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第6章-2 サーシャの回想2

【6】 祝われなかった誕生日


その日は、二人の誕生日だった。

……かつては、そう呼ばれていた。


朝、厨房の隅で小さなパンと果実を受け取ったサーシャは、

いつものように裏手の掃除を済ませた後、東庭の通路を通って中庭へ向かった。


いつも通り——そのはずだった。


けれど、扉の先から、音楽が聞こえた。


笛の音。弦の響き。食器の触れ合う音。


中庭では、白い天幕が張られ、長いテーブルに料理がずらりと並べられていた。

豪奢なドレスに身を包んだ貴族の子弟たちが、笑いながら言葉を交わす。


テーブルの中央には、リゼがいた。


花の飾りを髪に編み、淡い水色のドレスを身にまとい、

笑顔で、客人一人ひとりに丁寧にお礼を言っていた。


「今日は本当にありがとうございます。……いえ、そんな……」


「リゼ様はご立派ですわ。まだお若いのに、魔法も立ち居振る舞いも」


「まさに、次代を担う器」


サーシャは、柱の陰にそっと立ったまま、それを見ていた。


ドレスの裾が風に揺れていた。

ケーキの上の蝋燭が、拍手と共に吹き消された。


「おめでとう、リゼ様!」


「ありがとうございます」


その声に、誰も“もう一人の誕生日”を思い出すことはなかった。


 


昔は一緒に歌ったはずだった。

プレゼントも、ケーキも、双子で半分ずつだったはずだった。


今は——名前すら、そこにない。


 


「……サーシャ?」


リゼが一瞬、こちらを見た。

視線が合いかけて、すぐに逸らされた。


あの笑顔は、今も変わらなかった。

けれどその微笑みは、もう、どこか遠いものに見えた。


サーシャは踵を返した。

音を立てないよう、裏門へと歩いた。


背中の向こうで、笛の音が再び高く鳴り上がった。



【7】 母との再会


その夜。

厨房裏の物置部屋に与えられた、サーシャの寝床。


薄い布団にくるまり、壁に背をつけていた。

音のない空気の中に、遠くからまだ音楽の余韻が響いていた。


まぶたを閉じると、昼の光景がよみがえる。

笑い声。花束。拍手。

リゼの笑顔。

それを見ていた人々の、まぶしい瞳。


そして、自分の名前はどこにもなかった。


 


(私は、祝われる価値のない存在……なんだ)


そう思った瞬間、喉の奥がひゅっと閉まった。


吐き出すはずの息が止まり、胸がきゅうとすぼまる。


目の端に、じわりと熱いものがにじんだ。


 


そのとき——


「……サーシャ?」


戸が、そっと開いた。


影が差し込む。

白銀の灯火の中に立っていたのは、母だった。


以前と同じ香り。

けれど、顔は少しやつれたように見えた。


手には、一枚の厚手の毛布が握られていた。


「寒いでしょう。……これ、持ってきたの」


そう言って、母は何も言わずに、布団の上に毛布を広げた。


サーシャは、声が出なかった。


唇がわずかに開きかけたが、震えで閉じた。


 


「……ごめんなさいね。

どうしても、あの場では……何も……できなくて」


母の指が、彼女の髪に触れる。

その瞬間——


ぶつり、と張り詰めていた何かが、切れた。


 


「……お母様……」


初めて声が出た。


続けて、涙がこぼれた。


止められなかった。

嗚咽が、音になってあふれていった。


母の胸元に顔を押し付けて、子どものように泣いた。


 


「……ごめんね、サーシャ……ほんとうに、ごめんね……」


母は抱きしめ返すこともできず、ただ背中に手を添えることしかできなかった。

それでも、あたたかかった。


その手が震えていたことを、サーシャはずっと覚えている。



【8】姉妹の再会


数日後の昼下がり。

サーシャは中庭の噴水を磨いていた。


石の縁を布でこすりながら、水に映る自分の姿をちらりと見下ろす。

灰色の作業服。結び損ねた髪。濡れた袖口。


昔、この場所ではリゼと花を咲かせていた。

今は、花の代わりに苔を削っている。


 


「リゼ様、こちらへどうぞ」


聞き慣れた名に、思わず顔を上げた。


 


