高嶺の花は静かな君に恋をする
教室の隅、窓際の席。そこが俺の定位置だった。
騒がしい昼休みも、グループで盛り上がる放課後も、全部どこか遠い世界の話みたいで。
俺はただ、静かに本を読んでいるだけでよかった。
少なくとも、あいつに出会うまでは。
「また告白されてる」
誰かが小声で言う。視線の先には、クラスの中心にいる女子。明るくて、誰にでも優しくて、笑うと周りの空気まで軽くなるような人。
高嶺の花
みんながそう呼んでいる。
その日も、サッカー部の有名な先輩が彼女を呼び出していた。
イケメンで、運動もできて、女子からの人気も高い人だ。
どうせ付き合うんだろう、と思った。
ああいう人同士がくっつくのが普通だ。
俺には、関係ない。そう思って、視線を本に戻した。
その日の放課後。
帰ろうとしたとき、校庭の端で騒ぎが起きていた。
「猫がいる!」
「降りられないみたい!」
見上げると、大きな木の上に小さな猫。
そして、その少し下に
「え、ちょっと待って、これ高くない?」
“高嶺の花”が、木に登っていた。思わず足が止まる。
なんであいつが、そんなことを。
「危ないよ!」
「先生呼ぼうよ!」
周りの声も聞かず、彼女は少しずつ上へ。
次の瞬間
「っ、やば……」
足を滑らせた。考えるより先に、体が動いていた。
気づいたときには、木の下に駆け寄っていて。
「——っ!」
落ちてきた彼女を、なんとか受け止めた。
衝撃でバランスを崩しながらも、地面に倒れ込む。
一瞬、世界が静かになる。
「……大丈夫か」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
腕の中で、彼女がゆっくり顔を上げる。
「え……あ、あれ?」
「怪我、してない?」
「う、うん……たぶん」
少しだけ息が乱れている。でも、すぐにふっと笑った。
「助けてくれたの、君?」
「……たまたま」
「たまたまで人って受け止められる?」
くすっと笑う。その距離が近すぎて、思わず目を逸らした。
「ありがとう。ほんとに」
その言葉が、やけに胸に残った。
翌日。
教室に入ると、妙な視線を感じた。
そして
「おはよ」
目の前に、あいつがいた。
「……おはよう」
「昨日、ほんとありがとね」
にこっと笑う。クラスの空気がざわつくのが分かる。
「別に、気にしなくていい」
「気にするよ。命の恩人だもん」
「大げさ」
「大げさじゃないよ」
そう言って、少しだけ真剣な顔になる。
「ねえ、今日放課後、空いてる?」
「……は?」
「ちょっと話したいことあるんだ」
逃げる理由が、思いつかなかった。
放課後、屋上。風が少し強い。
「……で、話って?」
「うん」
彼女は少しだけ言いづらそうにしてから、口を開いた。
「昨日、先輩に告白されたの」
「……そう」
やっぱり、と思った。
「でも、断った」
「え?」
思わず顔を上げる。
「なんで……」
「だって」
一歩、距離を詰められる。心臓がうるさい。
「好きな人、できちゃったから」
「……」
「ねえ」
まっすぐ、目を見られる。
「君のことなんだけど」
時間が止まったみたいだった。
「……なんで、俺」
「理由、いる?」
「普通は、いるだろ」
「じゃあ言うね」
彼女は少し考えてから、笑った。
「昨日、必死に助けてくれたときの顔が、すごくかっこよかったから」
「……」
「あと、たぶんだけど」
「?」
「私に興味なさそうだったから」
意外すぎて、言葉が出ない。
「みんな、私のこと“高嶺の花”って扱うでしょ?」
「……まあ」
「でも君は違った」
風が髪を揺らす。
「それが、なんか……嬉しかった」
少しだけ照れたように笑う。
「だからさ」
「……」
「これから、私からアタックしていい?」
逃げ場はなかった。
いや、たぶん最初から、逃げる気なんてなかった。
「……好きにすれば」
「なにそれ」
「嫌とは言ってない」
彼女は一瞬きょとんとして、それから満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、決定ね」
