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第9章《呪われしリュナ》

【1】出産と“異端の血”


森の夜は、深く、穏やかに息をしていた。

それは、誰にも気づかれず生まれ落ちる命を、そっと包み込むはずだった。

だがその沈黙を、痛みが、叫びが、鋭く引き裂いた——


集落の外れ、小さな庵の中で、ひとりのエルフの女が子を産んでいた。


血に濡れた手の中に、ようやく命が宿る。


「生きてる……女の子……」


助産の者がそう呟いた直後、部屋の空気がぴたりと止まった。


その肌は、夜のように深く、髪は月の光を帯びて銀に揺れていた。


「……これは……まさか……」


一人が目を見開く。「この色は、あの家の……!」

「母方の祖父……闇に堕ちた者の血か……?」

「封じられたはずじゃ……!」


——血筋の記憶が、密やかに恐れを呼び起こす。


だが、それよりも早く。

母が、命の終わりを悟っていた。

息が浅い。目が閉じかけている。


細く、震える指先。

それでも、赤子の頬に触れようとするその仕草は、

まるで世界のすべてを受け入れようとする祈りだった。


新しい命を胸に抱きながら、か細く笑った。


「……この子を……お願い……あなた……」

「名前を……どうか……この子に……世界を……」


その言葉を最後に、目が二度と開かれることはなかった。


父は女の手をそっと下ろし、震える指で娘を抱いた。


「……リュナ」


森に月がなかった夜。

娘の名前は、その銀の光に願いを込めて名付けられた。


長老会は決断を下した。

「この子は、森に災いをもたらす」

「魔族との混血など、聖域にはふさわしくない」

「出ていくべきだ」


——生まれて、まだ数時間。

リュナは「この村の者ではない」と定められた。


そしてその夜のうちに、男は娘を抱え、村を出た。

月のない道を、足音を忍ばせて。

振り返らなかった。

誰も、追いかけてこなかった。


【2】幼年期と父の教え


リュナは、生まれたその夜から“集落の外”で育った。

それは誰かが命じたわけでも、制度として定められたわけでもなかった。

ただ、村に住む者の目が、何も語らず“拒絶”を伝えていた。


——あの血は、禍根を呼ぶ。

——あの子に関われば、呪いが映る。


父は何も言わなかった。

ただ、森の奥に小屋を建て、剣と火と生き方を教えた。


「強くなれ」

「頼るな」

「誰かが与えてくれるものは、いつか取り上げられる」


リュナはよく笑う子だった。

最初のうちは、草花に指をかざして小さな魔法を試した。

掌からこぼれる光。

森に溶ける風。

「すごいでしょ?」


でも、父は褒めなかった。

ただ一言、「見せるな」と言った。


「その力を、他人に見せたら怯えるだけだ」

「世界は、そういうもんだ」


リュナは、黙ってうなずいた。

でも、その夜は眠れなかった。

焚き火の明かりが壁に揺れ、母の面影をぼんやりと浮かべた。


(お母さんなら、笑ってくれたかな……)


そう思ったけれど、もう確かめることはできなかった。

誰にも祝われず、誰にも触れられず。


それでもリュナは、懸命に父の教えに従い、生き方を身につけていった。

そのすべてが、“誰とも繋がらないため”の術だった。


——それが、彼女の生まれ落ちた場所。

誰のせいでもなく、誰も手を差し伸べなかった、始まりだった。



【3】断絶と孤独


風が強かった。

枝葉がざわめき、森の奥から遠雷のような響きが届く。


まだ十にも満たない頃のリュナは、父に言われてひとり、森の境界近くに来ていた。

「あの辺りの木には、甘い実がつく。今日は自分で探してこい」

そう言って、父は何も言わず斧を持って別の方向へ消えた。


草を踏み分け、小さな背丈で木の根を探る。

暗い肌の手に、赤い実がいくつか摘み取られていく。


ふと、獣道の先に人の気配がした。

リュナは手を止め、首を傾げる。

(……誰かいる)


道の向こうから、2人の旅人が歩いてきた。

片方は背負い袋を担ぎ、もう一人は腰に剣を下げた中年の男。


最初は、笑いながら話していた。

けれど、視線がリュナに気づいた瞬間、空気が変わった。


「……なんだ、あれ」

「あの耳……黒い肌、銀髪……!」


剣を持つ男が一歩、前に出た。

その目には、獣を見るような敵意が宿っていた。


「魔族か!? こんなところにッ——おい、逃げろ!」

「待て、まだ何も——」

「魔族だぞ!? あんなのに見つかったら、集落が危ない!」


リュナはその場を動かず、ただ立っていた。

剣を抜いた男が、身構えたまま石を拾って投げつけてくる。


小さな石が、額のすぐ脇を掠める。

「出てくるな、化け物!」

「帰れ! この森から、出てくるな!」


彼らは、怯えた顔で石をもう一つ投げ、それから背を向けて走り去った。


——残されたのは、落ちた木の実と、リュナだけ。


しばらくその場に立ち尽くしていた。

鼓動だけが耳に残り、何が起きたのかが、遅れて理解されていく。


(……あたし、何もしてない)


