話をしているんだろう。
早く止めないと、大事な話の内容が分からなくなる様な気がしてならない。
「えと、話を聞くんだよ……ね?」
私が言うと、会話は止んだ。
咳払いをして、一旦仕切り直す。
「とにかく、今年はじいさんの力と、香澄の助けが必要なんだ」
『やはり……先程の雪は、お主が降らせた雪では無かったのだな』
「そう。あれは自然の雪だった。今年は町の広さと比べて、雪の量が足りないんだ」
『だから、ワシの葉を使いたい。そういう事を言いたいのであろう?』
「そう。何とか頼まれてくれないか?」
『無茶言うな。一口に葉を渡すと言っても、ワシに来る痛みがあるのだ』
「……痛いのか?」
『かなりな』
言葉を放つ木の声には、有無を言わせぬ説得力が込められていた。
「……そう、か……」
会話を終えると、雫は浮かない表情を浮かべて、木の幹からそっと手を離した。
「ねえ……どうしたの?」
「……ごめん、香澄」
こんな雫を見たのは、初めてだった。
本当に苦しそうな顔で、私に謝っている理由すら、分かってやれなかった。
「オレ、雪は降らせそうも無い……」
「それって、町に雪を降らせる為の葉をもらう事を断られたからなの?」
「ああ……」
どうして、辛そうなのか。
雫が、苦しむ顔なんて見たくない。
「……どうして?」
「え?」
「何が言いたいの?」
私の問い掛けに、雫は驚いていた。
「……バレてたのか」
「雫って、嘘は付けないのね」
やがて、何かを覚悟した表情を浮かべてぽつりぽつりと語り始める。
「オレが、この町に雪を降らせる為に、空から来た事は知ってるよな?」
「うん」
「そこの決まりがあって、今日の日没までに雪を降らせなきゃならないんだ」
そう話す雫は、本当に辛そうだった。
言葉には現れていないけど、話す態度や表情にはしっかりと反映されている。
「失敗したら?」
「もし失敗したら……オレは、香澄の前から消えなきゃならない」
「……え?」
「香澄の記憶からも、オレと関わった事が残らず消されてしまうんだ……」
まるで、死刑宣告を下された感覚。
ショックより先に、現実を拒絶する強い放心状態が私の心を突き刺した。
「そんなの、嫌だ……」
「香澄……」
「私、雫との思い出を消されたくないよ!」
気が付けば、涙が流れていた。
袖で拭おうとするが、雫は何も言わずに涙をそっと指で拭いてくれた。
「私……雫と会えて嬉しかったよ?」
「香澄……」
「優しくしてもらったし、空も飛んだ。木と話だってさせてくれた……」
どうしても、語尾が震えてしまう。
「だったら……どうして、私は雫に何もしてあげられないの?」
「香澄……もう良いよ」
「駄目だよ!雫に何かしてあげるまで、私は絶対に離れないんだから!」
これが、精一杯の気持ちだった。
このまま、雫と離れたくなんか無い。
どんな手を使っても、この町が隠れてしまう位の雪を降らせてみせる。
そして、気持ち良く雫と別れたい。
心の靄を払って、会えて良かったと思える、綺麗な心をずっと残したい。
「もう一回、木と話そう!」
「え?」
「私が何とかするから!」
答えを聞かず、半ば強引に右手を引っ張って先程と同じ木の幹に押し当てる。
すぐに、頭の中から声が響いた。
『乱暴よのう……お主は』
「ごめんなさい。でも、どうしても貴方に聞きたい事があって」
『……何事だ?』
思わぬ言葉に、木は僅かに声を強張らせて言葉を返す。
「雫が頼んでも、雪を降らせる為の葉を私達に渡す気は無いのですか?」
『……そこまでして、何を望む?』
「私は、何かを望む望まないではなく、純粋に雫を助けたいのです」
その発言に、木の言葉は止んだ。
「雫は、私の心に、沢山の楽しい思い出や暖かさを渡してくれました」
『……ほう』
「今日教わった事は、これから大人になっても絶対に忘れる事なんてありません」
『だが、偽る事も可能だ。人間が吐く言葉は相対的に信用出来ない』
「くっ……」
核心を突く台詞に、言葉が出なかった。
長い時を生きた木は、普通の人間には無い卓越した話術を備えている。
恐らく、葉を渡す事は、木に取っても想像を越える苦痛に繋がるのだろう。
だからこそ、ここまで冷静な口調で私の言葉を否定しているんだ。
「なら、これでも嘘だって言えますか!」
そう吐き捨てると、今まで黙っていた雫の顔の近くまで背伸びをした。
「か、香澄!」
「ごめんなさいっ!」
お互いの言葉が、遮断される。
私は、呆然とする雫にそっと唇を重ねた。
一瞬だけ、流れている時間が止まったかの様な感覚に捕われた。
「っ……」
「……雫、君」
私は、ゆっくりと背伸びをやめた。
雫の腕を掴み、再び木の幹に押し当てる。
「……これでも嘘だと言うなら、貴方の心は汚れていると思います」
その直後、耐えがたい恥ずかしさが時間差で全身の神経を駆け巡った。
「じいさん、俺からも頼むよ」
私に少し遅れて、雫が言葉を放つ。
そんな雫を直視出来ず、行動についてどう言い訳をしようか必死に考えていた。
『……お主達には負けた』
「じゃあ、オッケーって事か?」
『ああ、持って行け』
「サンキュー!じいさん」
木から手を離すと、雫は満面の笑みを浮かべながら私に向かって親指を立てる。
「やったな!」
「うん……ごめんね」
「良いんだ。俺も嬉しかったぜ」
「どうして?」
言葉の意味が分からず、どういう所が嬉しかったのか素直に訪ねてみる。
「……まあ、その」
「はっきり言ってみて」
「……香澄が好きだから、かな」
「…………」
「ゴメン、やっぱ忘れてくれ!」
頼まれても、忘れられない。
「……私も好き」
「え?」
「私は、雫と同じ気持ち」
言いたい事は、変わらないから。
その時、木の頂上から淡く緑色に光る葉っぱがひらひらと落ちて来た。
それは、翡翠色の瞳と同じ色。
「忘れないでね、私の事」
「忘れないよ、絶対」
お互いに小さく笑い、握手をする。
「さよなら、香澄」
「うん。元気でね」
「色々ありがとうな」
「私も、楽しかったよ」
そう言った瞬間、雫の体が浮いた。
風を縫う雲の様に、ゆっくりと飛ぶ雫。
「また会えたら」
「うん」
最後に言い残すと、雫の姿は消えた。
まるで、煙が空に昇って行くかの様に。
不思議と、涙は出なかった。
それよりも、雫と綺麗にさよならを言えた事が本当に良かった。
「元気でね、雫君」
ぽつりと呟くと、私の額に何かが落ちた。
顔を上げてみると、数えきれない程の真っ白な雪が天空から舞い降りていた。
「綺麗……」
きっと、雫君が降らせてくれたのだろう。
小さな思いを馳せて、私は彼の温もりが残る右手をゆっくりと空に掲げた。
完