そう言って、俺の隣に立つ。少しだけ距離が近い。
「まずは、名前で呼んでよ」
「……無理」
「えー、そこは頑張ろうよ」
騒がしい。でも、不思議と嫌じゃなかった。
たぶん俺の静かな日常は、これから少しずつ変わっていく。
“高嶺の花”に、振り回されながら。
次の日、教室のドアを開けた瞬間に思った。
何かがおかしい。視線が、やけに集まっている。
「おはよ!」
原因はすぐに分かった。
“高嶺の花”が、俺の席の横に立っていた。
「……なんでいる」
「挨拶しに来ただけ」
「わざわざ?」
「うん、好きな人にはちゃんとしたいでしょ?」
教室がざわつく。
「え、今の聞いた?」
「好きって言ったよな?」
やめてくれ、と思ったが、もう遅い。
昼休み。
いつも通り一人で食べるつもりだったのに。
「はい、隣いい?」
断る前に座られた。
「……好きにしろ」
「うん、そうする」
当たり前みたいに弁当を広げる。周りの視線が痛い。
「ねえ」
「何」
「これ美味しいよ」
そう言って、箸で卵焼きをつまむ。嫌な予感がした。
「ほら、あーん」
「は?」
「早く」
「無理」
「なんで?」
「なんでって……」
理由を説明できないまま固まる俺に、彼女は少しだけ口を尖らせた。
「じゃあ、私が食べる」
ぱくっと食べる。
「……」
「美味しい」
「……そうか」
「でもやっぱり、食べさせたかったな」
わざとらしくため息をつく。
周りから小さな悲鳴みたいな声が聞こえた。
もう勘弁してほしい。
放課後。
「一緒に帰ろ」
それが当たり前みたいに言われた。
「……なんで」
「一緒に帰りたいから」
「理由になってない」
「好きだからで十分じゃない?」
まっすぐすぎる。断る言葉が見つからない。
結局、並んで歩くことになった。夕焼けの帰り道。
「ねえ、静かだね」
「……元から」
「知ってる」
くすっと笑う。
「でも、嫌いじゃないよ」
「……」
「むしろ落ち着く」
そんなことを言われて、どう反応すればいいのか分からない。ただ、少しだけ歩くペースを合わせた。
数日後。
その“アタック”はエスカレートしていった。
朝は挨拶しに来る。昼は隣でご飯。放課後は一緒に帰る。
そして
「今度の休み、空いてる?」
「……一応」
「じゃあデートね」
「決定なのか」
「うん」
即答だった。
休日。
駅前で待ち合わせ。
人混みの中でも、彼女はすぐに見つかった。
というより——目立ちすぎる。
「おまたせ!」
手を振りながら駆け寄ってくる。
「待ってない」
「ほんと?」
「……少しだけ」
「ふふ、素直じゃないね」
そう言って、自然に俺の隣に並ぶ。
「行こ」
「……どこに」
「内緒」
結局、一日中振り回された。
服を見て、カフェに入って、また歩いて。
気づけば、笑っている時間が増えていた。
帰り道。
夕焼けが、あの日と同じ色をしている。
「ねえ」
「何」
「そろそろ、どう?」
「……何が」
「私のこと」
足が止まる。彼女も立ち止まって、こちらを見る。
「まだ、ダメ?」
少しだけ、不安そうな顔。
その顔を見た瞬間、胸の奥が強く締め付けられた。
ああ、もう無理だ。認めるしかない。
「……最初は」
「うん」
「正直、面倒だと思ってた」
「ひどい」
「でも」
言葉が、自然に出てくる。
「今は、違う」
「……」
「お前が隣にいるの、悪くない」
彼女の目が少し見開かれる。
「むしろ」
一歩、近づく。
「いないと、落ち着かない」
沈黙。風の音だけが聞こえる。
「だから」
深く息を吸う。
「——付き合ってほしい」
一瞬の間のあと。
「……遅いよ」
彼女は、泣きそうな顔で笑った。
「ずっと待ってたんだから」
「……悪い」
「ほんとだよ」
でも次の瞬間、いつもの明るい笑顔に戻る。
「でも、嬉しい」
そっと、俺の袖を掴む。
「これからは遠慮しないからね」
「今までしてたのか?」
「ちょっとだけ」
「嘘だろ」
笑い声が重なる。夕焼けの中、並んで歩き出す。
距離は、もう迷うことなく近いまま。
“高嶺の花”は、もう手の届く場所にいた。