手を見た。何も持っていない。

魔法も使っていない。ただ、いただけ。


家に戻ると、父が焚き火を起こしていた。

リュナは静かに近づき、摘んだ実を差し出す。

「……誰かに会った」


父の手が止まる。

しばらくして、焚き火の薪を押し込む音だけが響いた。


「どうした?」

「石、投げられた。逃げてった」


父は顔を上げなかった。

そして、ただ一言だけ返した。


「だから言ったろ。見つかるなって」


リュナは、少し口を開きかけて、やめた。

何かを言いたかった。けれど、言葉が喉に浮かんでこなかった。


焚き火の火が、パチンと爆ぜた。

「魔法は?」

「……使ってない」

「それでいい」


少し間をおいて、リュナは右手を上げた。

空中で指先をすべらせると、淡く輝く光がふわりと浮かぶ。


それは、リュナの最初の《ヒーリング》。

癒しの魔法。

誰もが好むはずの光。


なのに、父はその光から視線をそらした。

「……見せるな」


「どうして?」


「誰かが見たら、お前を化け物だと思うだけだ」


言葉の意味は、わかった。

けれど、心は拒絶していた。


この光で誰かを癒すことができるはずだったのに。

この光を「すごい」と言ってくれる人がいるかもしれなかったのに。


その夜、リュナは焚き火の前でじっと座っていた。

父は何も言わずに眠っていた。


空には月がなかった。

(……あたし、誰かに嫌われるために生まれたの?)


そう思った。

けれど、口に出すと壊れてしまいそうで、何も言えなかった。


——その夜、彼女は小さな音も立てずに泣いた。


それが、リュナにとって「世界との最初の別れ」だった。



【4】別れの朝


朝靄の中、森の小屋にはいつも通り焚き火の匂いが漂っていた。

けれどその日、父は朝食を作らなかった。


「……急用ができた。集落へ行ってくる」


ぽつりと告げられた言葉に、リュナは一瞬耳を疑った。


集落——あの場所に、父が自ら足を向けることはもう何年もなかったからだ。


「……あの村、危ないの?」


父は頷いた。

「外れの集落で獣の群れが出たらしい。古い知り合いが、今もあそこにいる」

「呼ばれたわけじゃない。だが、行かなければ後悔する気がする」


そう言って、旅支度をまとめ始めた。

鞘に収めた剣、携帯用の薬草、火打石、ロープ。

——戦いに出る支度だった。


リュナは、ただ立って見ていた。

何か言うべきだったのかもしれない。

でも、口が開かなかった。

ようやく絞り出した言葉は、


「……あたしも行く」


だった。


父は、初めて真正面からリュナを見た。

その目に宿るものが、ただの子どもの反抗ではないと見抜いていた。

けれど——


「駄目だ」

「お前は、ここで生きろ。生き延びろ」


それは拒絶ではなく、祈りのような響きだった。


リュナが唇をかみしめたまま黙っていると、父は小さな袋を差し出してきた。

中には乾燥させた薬草と、布に包まれた護符のようなもの。


「それと……これを預ける」


古びたナイフだった。

刃はもう鈍っているけれど、よく手入れされていた。


「お前の母さんが若いころ、細工に使ってたやつだ」

「俺じゃ、こういうのは似合わん」


父の声が、そこで少しだけ揺れた。


「お前は、強くなった」

「だけど……」


そう言って、しばし言葉を切る。

朝靄が、森の奥から光を散らし始めていた。


「誰にも頼るな。そう教えてきた。

……けど、お前にも、信じられる誰かが現れる時が来るかもしれん」


リュナの目が、かすかに揺れる。


「そのときは、守るだけじゃなく、手を取ってやれ」

「お前が背を向けた世界を、いつかもう一度、見てみろ」


「それでも何も変わらなかったら……そのときは、俺の言葉を思い出せ」


リュナは、胸の奥が何かで満たされていくのを感じた。

それは怒りでも悲しみでもなかった。

ただ、言葉にならない熱だった。


「……帰ってくる?」


「わからん。でも、お前は待つな」


父はそれだけを言って、荷を背負い、小屋の扉を開けた。

風が吹いた。

枯葉が舞い、光が差し込む。

そしてその背中は、二度と振り返ることなく、森の奥へと消えていった。


リュナは、ずっと扉の前に立っていた。

目の前の道は、ひどく長く見えた。


(……父さん)

