プロローグ「死にかけた夜」
迷宮都市。
その最下層、《第零層》と呼ばれる路地裏は、死と眠りが隣り合う場所だ。
人目につかず、助けも来ず、忘れられるにはちょうどいい。
リュナは、その冷たい石畳を見下ろしていた。
(……また、か)
薄暗い路地の奥、泥の上に崩れるように倒れている影。
小柄な少女。
青髪は泥と血で貼りつき、ぼろ布のような服に覆われたその額から、角が2本、小さく覗いていた。
(角……)
魔族との混血。
それはこの都市では“呪われた血”とされる。
名前を持つことも、表通りを歩くことすら許されない。
まだ息はある。けれど、目は虚ろで、意識は朧。
身体は熱を帯び、ひどく痩せている。
リュナは一歩、後ろに下がった。
関われば、損をする。
それがこの都市での常識だった。
情けをかけるだけ、金と手間を失う。
あの夜以来、何度も見てきた光景だ。
(……そう、他人のままでいい)
彼女は踵を返す。
けれど、三歩進んだところで、ぴたりと足が止まった。
少女の目が、こちらを見ていた。
かすかに開いたその瞳に、拒絶と怯えと、そして——助けを乞うような光があった。
(あたしも……ああいう目で見られてた)
かつて森を出たとき。
この肌の色と耳を見て、人々は皆、同じように怯えた。
剣を抜かれ、道を閉ざされ、名前すら聞かれなかった。
(……あのとき、誰かが手を伸ばしてくれていたら。
あたしの何かも、もう少し違ってたのかもしれない)
思い出すだけで、腹の底がざわついた。
「……っ、はあぁ……」
舌打ちをして戻る。
ずぶ濡れの少女の身体を抱き上げると、骨のように軽かった。
「せめて、生きてなさいよ。あたしみたいにしぶとく、ね」
◇ ◇ ◇
宿へ戻ると、少女を床の寝藁に寝かせた。
肌は赤くただれ、古傷が至るところに残っている。
湯に濡らした布では追いつかない。
リュナは静かに手をかざした。
「優しき光よ、汝の傷を癒せ――《ヒーリング》」
淡い金色の光が、掌の先からあふれ出す。
癒しの光が少女の肌をなぞり、赤みがゆっくりと引いていく。
魔法が染み込んでいくたび、リュナは言い知れぬ違和感を覚えた。
(……あたしが、光の魔法なんて)
世間では、こんな肌の者が聖属性を扱うことなど、信じようともしない。
けれど現実には、リュナの光魔法は、誰よりもよく通る。
否定されるたび、皮肉のように冴えていく。
(……だから、嫌いなのよ。こんな光)
癒すたび、救うたび、自分の存在が薄れていくような気がした。
薬を使い、着替えをさせ、あとは寝かせて様子を見るだけ。
最低限の処置を終えたところで——
戸が、ノックもなく軋んだ。
「ご、ごめんなさいっ! あのっ、すみません……!」
リュナは眉をひそめて扉を開けた。
そこには、見上げるような背丈の少女が立っていた。
「何よ、今度は」
焦げ茶の髪を後ろで束ね、背には見慣れない鉄剣。
けれどその目は狼狽しきっていて、全身から“困ってます”とにじみ出ていた。
「……あのっ、今、どこも宿がいっぱいで、食堂にも断られて……
私、大きいだけで、取り柄はないんですけど……その……皿洗いとか……剣の素振りも、毎日……!」
言葉が崩れそうになりながらも、何かを訴えようと必死だった。
「……でかい図体で、なんでそんなに縮こまってるのよ」
リュナがため息をつくと、腹の虫がぐう、と鳴った。
——違った。目の前の少女の腹だった。
「……ぷっ」
噴き出しかけた笑いをかろうじて抑え、肩をすくめる。
「……うち、施し屋じゃないわよ。でも、椀ひとつくらいなら分けてやる。
ただし、あたしの分に手ぇ出したら斬るから」
「はいっ!ありがとうございますっ!」
少女は崇拝者のように頭を下げ、そろりそろりと中に入ってきた。
リュナは、自分で言ったことにため息を重ねる。
(面倒が……増えた)
けれど、心のどこかで
……ここは、カルツァレア。
表向きは差別も統制もない“自由都市”をうたっているが、その実は放任と無法の混ざる混沌。
身元や血筋より、結果と生存力だけがものを言う都市だった。
——そんな予感が、かすかに息をしていた。
その夜。
小さな部屋に、見知らぬ少女たちが3人。
ひとりはまだ熱にうなされ、
ひとりは不器用にスプーンを握り、
ひとりは、それを見下ろしながら鍋の中を混ぜていた。
言葉はなかった。けれど、それでも何かが動き出していた。
ただ静かに、運命は足音を忍ばせていた。
癒しの光に縁なき少女が灯したその手が、やがて迷宮の深奥まで届くなど、誰が想像できただろうか。