第22章 分断と選択
第三階層・瘴気地帯、その奥。
深層へのルートを探索していたリュナたちは、罠とも知らず“その通路”へ足を踏み入れた。
◆
天井から落ちる毒滴。視界は悪く、地面はわずかに揺れていた。
サーシャが前方を慎重に進んでいた時——
「っ、リュナ、床が……!」
瞬間、床全体が音もなく陥没する。
リュナがとっさにフィオナの腕を引き、サーシャは別方向へ跳ぶ。
重力が一瞬だけ消えたかのように、視界が回転した。
落下の感覚、視界の揺れ、そして——
「バラバラに落ちた」
◆
リュナは、暗がりの中で目を開いた。
天井は高く、瘴気が渦を巻いている。
だが横にはフィオナの姿があった。
「無事……?」
「ええ。大きな怪我はない。でも、サーシャが……」
リュナはすぐに立ち上がる。
「戻らなきゃ——」
しかし通路は閉じていた。壁の岩がせり出し、完全に道を塞いでいる。
魔法による干渉すら、反応しない。
「……こっちは“閉じ込め”か」
リュナは剣に手をかける。
「だったら、突破するしかない」
そのとき、フィオナが顔をしかめた。
「この瘴気、普通じゃない……。ただの毒じゃない、魔力の流れを引き込んで、構造を歪ませてる」
「……何かを“見せる”仕掛けかもしれない」
◆
一方そのころ、サーシャ。
泥まみれの地面に、ひとり。
……誰もいない。
(はぐれた?)
(でも……声は聞こえない。近くにも、いない?)
深呼吸して、立ち上がる。
毒の濃度は……高い。視界も悪い。
だけど、足は動く。まだ、戦える。
(大丈夫、私は一人でも……)
そう思った——その直後だった。
“何か”の視線を感じる。
振り向く。
そこには、異様なほど背の高い影が、じっと彼女を見下ろしていた。
人型……だけど、腕が、四本。顔が、ない。
歪んだ仮面のような瘴気の塊が、首のあたりに浮かんでいる。
次の瞬間、その腕の一本が動いた。
地を薙いだ瘴気の鞭が、石床を抉り、毒泥が飛び散る。
(……実体がある?)
だが、それはなぜかすぐには襲ってこなかった。
代わりに、口のない頭部から、“声”が響いた。
「キミは、なぜ戦う?」
サーシャは息を呑んだ。
(……なんでって……)
思い浮かぶのは、遠い日の記憶。
能力がないと判明した日、母の目は遠くを見るようだった。
妹は祝福され、自分は背を向けられた。
「スキルのない子に、未来はないわ」
その言葉が、今も棘のように胸に刺さっている。
「……だから……私は……」
小さく、しかし確かな声で言葉を紡いだ。
「私は……スキルがなくても、生きられるって証明したいんだ」
「見返したいとか、そんなのじゃない。ただ……」
声が震える。けれど、目は逸らさなかった。
「——いつか、もう一度“家族”になりたいって、思ってるんだよ」
それは諦めきれなかった願い。
幼い日、手を繋いで笑った家族のぬくもり。
「それが、おまえの“力”だというのか」
「違う。これは、“覚悟”だよ!」
叫ぶ。サーシャは震えながらも、盾を構えた。
たとえ幻でも、見下されたままでいるつもりはなかった。
「……来いよ。あんたが幻でも、痛いなら叩き返すだけだ!」
その声に、影がようやく動いた。
地を砕く瘴気の腕が振り下ろされる。
だが、その直後——
◆
「リュナ、今!」
フィオナが叫び、広間の端で詠唱を終える。
「瘴気の流れ、遮断する……今だけ!」
風と土の魔力が交差し、影の身体の一部が不安定に揺らぐ。
その隙をついて、リュナが駆けた。
「——っ、いくよっ!」
剣が幻影の中心を貫いた。
影は断末魔を上げることもなく、瘴気の霧となって崩れ落ちた。
◆
戦いのあと。
サーシャは膝をつき、静かに地面を見つめていた。
リュナが横に座る。
「大丈夫?」
「……うん。ちょっと、頭がね……変なやつに話しかけられた」
「どんな?」
少しだけ、サーシャは悩んでから言った。
「“なんで戦うのか”って。……自分でも、ちょっと分からなくなりそうだった」
「でも、思い出した。私は、家族に……もう一度、笑って会いたいんだって」
「……そっか」
リュナは黙って、彼女の言葉を聞いていたが——
そのあと、ぽつりと呟いた。
「でも、今は頭がすっきりしてる。変なやつに言われたこと、ちゃんと整理できた気がする」
サーシャが、顔を上げて見つめ返す。
言葉は交わさなくても、何かが通じた気がした。
幻の残り香が、空気の中にまだ微かに漂っていた。