——リゼがいた。


薄桃のドレスに身を包み、日傘を侍女に持たせている。

柔らかく巻かれた髪には小さな宝石飾り。

上品に整えられた足元が、芝に音もなく降りる。


傍らの侍女が、ハンカチで椅子の背を拭いてから、彼女を座らせた。


 


まるで、どこか別の世界から来たかのようだった。


 


「……リゼ」


声が喉に引っかかるようだった。

サーシャは、咄嗟に手の布を背中に隠した。


汚れていたからではない。

ただ、見せたくなかった。


 


リゼがこちらを見た。


一瞬だけ、瞳が揺れた。

懐かしさのような、気まずさのような、何かが通り過ぎる。


けれど彼女の口から、サーシャの名は出なかった。


「……あの、そこの噴水、もう少し水の流れがきれいになるようにできませんか?」


彼女は侍女に向かってそう言った。

侍女はうなずき、サーシャへ視線だけを投げた。


 


「かしこまりました」


声が震えそうになるのを、力で押さえ込む。


 


——一言でいい。ただ、名前を呼んでくれたら。

——あの日、庭で小指をからめてくれたみたいに。


けれど、リゼは立ち上がり、微笑んだまま背を向けた。


 


背中に飾られたリボンが、陽に揺れていた。


サーシャは、もう何も言えなかった。



【9】 母の決断


あの日、リゼの背を見送った夜。

サーシャは眠れずにいた。


頭の中で、何度も“もし”を繰り返す。

“もし私にスキルがあったら”

“もし誰かが助けてくれたら”

“もし、まだ隣にいられたら”……


戸が静かに開いた。


「……サーシャ」


灯りを手に、母が立っていた。

以前と変わらぬ夜衣姿。けれど、顔は疲れていた。


「……お母様?」


小さく呼ぶと、母はそっとベッドの傍らに腰を下ろした。


「ごめんなさい……あの日から、あなたに何もしてあげられなくて」


サーシャは首を振る。

母の目が、伏せられた。


「この国では……“スキルがない”というだけで、何もかもを奪われてしまう。

私たち貴族ですら、それには逆らえない。

ましてや、家の名を汚した、なんて言われれば……」


母の声が、細く震えた。


「でも……私は、あなたを“失った”とは思っていない。

あなたは、今も私の子。大切な……私の娘よ」


 


サーシャの喉の奥で、何かが鳴った。

それは、涙でも言葉でもなかった。

ただ、胸の奥が軋んだ。


 


「このままでは、あなたが壊れてしまう。

だから……この国を出ましょう。

あのリゼには……父とこの家がある。

けれどあなたには、“あなたの道”が必要なの」



「あなたを預かってくれる人がいるの。

遠縁の地に住む子爵家。昔、私が世話になった方。

今は隠居していて、世俗のことにはあまり関わらないけれど……

力はなくても、人を育てることに関しては、尊敬できる方よ」


 


封筒には、もう一枚の手紙が入っていた。

小さな花の封蝋。

その手紙には、母の古い筆跡でこう書かれていた。


「この子にはスキルがありません。

けれど、私は信じています。

この子が、もう一度誰かの隣に立てる日が来ることを」


 


旅立ちは、それから一月後だった。


小さな馬車に荷をまとめ、サーシャは屋敷の門をくぐった。


誰も見送らなかった。

けれど、母がそっとポケットに忍ばせてくれた小さな護符だけが、彼女の背を押した。


 


———


辿り着いた領地は、辺境に近い石造りの屋敷だった。

そこで出迎えたのは、白髪の太守のような老人と、使用人の訓練士たち。


「名は要らん。スキルがなくても、剣は振れる。

力がなければ、磨けばいい。

お前が何を取り戻したいのかは聞かん。

だが、“守りたいものがある”なら、それを忘れるな」


 


サーシャは、ただうなずいた。

その日から、剣と体術の訓練が始まった。


呼吸が苦しくなる日も、腕が痺れる日もあった。

それでも剣を握り続けた。


 


夜には、母からの手紙を読み返した。

同じ文章を何度もなぞった。

そこに書かれた「信じている」という言葉が、支えだった。


 


(もう一度、家族になりたい)


(そのために、私にできることを全部やる)


 


そして数年後、

もう一人で歩けるだけの力がついたその日、

サーシャは自ら望んで《カルツァレア》への紹介状を受け取った。


それが、自分自身の人生を取り戻すための旅の、本当の始まりだった。

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