第7章 剣と壁と翼と
【1】冷静な朝と静かな決意
迷宮都市。朝の気配は、いつもどこかささくれている。
剣の音、怒声、露店の立ち上る湯気。
そんな中、サーシャはギルド前の階段に腰を下ろし、ゆっくりと朝食の干しパンをかじっていた。
口の中がぱさつく。でも、気にはならなかった。
頭の中は、昨日の記憶でいっぱいだった。
(また足を引っ張った)
(リュナに怒らせて……フィオナにも守られて)
(あたし、何がしたいんだろう)
手にした剣を膝の上で眺める。
この柄がしっくりこないのは、技量が足りないからなのか、性に合ってないのか。
迷宮の風を吸った革の匂いが、ふと鼻先をかすめた。
(違う。あたしは、みんなを支えたいんだ)
その瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、
剣ではなく、あの“重くて、動かしにくいけど、絶対に揺るがない”——盾の記憶だった。
あの時、壁になれたなら。
一歩前に出て、剣を振るよりも先に、仲間を守ることができていたなら。
(……あたし、前衛じゃなくて、“壁”になりたいのかも)
思わず小さく笑った。
ようやく、胸の奥に溜まっていたもやが、少しだけ晴れた気がした。
「おっはよー」
軽い足音と共に、リュナが現れる。
腰に剣をぶらさげ、いつものように髪を乱したまま。フィオナもその後ろから黙ってついてくる。
「今日は早いわね。やる気?」
「ううん。ちょっと……相談があるの」
サーシャは立ち上がり、二人をまっすぐに見た。
「今日一日、時間をもらえないかな。
あたし、自分の戦い方……見直してみたいんだ」
リュナが片眉を上げる。
「へぇ、後ろ向きじゃなくて、前に進む悩み。……いいわよ。フィオナも、それでいい?」
フィオナは、短くうなずいた。
「……戻ってくるの?」
サーシャが不意に問われた気がして、少しだけ肩が揺れる。
「もちろん。……逃げたくて離れるんじゃないよ。変わるために離れるの」
リュナはふっと息を吐き、腕を組んだ。
「なら、昼までには出るから。次の探索、あんた抜きで行くけど文句なしね?」
「うん。お願い。無理だけはしないでね」
三人の間に、小さな沈黙が落ちた。
でもそれは、前よりもずっと優しく、静かなものだった。
——サーシャは、ゆっくりとギルドの階段を降りていった。
盾を探す足取りは、まっすぐだった。
【2】 サーシャ側:装備屋にて
軋む扉をくぐると、革と金属の匂いがむっと立ち上がる。
通りの外れにある、鍛冶屋兼装備店。
派手さはないが、地元の冒険者たちが口を揃えて“実用一点張り”と評する店だった。
「いらっしゃい。……お、嬢ちゃん、初めてだね」
ごつごつとした手の店主が、鍛錬中の鎧を打つ手を止める。
サーシャは少しだけ頭を下げた。
「防具が、欲しくて……盾と、それから、動きやすい装備を」
「盾か。いい心がけだ。最近の若いのは、突っ込んでばっかでよ。
……で、お前さん、力任せに振るうのは苦手なタイプだろ?」
棚から分厚い革盾と、金属の芯が通った頑丈なバックラーを取り出しながら、店主がにやりと笑う。
「身体は恵まれてる。でも剣より、“構える”方が合ってる気がするんだな、嬢ちゃんは。違うか?」
サーシャは少し驚いた顔をしたあと、静かにうなずいた。
「はい。……あたし、守るのが向いてると思うんです。
その……もう一度、家族になれるとしたら。
誰かを守れるようにならないと、って……」
店主は一拍置いてから、小さく笑った。
「……そういう理由で盾を持つ奴、嫌いじゃないよ」
サーシャは、その言葉にほんの少しだけ微笑んだ。
初めて、自分の選んだものが“間違いじゃない”と、他人の言葉で思えた気がした。
【3】 リュナ&フィオナ側:二人での探索
第1層、北回廊の未踏エリア。
瓦礫と倒れた棚が道を塞ぐ細い通路を、リュナとフィオナが抜けていく。
「ちょっと静かすぎるわね……」
「……風が通らない。たぶん、溜まってる」
「じゃ、先に動かしとこっか。――《エアブラスト》」
通路の奥へ向けて放たれた風の魔法が、ホコリと共に何かを引き剥がすように抜けていった。
とたん、上方の鉄枠からギィッと音が響く。
「……出た!」
ゴブリン4体。
その後ろから、低くうなる羽音――ジャイアントバットが5体、天井の影から舞い降りた。
「空と地上、分断する気か……!」
リュナが剣を抜いて前へ出る。
「《エアスラッシュ》——っ!」
