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第13章-2《フィオナの回想2》

■沈黙の檻

時間の感覚は、もうなかった。


白い天井。白い壁。

いつもと同じはずの部屋なのに、世界から色が抜け落ちていた。


フィオナは、座っていた。


静かに、ひとりで。


動くよう命じられれば、動いた。

戦闘訓練の時間になれば、杖を握った。

模擬戦では、相手を倒した。

指示通りに魔力を流し、範囲攻撃を仕掛け、目標を“無力化”した。


けれど、そのどれもに、感情はなかった。


怒りも、悲しみも、達成感も、なかった。


記録にはこう残されていた。


【S-02】の感情反応は低下。戦闘判断力と処理速度は上昇傾向。

抵抗意志の兆候なし。

感情遮断処理は安定状態にある。


研究員たちはそれを喜んだ。

管理がしやすくなったと。

反抗のリスクが減ったと。


けれど、それは“壊れた人形”を扱っていることと同じだった。


***


ある日。

演習用の標的に、新たな個体が割り当てられた。


人間の少年だった。

年齢はカトルとさほど変わらない。

けれど彼女の目には、誰でもない“記号”にしか映らなかった。


「……はじめまして、ぼく……あの、よろしく」


かすれた声。恐る恐る話しかけてきたその子に、フィオナは何も返さなかった。


そして演習が始まる。


指示された攻撃を、指示された通りに放つ。

相手が傷ついても、怯えても、血を流しても——何も感じない。


目の前の少年が逃げようとしながらも、最後に言った言葉がある。


「君……ほんとに、人間……?」


その瞬間、何かが遠くの方で崩れたような気がした。


けれど、それもすぐに沈んでいった。

深い水底のような無感覚の中へ。


フィオナは、ただ生きていた。

命令に従い、力を振るい、評価を得て、恐れられ、嫌われる。


それだけの存在として。


***


(……何も、残ってない)


ベッドの上。

明かりを落とした天井を、ずっと見つめていた。


言葉を失ってから、どれだけ経ったのだろう。


あの名前すら、声に出せないまま、空白だけが積み重なっていく。


(……このまま、壊れてしまえば、楽なのかも)


そんな考えがよぎったときだった。


ふと、部屋の端にある収納棚が開いた。


定期的に交換される衣類の中に、ひとつだけ異物が混ざっていた。


——薄く焦げた布。

その端に、見覚えのある刺繍の糸がにじんでいた。


形見は、そこにあった。


今になって、手元に戻ってきた。


カトルが最後まで、持っていたもの。


(……なんで)


喉の奥が、焼けるように熱くなった。


(どうして、こんなタイミングで……)


布を抱きしめる。


初めて——心が、動いた。


冷たく、空っぽだった胸の奥に、何かが差し込んできた。

小さく、あたたかく、でも、痛かった。


涙が出るわけではなかった。

でも、視界がにじんだ。


(……あたし、まだ、生きてる……?)


そう思った。


そして、ほんの少し——ほんの少しだけ、何かが変わる音がした。


■逃走と決意


夜。


空調の止まった観察室は、ほんの少しだけ静かだった。


フィオナは、誰もいない明かりの消えた部屋で、布を握りしめていた。


あの焦げた刺繍。

にじんだ糸。

わずかに残る“手のぬくもり”。


それは、過去の断片だった。


けれど、確かにここにある。


(どうして……)


あれほど正確に、すべてを忘れたつもりだった。

感じないようにしていた。思い出さないようにしていた。


なのに、この布は——問うてくる。


「今のあなたは、あのときの“約束”を覚えているの?」


カトルが最期に言ったことが、頭の奥でこだました。


『君は、優しかったね』


——本当にそうだったのか?


あたしは、本当に“優しかった”のか?


感情を遮断し、人を殺し、怯えられ、化け物と呼ばれ、そして……


(……ただ、生き残っていただけ)


フィオナは自分の両手を見つめた。


こんなにも冷たく、細い。

でも、この手があの少年を殺した。


あのときは何も感じなかったのに、今は胸の奥がきしむ。


(まだ——終わってない)


生きてる。

感じてる。

なら、もう一度だけ。


——あの約束を、守らなきゃ。


彼女はゆっくりと立ち上がった。


静かに部屋を出る。

廊下にセンサーが光るが、魔力の乱流で狂わせてすり抜けた。


警報は鳴らない。

それが返って、不気味だった。


研究棟の端にある非常用搬送路。

本来なら、使えないはずの封鎖ゲートを、フィオナは魔力でこじ開ける。


通電系を焦がし、施錠を焼き切る。

音が響いたが、構わなかった。


(あたしが、出ていく)


決意はすでに、ためらいではなかった。


夜の風が肌を撫でたとき、彼女は初めて“外の空気”を知った。

雨が降っていた。冷たかった。

でも、その冷たさすら、懐かしく思えた。


(ごめん、カトル……)


(あたし、弱かった)


(でも……)


(もう一度、歩きたい)


雨に濡れた青髪を押さえ、彼女は小高い丘を駆け下りた。


靴は滑り、泥は跳ねた。

それでも止まらなかった。


その先に、小さな灯が見えた。


迷宮都市カルツァレア

何も知らない街。誰も彼女を知らない場所。


でも——だからこそ、また始められる気がした。


手の中に握った布が、微かに温もりを持っている気がした。


それは、かつての「友達」の温度だった。


■プロローグ裏~出会い

寒かった。

どこにいるのか、もうわからなかった。

地面は硬く、冷たく、頬が泥に貼りついている。


息は浅く、喉は焼けるように痛い。

魔力の流れは濁りきって、まともに身体も動かない。


(……どうして、まだ、生きてるの)


足掻く意味なんてなかった。

逃げ出したあの夜から、ずっとそう思っていた。


刺繍の布を握っていた手は、すでに何も掴めていなかった。

力を入れることすら、もうできない。


人の足音が近づいた。

重たく、地を踏みしめるような確かな響き。


(……見つかったら、終わりだ)


身体を動かせない。

でも、顔だけは、そっとそちらを向いた。


いた。


鋭い目をした少女。

暗がりでも輪郭がわかるほど、姿勢がまっすぐだった。


(あの人も……怖がるのかな)


期待なんて、していなかった。

ただ、本能で見てしまった。


その目を。


強く、まっすぐで、どこか寂しげなその目を——


ほんの一瞬。

視線が合った。


助けてなんて、言ってない。

でも、どうしようもなく、視線に“訴えてしまった”。


(誰か……)


(生きてていいって、言ってほしかった)


少女は、背を向けた。

いつものように、通り過ぎていくのだろうと思った。


けれど、足音が、止まった。


舌打ちが聞こえた。

そして——抱き上げられた。


その瞬間、世界がふっと、温かくなった気がした。


「せめて、生きてなさいよ。あたしみたいにしぶとく、ね」


——生きてなさい。


それは命令じゃなかった。

制御でも、分類でも、評価でもなかった。


“願い”だった。


誰かが、あたしに、生きていてほしいと、願ってくれた。


それだけで、胸の奥の何かが、震えた。


***


湯の匂い。

布のやさしい感触。

光のぬくもり。


それらが、ほんの少しずつ、凍っていた身体に戻ってきた。


誰かの手が、自分を癒してくれている。

そんなこと、信じられなかった。


何も言われなかった。

名前も聞かれなかった。


でも、あたしは——たしかに、あの夜、

“人間として”扱われた。


その事実が、あたしの中に小さな火を灯した。


まだ燃えていない。

でも、きっと消えていない。


(もう一度、生きてみよう)


どこかで、静かに、そう思った。


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