第3章 風の中の差
迷宮第1層、《旧商人層》。
昨日と同じ、湿った石の匂いと、苔の踏み音が、足元から響く。
けれど今日は、気持ちの奥が少しだけざらついていた。
——昨日、あの子が崩れるように壁に寄りかかって、「魔力切れ」とだけ言ったとき。
リュナは迷わず撤退を指示した。
誰も反論しなかった。
サーシャも。
だからこそ、胸の奥に棘のような何かが残っていた。
◇ ◇ ◇
「ここ……昨日とは違う道」
リュナが前を歩きながら、地図の端を指でなぞる。
その指先は少しだけ速く、今日は時間を惜しむようだった。
少し奥の区画。天井の高い小部屋に踏み込んだとき、空気が変わった。
——ギィィィィ……
「バット! 上に5体! 下にゴブリン4!」
リュナの声が響く前に、音もなく黒い影が舞い降りた。
「フィオナ、やれる!?」
「風なら」
フィオナが一歩前へ出て、杖を一閃する。
「風の刃よ、切り裂け——《ウィンドカッター》」
「我が剣、旋空の刃を放て——《エアスラッシュ》!」
リュナの剣から放たれた風の魔力が、フィオナの風に重なり、天井を切り裂いた。
バットの羽が音もなく裂け、黒い羽が舞う。
視界が晴れ、部屋の下層が見える。
ゴブリンたちがこちらを見上げ、甲高い咆哮とともに突進してくる。
「サーシャ、前!」
リュナが叫ぶ。サーシャは反射的に前へ出た。
(できる、やるしかない)
剣を両手で振る——重い。肩が軋む。
思った角度にいかない。
バチン、と金属音。斬るはずだった腕が、視界の端で跳ねた。
次の瞬間、腹に棍棒がめり込んだ。
「っ……ぐ」
空気が抜ける。喉が詰まり、息が吸えない。
膝が崩れ、石床が滑った。
背中を打つ。ひやりとした痛み。視界が斜めになる。
(また、足手まといだ……)
もう1体が迫る。その足音すら耳に重く響く。
「——退きなさい!」
リュナの剣が背後から横薙ぎに走り、ゴブリンの腕ごと肩を裂いた。
視界がまっすぐに戻る。
その横では、フィオナがすでに別の個体を風で仕留めていた。
杖を淡く振るうたびに、風が的確に動く。
サーシャの手が、小刻みに震える。
(……わたしは、あの子みたいに魔法もないし、
リュナさんみたいに斬れない)
最後の1体が倒れ、戦闘が終わった。
リュナは無言で剣を納めた。
フィオナは一歩だけ前に出たが、すぐに動きを止める。
サーシャは剣を地面に突き立て、しばらくその場を動けなかった。
誰も、何も言わない。
リュナは静かに地図を広げ、淡々と×をつけた。
フィオナは一度だけ、ちらとサーシャの方を見た。
だが、声はかけなかった。
サーシャは、何も言わずに踵を返し、歩き出した。
足取りは重くはなかったが、背中には何かを背負ったような影が見えた。
(……誰も、責めない。責められない。
でも、それが一番、つらい)
心の中で呟いた言葉は、声に出すこともできず、
ただ胸の奥に沈んでいった。
……その小さな棘が、まだ抜けぬまま、
胸の奥で静かに疼いていた。