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第10章 光のない森で

【1】

夜の迷宮都市カルツァレアは、昼よりも静かで、昼よりも汚い。

酒場の騒ぎ声、酔い潰れた冒険者のいびき、路地裏に流れる得体の知れない液体。

けれど、今のリュナにとって、それはどこか落ち着く風景だった。


宿の窓辺。月の光が石畳を照らしている。

リュナはその光に背を向けて、無言で剣の刃を布で磨いていた。


金属の匂い。布越しの重み。

それは、長く彼女の傍にあった唯一の“会話相手”だった。


(……思ったより、うるさい街だわ)


ひとりごとのように思考が漏れる。

背後では、サーシャとフィオナが並んで眠っている。

かすかな寝息が、静かな部屋の空気を揺らしていた。


(あいつら……どうして、隣で寝てるんだろ)


問いに答える者はいない。


昔の自分なら、扉を背に、剣を抜いたまま眠った。

誰にも背中を見せることはなかった。

見せれば刺される。奪われる。それが森の外の“常識”だったから。


「リュナ、お前は普通の子とは違う。だからこそ、お前は誰より強くなれる」

森の奥で、父がよくそう言っていた。


けれど、本当は違った。

違っていたのは世界の方だった。

自分が黒く生まれただけで、誰も話しかけなかった。

自分の耳が尖っているだけで、誰も同じ目線で話をしてくれなかった。


(……それでも)


サーシャは、どんなに怒鳴っても翌朝「おはよう」と笑ってきた。

フィオナは、いつも黙っていても、何も聞かずに隣に立っていた。


(うるさくて、面倒で、でも……)


誰かと寝起きを共にして、食事を分けて、肩を並べて剣を振る。

たったそれだけのことが、どうしてこんなに、不安になるほど温かいのか。


リュナは剣を置いた。

柄を握った指先に、かすかな汗がにじんでいた。


「……仲間、ね」


口に出してみると、言葉は自分のものじゃないみたいに浮いていた。

それでも、どこか馴染みそうな響きだった。


リュナは、もう一度寝息の聞こえる方へ視線をやった。


(あたしも……ちゃんと、守らなきゃ)


そんな思いが、静かに胸の奥に灯った。


——小さな部屋に、風の音が忍び込んだ。

それは、外の迷宮がまた動き始めた兆しかもしれなかった。


【2】

石造りの宿の廊下は、夜になると一層冷え込む。

誰も通らない時間帯、軋む床板が孤独に音を立てていた。


リュナは、布団の上で目を閉じたまま、耳だけを澄ませていた。


(……何か、変)


風の通りが妙だった。

開け放たれたどこかの窓。あるいは、足音……それとも、勘違いか。


隣ではフィオナが布団を引き寄せ、サーシャが寝返りを打った音がかすかにした。


(……いい。起こすほどでもない)


そっと立ち上がり、剣を腰に差しながら、扉を開ける。


宿の階段を降り、裏手の通用口から外へ出ると、夜気が肌を刺すように冷たかった。


「……気のせい、じゃないわね」


耳が捉えた。小さく、湿った足音。

野生の獣……いや、もっと粘ついた気配。


リュナは地を蹴った。

足音を頼りに、路地裏の奥へと走る。


瓦礫の影、月の当たらない闇の底。


そこにいたのは、ひとりの人影と、2体の小型モンスター。

ガルゴという名前の、這いずるタイプの下級モンスターだった。


冒険帰りの子どもが、一匹に腕を噛まれ、動けずにいた。


「……チッ」


リュナは迷わず滑り込む。

剣の刃が月を反射してひと閃、闇を切り裂いた。


「ギィィ……ッ!」


ガルゴの一体が断末魔を上げて崩れる。

残るもう一体が飛びかかってきた。


「回れ」


小声でそう言って、体を反転。

壁を蹴るように一度跳ね、相手の後ろを取る。


(——ああ、サーシャが前に出てたら、今のルートは作れたな)


頭の片隅で、昨日の動きを思い出しながら、反撃の間合いに入る。


「……遅いわ」


刃が肉を裂き、二体目も地に伏した。


「だ、大丈夫……ですか?」


震える声の少年が顔を上げる。

見ると、まだ十にも満たないような年。装備もなく、ただ布のような袋を握っていた。


「……下層の配達任務でもしてたの?」


少年が小さくうなずいた。


「それ、落とさないようにしなさい。せっかく生きて帰っても、届けるものがなかったら意味ないわよ」


「……う、うん。ありがとう、お姉ちゃん……!」


その“お姉ちゃん”という単語に、リュナは少しだけ目を見開いた。


(あたしが、誰かの“姉”……?)


呆れたようにため息を吐いて、少年の肩を叩く。


「ほら、帰りなさい。誰かが待ってるんでしょ」


少年はこくこくとうなずき、走っていった。


再び宿に戻ると、部屋の中は静かなままだった。


けれど、布団の中のサーシャが、寝言のように呟いた。


「……おかえり……」


リュナの足が止まる。


見てみると、サーシャの顔は寝息に揺れている。

本当に寝ているのか、わからない。けれど、その言葉は確かに聞こえた。


「……ただいま」


誰にも聞かれないように、リュナはそっと答えた。


(誰かに、帰る場所があるって……こんな感じ、だったんだ)


剣を外し、布団に潜る。

いつもより、少しだけ肩の力を抜いて。


——夜が、穏やかに更けていった。


【3】

朝。


リュナは、いつもよりほんの少し遅れて目を覚ました。

天井に差し込む光がまぶしく、ぼんやりと視界を照らしている。


(……油断したわね。こんなに眠れるなんて)


隣では、フィオナが既に身支度を整え、窓際に腰掛けていた。

視線の先には、迷宮の塔。その輪郭が朝霧の中に浮かんでいる。


「……おはよう」


フィオナが小さく呟いた。

それにリュナは、珍しく“黙礼”で返す。口よりも、今はそれで十分だった。


ベッドの端では、サーシャがまだ毛布に包まったまま、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


リュナは立ち上がり、腰の剣を手に取る。

その重みが、いつもよりわずかに馴染んで感じた。


(……変わってきてる)


あのころの自分——誰とも関わらず、父の背中を追い、剣と生き延びる術だけを糧にしてきた自分なら。

仲間なんて、面倒でしかないと思っていたはずだった。


けれど今。

サーシャがいなければ守れない場面があり、

フィオナの魔法がなければ超えられなかった壁があった。


(あたし、たぶん……もう一人じゃ、やれない)


そのことに気づいたのが、怖くて、でも——どこか、あたたかかった。


ふと、剣の柄に指を這わせる。

昨日の夜、少年に言われた「お姉ちゃん」の響きが、頭の奥でまだ残っていた。


(……あたしが、誰かの後ろに立つ日が来るなんてね)


鼻で笑いかけたが、思ったよりも自然に笑みがこぼれていた。


「……行こっか、次の一歩」


小さく呟いて、鞘を腰に戻す。


サーシャが目をこすりながら顔を上げ、フィオナが無言で立ち上がる。

それぞれのやり方で、彼女たちもまた“準備”を整えようとしていた。


窓の外、迷宮の尖塔は朝日を浴びていた。

その影は、三人の少女たちの足元へと伸びていた。


——光の届かぬ森で育った少女に、今ようやく光が当たり始めた。

それがどれほどの奇跡か、誰よりも彼女自身が一番、わかっていた。

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