1体、バットを薙ぐ。
だがその隙に、ゴブリンが左右から包囲するように動いた。
「……囲まれてる」
フィオナが囁くように言った。
彼女の杖から風が放たれるが、バットの動きが読めず命中率が落ちる。
「風、追いつかない……!」
リュナの肩が浅く裂ける。
小さく呻いた彼女が一歩退く。
「……くそ、こんな時に!」
言いかけて、舌を噛むように言葉を飲み込む。
「……サーシャがいてくれたら……って、思っちゃった。
あー、最悪。……あたしって、そんなに頼ってたっけ?」
フィオナは答えない。
ただ、わずかに唇が揺れた。
「……ほんとは、あの子が一番先に傷を受けてた」
リュナは一瞬だけ、息を止めるように黙った。
そして剣を握り直す。
「……いいわよ。いなくたってやる。けど――」
「次からは、もう絶対置いてこないからね、あの馬鹿」
そう吐き捨てるように言い、リュナは再び前へ踏み込んだ。
洞窟の奥。
一度戦いを終えた二人は、小さな岩棚の陰に腰を下ろしていた。
湿った石の壁に背を預け、リュナは肩の傷口を手当てしながら息を吐く。
「……ったく、数が多いわ。油断した。
あいつがいないと、やっぱ“隙”が増えるわね」
反応はなかった。
隣に座るフィオナは、黙ったまま水袋の口を締めていた。
少しして、ぽつりと問う。
「……本当に、戻ってくるの?」
リュナの手が止まる。
「……あんた、それ聞く?」
フィオナは答えなかった。
ただ、目を伏せていた。
リュナは肩をすくめ、苦笑するように小さく鼻で笑った。
「……まあね、私もちょっと思ったわよ。
あの子、もう来ないんじゃないかって。
“ごめんなさい”って言って、どこか遠くへ消えちゃうんじゃないかって」
声が、少しだけかすれていた。
「だって……ほら、あの子、いつも周りに合わせようとしてたじゃない?
でもさ、本当はずっと我慢してたのかもって、昨日……思った」
洞窟の天井から、しずくが一滴、ぽたんと落ちる音がした。
「私が……もう少し、言葉を選べてたら。
あの時、ちゃんと“ありがとう”って言えてたら、
もっと違ってたのかなって」
「……後悔してる?」
「してないわよ、バカ」
そう即答して、リュナは自分の前髪をくしゃりと掻き乱した。
「でも……次に顔合わせたときに、
あの子が“もう冒険やめる”って言ったら……さすがに、笑えないかも」
「……来ると思うよ」
フィオナがぼそりと呟いた。
「その子、たぶん、もう逃げないって顔してた」
リュナは横目でフィオナを見た。
彼女の表情は、相変わらず読めないままだった。
「だったら、もう少しだけ……信じてみるかな」
そう言って、リュナは傷の上から布を巻き直した。
手加減なしで次が来たっていいように、
少しだけ、構えを取り直す。
──そのとき、洞窟の奥に、足音が響いた。
【4】:再会と再出発
湿った空気を押し分けて、岩壁の奥から足音が聞こえた。
ひとつ、ふたつ。
それは規則的で、しかし少しだけ荒い。
走ってきた直後の呼吸の乱れが、こだましてくる。
「……っ、間に合った……」
灯りの届く範囲に、影が差した。
サーシャだった。
息を切らしながら、手には新しい大盾を、背には一回り小ぶりな片刃剣を背負っていた。
装備は軽鎧と厚革の防具に変わり、以前よりも“防ぐ”ことに重点が置かれている。
けれど何より変わったのは、彼女の顔だった。
迷いがなかった。
まっすぐ、ふたりのほうを見ていた。
「……遅れて、ごめん。でも……」
サーシャは一度息を整えて、微笑んだ。
「でも、間に合ってよかった」
リュナがゆっくりと立ち上がる。
薄く笑って、いつもどおりの調子で言った。
「……遅いわよ、馬鹿」
サーシャはふっと笑ってうなずいた。
「うん。馬鹿だから、遠回りしてきた」
フィオナは何も言わなかったが、
サーシャの姿をしっかりと目に焼き付けるように見つめていた。
盾が、岩の床にごとりと音を立てて置かれた。
新しい装備が、迷宮の空気に馴染み始める。
リュナが剣を抜く。
「……じゃあ、壁になってもらおうか。背中、預けるから」
サーシャは、大盾を構えた。
「任せて。今度こそ、ちゃんと守るから」
三人は再び、並んだ。
それは不器用で、まだ形になりきらない隊列。
でも、確かに“共に歩く意思”がある。
その背を、闇の奥から風が撫でた。
次の戦いが待っていた。
けれど今の彼女たちは、
それを迎え撃つだけの強さを、一歩ずつ手に入れ始めていた。