(今のあたし、手を取れるかな)


胸の奥で、何かが静かに揺れた。

それはまだ名前のない感情だった。

でも、それこそが“繋がり”というものなのかもしれないと、

リュナはそのとき、少しだけ思った。


【5】孤独の森にて


父が旅立ってからの森は、変わらなかった。

木々は変わらず揺れ、鳥はさえずり、焚き火は燃えた。


ただ——音が、足りなかった。

いつも背中越しに聞こえていた斧の音も、火を焚くための足音も、今はない。

小屋は静かすぎた。


リュナは、ひとりで狩りに出た。

剣も使える。弓は引ける。罠も仕掛けられる。

父に教え込まれた術は、間違いなく身体に染みついていた。


けれど——

(……帰ってきても、誰もいないんだ)

そんな実感が、毎晩の焚き火の前でじわじわと染み込んでいった。


ある日、獣に襲われかけた。

傷は浅く、命に別状はなかった。

けれど、血の匂いに囲まれたとき、リュナは思わず叫んだ。


「っ……くそ、もう……!」


倒れこんだ苔の上。

見上げた空は木の葉に遮られ、星ひとつ見えなかった。


(どうして、あたしだけが、こんな目に……)


震える指先を見つめていると、脳裏に父の声が蘇った。

——《誰にも頼るな》

——《でも、誰かに出会ったら、手を取ってやれ》


「……そんなの、わかんないよ……」


声に出すと、余計に寂しくなった。

けれど、その言葉を思い出すたび、

焚き火の光がほんの少しだけ、あたたかく見えた。


ある夜、食料も尽きかけ、雪が降り始めた。

動物の足音すら消える森の中で、リュナは丸くなって座っていた。

薪も残りわずか。魔法を使えば、少しは寒さをしのげる。

けれど、使わなかった。


——もしここで倒れても、誰も見つけてくれない。

それでも、父は言ったのだ。

「強くなれ。生き延びろ」


火の気が消えるとき、彼女はひとりごとのように呟いた。


「……生きてやる。見てなさいよ、父さん……」


その言葉に答えるものはなかった。

けれど、吹き込んだ風が、焚き火の灰を一つだけ舞い上げた。

まるで、小さな返事のように。


——その夜、リュナは初めて夢を見た。

闇の中、誰かの手がこちらに伸びてくる夢だった。

誰かはわからなかった。

でも、あたたかかった。


「……誰かに、手を取らせることができたら」

その時こそ、父の言葉の意味を、ちゃんと理解できるのかもしれない。


そんなことを、まだ知らぬ未来の彼女は、思っていた。


【6】旅立ちのとき 〜迷宮都市カルツァレアへ〜


雪解けの音が、森に春の訪れを告げていた。

けれど、リュナの小屋には、もう何も残されていなかった。


蓄えは尽き、獣の姿もまばら。

薪も、薬草も、父の残した教えも、

いまや彼女の内にある記憶だけが支えだった。


そして何より、

誰も——本当に誰ひとりとして、彼女を探しには来なかった。


(……もう、ここにいても、なにも変わらない)


ひとりごとのように、そう思った。


いつか父が言っていた。

「もし、この森を出る時が来たら、南へ行け」

「谷を越えた先に、“人間の都市”がある。魔族も混じる混沌の街だ」


迷宮都市カルツァレア


父の口からその名が語られたとき、どこか懐かしそうな響きがあった。


リュナは、肩に小さな袋を背負った。

中には、母のナイフと、わずかな薬草、そして乾いたパンのかけら。


焚き火の灰に、指で小さな円を描く。

——この場所で過ごした、名もなき日々の印。


「……ありがとう、森」


彼女はそう呟き、小屋の扉をそっと閉じた。


振り返らなかった。


朝靄の向こうに、枝葉を抜けて差す光が見えた。

そこに、まだ知らない世界があると信じた。


(強くなれ。生き延びろ)

父の声が、再び胸に蘇る。


(でも……いつか、誰かと、ちゃんと笑えるようになりたい)


その願いはまだ、小さな芽のように心の片隅に息づいていた。


リュナは、歩き出した。

森の奥へ。

谷を越え、その先にある都市カルツァレアへ。


自分の名を、呪いではなく、

——希望として刻み直すために。

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