第14章 揺れる灯火のもとで
蒸気の満ちた迷宮を抜け、ようやく仮設の野営地へと戻った三人は、夜の静けさに身を沈めていた。
火を囲んで座るのは久しぶりだ。
「……ほら、見せて」
リュナがサーシャの右腕を取る。
袖をめくれば、肘の下に赤黒い痣が広がっていた。
「盾で受け止めたときの衝撃……思ったより響いてたかも」
「もう。だから無茶しすぎだって言ってるのに」
リュナはため息をつきながら手をかざした。
「光よ、かの者に癒やしを——《ヒーリング》」
指先から溢れた金色の光が、サーシャの腕をゆっくりと包む。
赤みが薄れ、皮膚が再びなめらかに戻っていく。
「ふふ、なんか。くすぐったい……」
「笑ってる場合じゃないでしょ。次やったら、肋骨いくわよ」
それでも、サーシャはくすりと笑って頷いた。
「ありがと、リュナ。リュナの光、温かい……ほんと、頼りになるね」
「……別に。お互い様でしょ」
そう返しながら、リュナはちらりとフィオナの方を見やった。
彼女は火の向こう側、ほんの少しだけ距離をとって座っていた。
手元では、硬い干し肉をゆっくり裂いている。
「……おいしい?」
リュナの問いかけに、フィオナはほんのわずかに首を傾けた。
「……まあ、食べられる」
いつものように、素っ気ない返事。
けれどその声は、どこか以前より柔らかく聞こえた。
「これ、あたしがバザーで見つけたやつ。フィオナ、あの時ちょっと笑ってたんだよ」
サーシャが何気なく言うと、フィオナの手がぴたりと止まった。
「……笑って、た?」
「うん。『安い』って言ってた」
フィオナはしばらく黙っていたが、やがて静かに干し肉を口に運んだ。
それは、肯定にも否定にも見えた。
リュナはその様子を見て、ゆっくりと鍋をかき混ぜた。
保存スープの素と、水。
少しだけ刻んだ根菜とハーブ。
「ちゃんと温かいの作って、食べるの久しぶりかも」
サーシャが呟く。
「……昔食べたごはん、味がなかった」
フィオナの声だった。
少しだけ小さく、けれど自分から出した言葉。
「でも、今は違うよ。こうして誰かと一緒に食べて、話せて……それだけで、違うんだって思える」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
火が、パチリと弾ける。
やがてフィオナが、小さく呟いた。
「……うん…おいしい」
それは彼女の心が、わずかに“変化”し始めていることの証だった。
【2. 探索の回想:迷宮の罠と小さな信頼】
火の明かりが、石壁に柔らかな影を落としていた。
しばらく誰も話さずにいたが、ふとサーシャが笑い出す。
「……ねえ、覚えてる? 昨日の通路で、あたし床に沈みかけたじゃん」
リュナがスープを啜りながら苦笑する。
「ああ、罠ね。板が抜けてて、片足埋まってたやつ」
「フィオナがすごい反応してさ。あたし落ちかけたのに、真っ先に支えてくれて……」
サーシャが身体を小さく横に揺らしながら、肩をすくめる。
「“あ、これ死ぬかも”って思ったのに、フィオナの腕があってさ。ほんとに“強いんだな”って、思ったよ」
フィオナは少しだけ目を伏せる。
「……あれは、たまたま気づけただけ。罠の魔力感知がちょっと甘かったから」
「それでも、動けたのはあんただけだった」
リュナの声は、淡々としていたが、どこか温かかった。
「私、あの時すぐに剣を抜いたけど……正直、反応遅れてた。フィオナの動きなかったら、サーシャは下まで落ちてたかも」
火の明かりが、フィオナの頬を柔らかく照らす。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて目を閉じて、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
その言葉に、サーシャとリュナは何も言わなかった。
だが、それが“本音”であることは、もう二人ともわかっていた。
そして、サーシャがぽつりと呟く。
「……昔から、強いものになりたかったんだ。無力って、あんなにも簡単に置き去りにされるんだって思い知ったから」
焚き火が小さく爆ぜる音が、沈黙を満たす。
「力がないって、それだけで見放される。あの時、泣いてる暇なんてなかった。じゃなきゃ……あたし、自分の存在を保てなかったから」
リュナは、その言葉にすぐには返さず、火の先に目を向けた。
「……そういうの、わかるかも」
彼女の声は、低く、抑えられていた。
「信じるな、でも信じろ……って、あたしの父はよく言ってた。誰かを信じれば、いつか裏切られる。でも信じなければ、誰にも救われないって」
「だから私は、ずっと剣を抜いてた。信じる前に、斬れる距離を保ってた」
目を伏せたまま、リュナの声が揺れる。
「でも、今は。あんたたちと一緒なら、少しだけ……怖くない」
言葉の終わりに火がゆらぎ、影が三人の顔を切り取っていく。
静かな間が落ちた。
フィオナは、無言で腰のポーチに手を差し入れた。
焦げた布の感触が指先に触れる。
誰にも見せず、誰にも語らず。
ただ、少しだけ目を閉じる。
彼女の表情に、何かを飲み込むような沈黙が宿る。
「……ありがとう、って。あの時言えなかったことが、いくつもあるの」
声にはならなかった。
けれど、焚き火の影が揺れて、ポーチを握る彼女の指先を照らしていた。
サーシャは、それを見て何も言わなかった。
けれど、ごく自然に、そっと鍋のスープをひと椀分、彼女の前に差し出した。
「食べよ。冷めるとまずいから」
フィオナは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
***
火が揺れていた。
まるで、誰かの心を映すように、強くなったり、細くなったりする。
サーシャが迷宮の奥で罠を踏んだあの時——
リュナが剣に手をかけるよりも早く、フィオナが駆けていた。
片足を空に取られたサーシャの腕を、誰よりも早く、正確に引いた。
「……ありがと」
思い出しても、あれは言葉になる前の信頼だった。
フィオナはただ頷いただけだった。
でも、その動きが、焼きついて離れなかった。
今、火の前で黙ってスープを飲む彼女の横顔は、少しだけ柔らかく見えた。
「……昔、あたしにとって火は、ただの熱源だった」
フィオナがぽつりと呟いた。
「……まだ全部は、言えないけど」
「今は、これでいいと思ってる」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
だが、焚き火の灯は、静かに三人の顔を照らしていた。
その光はかすかに揺れていた。けれど、決して消えはしなかった。
まるで、確かめ合うように、三人の間を結んでいた。