第13章-1《フィオナの回想1》
フィオナは、小さく燃える焚き火を見つめていた。
サーシャとリュナは、隣で静かに眠っている。
先ほどの戦いのあと、どちらも何も言わなかったが——それがかえって、安心に近かった。
(……今のふたりなら)
(もし、あたしの過去を話しても……怖がったり、避けたりしないかもしれない)
そんな考えが、ふいに浮かんだ。
心のどこかが、ざわめく。
忘れようとした記憶が、焚き火の揺れに合わせて滲み上がってくる。
(……思い出すつもりなんて、なかったのに)
でも、今なら少しだけ、思い返してもいいかもしれない。
そっと目を閉じる。
——記憶の奥、あの白く冷たい部屋が浮かび上がった。
■孤独の中の出会い
壁も床も、すべてが白く光を弾く——無機質な“観察室”。
その中心にぽつんと座っていた少女には、深い青の長髪と、額からわずかに突き出た角があった。
フィオナ。
彼女は、他のどの子どもよりも静かで、整っていて、そして——異質だった。
授業中、彼女の魔力が発動したときのこと。
他の子どもたちが火花を散らす程度の初歩魔法を苦戦している中、フィオナだけが極めて精緻な魔法陣を空中に組み上げた。
光の輪が重なり、魔力の軌道が幾何学的に美しく整う。
その演算の正確さと規模は、講師ですらしばし呆然とするほどだった。
だが——その直後。
「……なに、今の……」
「ち、近寄っちゃだめ……目が合った……っ」
「やだ、やだやだ、魔族だ、あれ……!」
小さな悲鳴が、室内に連鎖する。
フィオナの視界に、明確な“恐怖”が映った。
椅子を引いて距離を取る者。
机の下に隠れる者。
涙目で観察者の方を見て助けを求める者。
誰も、彼女に近づこうとしなかった。
彼女の力は、正しく発現していた。
暴走などしていない。
誰も傷つけていない。
けれど、その正確すぎる軌道。
美しすぎる構造。
そして無表情のまま淡々と成功させるその在り方が、他の子どもには“理解できないもの”だった。
(……力のない者は、力そのものを怖がる)
その日、フィオナは、初めてそう理解した。
力があるというだけで、心を閉ざされる。
魔族だからじゃない。
恐怖とは、差異にあるのだ。
それは、怒りではなかった。
ただ——冷たく、深く、沈んでいくような理解だった。
だから彼女は、表情を変えなかった。
声もあげず、誰にも触れなかった。
理解されないものは、孤独になる。
その構図を、あの日、彼女は受け入れた。
***
そんな午後のあとだった。
覗き窓から顔を出した少年——カトルが現れたのは。
「やっぱり、君がフィオナちゃん?」
その声には、何の警戒もなかった。
まっすぐで、あたたかくて、怖れとは無縁だった。
「……そう、だけど」
「よかったぁ!君って角があるって聞いてたから、すごく怖いかもって思ってたけど……なんか、ぜんぜん怖くないや!」
そう言って笑う彼に、フィオナは初めて、返す言葉に詰まった。
(なんで……怖がらないの?)
——カトルだけが、力に怯えなかった。
それがどれほど特別なことだったのか。
この時の記憶が、後の彼女の中でどれほど大きく残るのか。
彼女はまだ、知らなかった。
■離される手
「フィオナちゃん、今日もすごかったね」
廊下の隅。白く照らされた無菌室の横、カトルはいつものように笑っていた。
それはもう、日常の風景だった。
最初こそ緊張していたフィオナも、今は彼が隣にいることが当たり前のように感じられていた。
二人はよく、夜の講義が終わった後、実験区画の隅にある“観察用のガラス壁”の前に並んで座っていた。
ガラスの向こうには人工庭園。花など一輪もないのに、「ここ、落ち着くね」とカトルはよく言った。
「またあの本、読んでるの? ねえ、こないだの続き、教えてよ」
「これは、魔力場の重ね合わせについて。……読めるの?」
「読めないけど、君の説明はわかりやすいんだよ。すごく、頭いいんだなって思う」
「……ふふ。変な褒め方」
ふと気が緩んだとき、フィオナはたまに笑うようになった。
彼女にとって、それは“魔法が効かない場所”のようだった。
誰にも通じない力を持ってしまった自分を、否定せずに受け止めてくれる場所。
カトルはいつも、簡単な光魔法を練習していた。
指先に灯るわずかな光。形が崩れてすぐに消えてしまうけれど、彼はめげなかった。
「……これ、まだできないな」
「じゃあ、ここを変えて。魔力を通す角度が浅すぎる。ほら」
フィオナが手を添えて、彼の指を導く。
そのとき、カトルは少し照れたように笑った。
「君に触れられると、安心するね」
言葉の意味が、フィオナにはすぐに理解できなかった。
でも、嬉しかった。
誰かが“自分に触れられることで落ち着く”なんて、想像したこともなかったから。
彼女はその夜、自分でも驚くほど安らかに眠った。
***
——けれど、それは長く続かなかった。
ある日、施設全体のホログラム掲示に、冷たい文字が映し出された。
【配属クラス変更】
被検体S-02(フィオナ) → 戦闘適性S群
被検体A-04(カトル) → 生活支援A群
研究員の間では、早くから話題になっていた。
フィオナの戦闘適性は“特別”。
