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音、鏡の女の子。

作者: 山田 ソラ
掲載日:2026/07/18


 念願の一軒家を買った。


 決して安くはなかったが、庭付き、駅から徒歩十五分。文句のつけようがない物件だった。


 引っ越しの荷解きをしていたある日、風呂場の鏡が真っ二つに割れていることに気づいた。ちょうど人の背丈ほどの高さで、内側から叩き割ったような放射状のひび。

 

 不思議なことに、床にはガラスの破片が一つも落ちていなかった。割れた「音」を、誰も聞いていないのに割れている。それが妙に気持ち悪かった。


 業者を呼んだ。作業員は鏡を一目見るなり手を止め、それから何も言わず作業を進めた。新しい鏡を取り付ける最後の瞬間、コン、と軽い音がした。


 作業員のドライバーが滑った音だと思ったが、彼は工具を握ったまま固まっていた。


「……今の、聞こえました?」と聞くと、彼は首を振って「風です」とだけ言い、逃げるように帰っていった。


 その夜、風呂に入った。


 湯船に浸かっていると、水面に小さな波紋が立った。誰も触れていないのに。ぴちゃん、と一滴、天井から落ちるような音。見上げても濡れていない。ふと顔を上げると鏡の中に、小さな女の子が立っていた。


 濡れた前髪。白い顔。口が微かに動いている。声は聞こえない。なのに、頭の中に直接響くように、小さな声が這い込んでくる気がした。「……あそぼ」


 叫び声にもならない声を上げて、俺は裸のまま風呂場から飛び出した。ドアを閉めた瞬間、内側からコン、と鏡を叩く音が一度。


 そのあと、しばらく耳の奥で、キーンという高い音鳴りが消えなかった。耳鳴りにしては、規則正しすぎた。


 翌日、不動産屋に怒鳴り込んだ。担当者は面倒くさそうにファイルをめくり、「事故物件ではありません」と繰り返すだけだった。


「じゃああの音は」と聞くと、担当者は一瞬手を止め、「……前の住人も、そんなことを言っていました。最後は、テレビの音量をずっと上げていたそうです」とだけ答えた。それ以上は何も語らなかった。


 それから俺は風呂場に板を打ち付けて封印した。だが夜になると、板の向こうから微かな音が聞こえるようになった。水滴の音。


 ぴちゃん、ぴちゃん。時々、それに混じって、鼻歌のような、幼い声のような、旋律とも呼べない何か。


 会社でその話をぽろっと漏らすと、同僚たちが妙に食いついてきた。


「幽霊見たい」


 そう言い出したのはDだった。面白半分に、AとBとCも乗り気になり、週末、うちで「お化け観察会」をすることになった。

一人ずつ、板を外した風呂場に入っていった。


「たしかになんかいる……水の音がずっとしてる」とAは戻ってくるなり青い顔で言った。


 「女の子が鏡に写る……声も、聞こえた気がする」とBは震えながら言った。


「わかった、あれ人形だよ。女の子の形の人形」とCだけが妙に落ち着いていた。

 

 ただ、Cはそう言いながら、無意識に自分の耳を何度も擦っていた。


 Dだけが妙に張り切っていた。「音がするなら録音もしよう」と、小型カメラとマイクを風呂場に設置した。映像と音声はリビングのテレビにリアルタイムで流される。


 みんなで酒を飲みながら、テレビの中の暗い風呂場を眺めた。スピーカーからは、水道の元栓が閉まっているはずの風呂場から、ぽたり、ぽたりという水音だけが規則的に流れ続けていた。


