第20章 毒の門、ゆらめく心
迷宮都市。
冒険者たちの間に、ひとつの噂が静かに広がりつつあった。
——第三階層の扉が、ついに開いたらしい。
だが、帰還した者はまだ片手に足る程度。
その内部は「毒」だらけだと、ある者は語り、
「瘴気の沼に沈む街の亡霊を見た」と語る者もいた。
◆
「毒……ねえ」
ギルド本部の資料室。リュナは地図を見つめながら呟いた。
その隣でサーシャが苦笑する。
「嫌な予感しかしないなぁ……。スキル持ちなら毒耐性がついたりするけど、私、普通の人間だし」
「でも“普通”であそこまで動けるのは、サーシャだけよ」
そう言ったのは、少し離れた机にいたフィオナだった。視線は本から離さないまま、ぽつりと。
それでもサーシャは、心の奥でわかっていた。
(……毒の環境で、私が足を引っ張らないわけがない)
◆
遠征前日、準備のための買い出し。
防毒マント、簡易マスク、解毒薬に保存食。
リュナが顔をしかめながら値札を眺めている横で、サーシャは瓶入りのポーションをひと嗅ぎして——
「ぐぇっ!? くさっ……!!」
思わず後ずさると、近くの子供がくすくすと笑っていた。
「だ、大丈夫。これも慣れれば……きっと……」
言葉は震えていたが、笑顔だけは崩さない。
◆
出発当日、ギルド本部の応接室。
応対に出たミリアが、地図の上に指をすべらせながら告げた。
「第三階層は、瘴気の密度が高いわ。複数の強力な魔力源が集まると、干渉し合って暴走する可能性があるの」
「だから今回は、あえてパーティ単位での分散偵察になるわ。ミランダたちも別のルートを進んでいる。互いの距離は保って行動して」
サーシャが思わず苦笑する。
「なるほど……魔法使いばっか集めたら、毒より先に爆発するってことか (私以外…みんな魔法使えるもんね…)」
「……わりとそういうこと」フィオナが頷いた。
扉の前で、カーラが声をかける。
「アンタたちも油断しないでね。あの沼地、思ってるより深いから」
そう言って、彼女たちは別の出入口へと消えていった。
◆
第三階層の探索は、想像以上に過酷だった。
瘴気が肺にまとわりつき、視界は常に黄色く霞む。
地面は腐葉土のようにぬかるみ、スライム状の毒生物が静かに揺れていた。
「っ……! 毒、強すぎる……っ」
サーシャがマスク越しに苦悶の声を漏らす。
(やっぱり、私だけ、こんなに辛い)
魔力耐性も毒耐性もない。スキルすらない。
それでも一番前に立って、仲間の盾になることしか、サーシャにはできなかった。
(でも、守らなきゃ……!)
足元が滑り、膝をつく。スライム状の毒生物が襲いかかってくる。
それでも、彼女は両腕で盾を構えた。
その背後、フィオナが短く詠唱を唱えている。
「《アースシールド》、展開」
土の魔法陣がサーシャの盾と重なり、一瞬だけ、身体への負担が軽減される。
さらにリュナが風魔法と剣でスライム状の毒生物を切り刻んでいく。
「ありがとう……!」
だがその直後、フィオナは小さく息を呑む。
(……魔力が乱れてる。毒と干渉して、安定しない……)
(それでも、支えなきゃ。今度は、私が支える番——)
リュナは全体を見渡しながら、静かに指示を出していた。
(この空気。この視界。この不安……)
(昔の“あの感じ”に、少し似てる)
——森を出たばかりの頃。
誰にも信じられず、疑われていたときのことを、ふと思い出す。
(でも、今は違う。私は、この人たちと進んでる)
そのときだった。
サーシャが小さく、「……ごめん」と呟いた。
リュナの耳が、それを捉える。
(……また、自分を責めてる)
(……でも、今は、まだ声をかけない)
リュナはそっと視線を逸らし、毒の門の先を見つめた。
(この“揺らぎ”が、次の一歩にどう響くか……見極めてからでいい)
◆
帰還後、夜。
ギルド宿舎の裏庭で、水桶を使ってサーシャは装備を洗っていた。
鎧に染み付いた泥が、なかなか落ちない。
風が吹くたび、あの匂いが微かに鼻を突く。
「……また、私が……足を引っ張ったんじゃないかな……」
ぽつりと、声に出してしまったそのときだった。
「違うよ」
静かな声が背後から返ってくる。
振り向くと、リュナが立っていた。水桶の中に視線を落としながら、続ける。
「確かに、あの環境は厳しかった。でも、私も焦ってた。足を引っ張るとか、そういう問題じゃない」
「……でも、私……」
「うん。だから、次はもっと上手くやろう。……私たち、チームなんだから」
肩をすくめるサーシャを、リュナがそっと見つめる。
その視線は厳しさも優しさも混じっていた。
——夜の風が、静かに二人の間を通り抜ける。
仲間たちの足音は、まだ“冒険”の中にある。
◆
サーシャが去ったあと、リュナは外に一人、しばらく立ち尽くしていた。
星は濁って見えなかった。瘴気が、まだどこかに残っているかのように。
(……足を引っ張る、か)
彼女の脳裏に残っていたのは、サーシャのあの言葉。
リュナはそっと、自分の胸に手を当てる。
(確かに、そう思ってしまった。……あの瞬間。毒の中で、動けない彼女を見て——)
自分なら動ける。自分なら耐えられる。
そう思ってしまったのは、きっと、ずっと一人でやってきたからだ。
誰にも頼れなかった幼い頃。
化け物と呼ばれ、石を投げられた日々。
——だから、誰かと一緒にいても、「自分ひとりでやれる」という証明が、心の奥で今も欲しい。
けれど。
(……じゃあ、あのとき、サーシャがいてくれなかったら?)
今までの戦いでは、敵の攻撃から自分をかばってくれた。
「無理をしてでも頼りになれる人になりたい」——そう言って。
(……私、あの子に、命を助けられてるんだ)
見下した気持ちと、感謝。
どちらも嘘じゃない。でも、同時に抱えたままで、いいのだろうか。
リュナは小さく息を吐いて、夜の空気に問いかけた。
その答えは、まだ出そうになかった。