人間ではまず到達できない魔力効率。
人間社会では運用できない規模の力。
だから彼女は“選別”された。
そしてカトルは“その他”に分類された。
その日の午後、フィオナは一人、研究区域の出口に立っていた。
カトルに会える最後の時間だった。
彼はいつもと変わらない様子で走ってきた。
だが、その顔に浮かぶ笑みの裏に、少しの寂しさが滲んでいた。
「君にだけ、渡したかったんだ」
そう言って取り出したのは、布切れだった。
フィオナが以前、落とした刺繍入りの試作品——文字のようで、模様のようで、未完成のままだった布。
「ずっと持ってたよ。へたくそだけど……ね、これ、半分こしよう」
ちいさく破いて、彼は片方を差し出した。
「別のクラスになっても、また会えるよ。会いに行く。……だから、僕たち、いつまでも友達だよね?」
フィオナは、返す言葉を持たなかった。
ただその布を受け取り、小さくうなずいた。
手を伸ばせば、きっとまだ——
そう思っていたのに、
扉が開く。
無感情な研究員の手が、カトルの肩を掴む。
「時間だ」
「またね!」
最後まで、カトルは笑っていた。
扉が閉じた。
白い廊下に残ったのは、ちぎれた布の半分と、心にぽつんと空いた隙間だった。
——その時、フィオナの胸の奥には、何かが深く沈みはじめていた。
■命令と喪失
時間の感覚は、もうなかった。
白い天井。白い壁。
いつもと同じはずの部屋なのに、世界から色が抜け落ちていた。
フィオナは、ただ座っていた。
静かに、ひとりで。
動くよう命じられれば、動いた。
戦闘訓練の時間になれば、杖を握った。
模擬戦では、相手を倒した。
指示通りに魔力を流し、攻撃を仕掛け、目標を“無力化”した。
けれど、そのどれもに、感情はなかった。
怒りも、悲しみも、達成感も、なかった。
【S-02】の感情反応は低下。戦闘判断力と処理速度は上昇傾向。
抵抗意志の兆候なし。感情遮断処理は安定状態にある。
記録にはそう残されていた。
研究員たちはそれを喜んだ。
反抗のリスクが減ったと。
管理がしやすくなったと。
だがそれは、ただ“壊れた人形”を扱っていることと同じだった。
***
「S-02、次の指令を確認するわよ」
冷たい声が、観察室の天井スピーカーから降ってくる。
少女は何も言わずに立っていた。
白い部屋。白い壁。白い服。
感情も、色も、何も映さない空間。
彼女の目の色だけが異質だった。
深く、透き通るような青。
「ターゲットは第七監視区の人間群。非戦闘個体よ。抵抗は想定外だけれど、接触時には除去していいわ」
まるで、書類を読み上げるように。
フィオナは、視線を伏せていた。
命令には逆らえない。
逆らえば、「制御不能」と記録され、処分されるだけ。
だが——なぜだろう。
胸の奥に、重たい何かがのしかかっていた。
《第七監視区》
そこに、いたはずだった。
あの少年が。
(……カトル)
あれから、幾度となく命令をこなした。
幾人も倒した。
感情を“遮断”することを覚えた。
なのに、今になって思い出す。
白い布。刺繍のにじんだ布切れ。
「いつまでも、友達だよね?」——その言葉が、耳の奥でこだました。
「S-02、出動して」
扉が開いた。
背筋を伸ばし、杖を手にする。
命令は、絶対だ。
頭ではわかっていた。
でも、心がついてこなかった。
***
通路を抜けた先、第七監視区は、簡素な居住エリアだった。
金属製の扉。薄暗い照明。壁に刻まれた落書きや、子どもたちの背丈。
目の前に現れたのは、数人の人間たち。
誰も武器は持っていない。
ただ怯え、隠れようとしただけ。
「——S-02、即時対応。第七監視区の人間群、排除を許可する」
「防御、逃走、抵抗のいずれに対しても処理優先。制御判断はシステムに委任」
いつも通りの命令。
フィオナの足が自然に前へ出る。
杖を握り、魔力を練り始めた。
何も考えずに、ただ“そうしろ”と命じられたとおりに。
けれど、扉の向こうに見えた“その姿”で、すべてが止まった。
——栗色の髪。
少し伸びた背。
見間違えるはずがない。
(……カトル?)
彼もまた、フィオナに気づいた。
「……フィオナ?」
心が大きく揺れた。
でも。
「発動しなさい、フィオナ。あなたはS群。それを証明するのよ」
魔族の母の声が、耳に刺さるように響いた。
「やめて」
言葉にならない声が、喉でせき止められた。
(やめて。やめて……今だけは)
だが、身体は止まらなかった。
制御魔術が発動する。
魔力が組み上がる。
カトルが、駆けてくる。
笑っていた。
何も知らずに、手を伸ばそうとしていた。
「君は……優しかったね」
その優しい声に、最後の拒絶の意思すら、届かなかった。
——閃光。
——振動。
——崩れる音。
カトルは、その手を伸ばしかけたまま、崩れ落ちた。
フィオナの視界が滲む。
血の匂い。
硝煙の残り香。
そして、恐怖のまなざし。
他の子どもたちが見ていた。
まるで“化け物”を見るように。
誰も近づかなかった。
誰も、何も言わなかった。
(……あたしが、殺した)
自分の手を見た。
震えていた。
でも、泣けなかった。
涙は出なかった。
胸の奥が空洞になっていた。
もう、何も——感じなかった。