 最初は緊張していたが、一時間経っても鏡には何も映らない。次第に飽きて、くだらない話で盛り上がった。


 今思えば、あの時だ。


 くだらない話の合間、テレビのスピーカーから聞こえていた水音のリズムが、ほんの一瞬だけ変わった。


 ぽたり、ぽたり、ではなく、ぽたり、ぽたり、ぽたぽた、と、まるで何かが駆け出すような不規則な音に。


 誰も気づかなかった。ただDだけが、話の途中で急に黙り込み、テレビの音量つまみに手を伸ばしていた。俺たちは酔っていて、気に留めなかった。


 気づいたときには、Dはもうカメラを回収していて、いつも通りの顔で「じゃあ、お開きにしよう」と笑っていた。あの時Dの声が、心なしか二重に聞こえたことに、誰も触れなかった。


 翌日、Dは会社に来なかった。


 一週間、無断欠勤が続いた。心配した上司が毎日、Dのアパートを訪ねたが、返事はない。それでも上司は言った。


「いる。テレビの音がずっと鳴ってる。それと……女の子の声も」


 その言葉を聞いて、俺とA、B、Cは妙な胸騒ぎを覚え、Dのアパートへ向かった。

インターホンを押す。応答なし。ドアの向こうから、微かにテレビの砂嵐のようなノイズ音が漏れていた。


 俺は玄関ドアに耳を当てた。


 ノイズ音の合間に、「……可愛いな、可愛いな……」という声が、確かに聞こえた。それはDの声だった。


 だが、その語尾に、もう一つ幼い声が重なっていた。同じ言葉を、少し遅れて復唱するように。二つの声がわずかにずれて響く、その「ずれ」が何よりも気持ち悪かった。


 俺は思わず後ずさった、他の三人も次々にドアへ耳を寄せる。


「女の子の声と、Dの声がする」とBが震える声で言った。Cは何も言わなかった。ただ、耳を離した後もしばらく、両手で自分の耳を塞いだままドアを見つめていた。

そのとき、Aが叫んだ。


「くさい……!」


 確かに、腐敗臭のようなものがドアの隙間から漂ってきていた。Aがすぐに警察を呼んだ。俺たちはただ立ち尽くすことしかできなかった。


 中からはまだ、ノイズ混じりのあの声が聞こえ続けていた。


「可愛いな、可愛いな、可愛いな」


 数分後、警察官が到着し、大家に鍵を開けさせて突入した。


 ドアが開いた瞬間、部屋の中の音が一気に廊下へ溢れ出した。テレビの砂嵐のノイズと、水の音と、あの声。


 数秒後、警察官の一人が転がるように玄関から飛び出し、その場で嘔吐した。もう一人が無線で応援を呼んでいる。


 ドアが開いた一瞬、俺は部屋の奥を見てしまった。テレビの明かりだけがついていて、その画面には、誰もいないはずの風呂場の鏡が映っていた。


 スピーカーからは、水音に混じって、かすかな笑い声。


 その後のことは、正直あまり覚えていない。断片的にしか分からない。覚えていたくない、という方が正しいかもしれない。

Dは一週間前に、すでに死んでいたということ。


 女の子の形をした人形を、両手で強く握りしめたまま首を吊っていたということ。 その人形の顔は、うちの風呂場の鏡に写っていた女の子と、驚くほどよく似ていたということ。


 そして、部屋のテレビは電源が抜かれていたにもかかわらず、あの夜からずっと、あの風呂場の映像と音を流し続けていたということ。


 それだけだった。


 俺は考えた末、一軒家を売り払い、アパートに引っ越した。Dの葬式には行かなかった。行けなかった。それでも普段通りの生活を取り戻そうとした。


 考えると、今でも怖くなる。


 死んでいたはずのDの、あの「可愛いな、可愛いな」という声。


 そして、A、B、Cが口をそろえて言った「女の子の声が聞こえた」という言葉。


 あれが何だったのか、俺は今も、考えないようにしている。


 だが最近、新しいアパートの洗面所から、夜中に微かな水音が聞こえるようになった。


 蛇口はきちんと閉めている。それでも、ぴちゃん、ぴちゃんという音だけが、確かに聞こえる。


 音量を、少しずつ上げているような気がする。




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