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ゼロの旅路  作者: イフ
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19.哀れな命

「…………」

 ゼナは依然として目を丸くして、目の前の子猫を見つめた。ミーシャが男を蹴り飛ばしたと思えば、そのミーシャからメイの声が聞こえる。非現実な光景に固まるしかなかった。


「困惑しているようだな。いいだろう。手短に説明してやる。私はミーシャの魔力をもつ体と麻酔による昏睡状態を利用し、猫の体を依代に動かせると思ったのだ。結果は予想通り。時間はかかったが、お前のおかげで邪魔は入ることなく作戦は成功した」

「そ、それはとんでもない作戦だ……」

「そうだろう? これを思いついた自分を褒め称えたい気分だ。まぁ、今はそんな場合ではないがな……あれが使えそうだ」

 ミーシャ……いや、メイはそう言うと端に寄せられた水晶の破片たちに近寄り、一際鋭いものを手に取ってゼナの腕に飛び乗った。そしてそれを駆使して両手の縄を切断した。



「い、一体何が……どうなって……」

 男はようやく立ち上がり、声がする方に目を向けた。


 そこには男を驚愕させる光景が広がっていた。猫が、被験体三十二番が少年と流暢に会話をしている。男の実験は魔力を注入することによる力の強化であって、理性のコントロールを度外視したものだ。喋る事ができるにしても、幼児の言葉と相違ない。というのが今までの実験で証明されている。では、目の前のあれはなんだ? まるで何か別の物が入っているかのような理性的口調。そんな現象は何百、何千という実験では生まれなかった。


「お、無様な男がお目覚めらしい。ゼナ。両足は自分で解け。ほら」

 メイは破片を投げ渡し、ゼナから飛び降りた。


「さて……よくもやってくれたな。不意打ちされて私は怒り昂っている。もう一発、顔面に喰らわせてやる」

 メイは四足歩行をやめ、二足歩行ですくっと立ち上がった。拳を握りしめて、殴る仕草で威圧する。だが男はメイを見ておらず、どこか虚空を見つめていた。


「ありえない……」

「ああ? 何が……」

「ありえないありえないありえないありえない! こんなことはありえない! 不可能だ! 僕は長年この研究をしてきたんだ。あらゆる可能性を発見してきた。僕が知らないことなんてないんだ! なのになんだ?! 流暢に人の言葉を話し、成人レベルの知能をもつだって? ありえない。許されない。おかしい。僕の研究を超えるなんてッ!!」


 男は頭を抱えて狂乱し喚いた。そして、壁に貼られていた数式を手当たり次第に破り捨て、白紙となった壁にまた数式を書き殴っていく。


「はっ、哀れな男だ」

 メイは蔑視の目を向け、鼻で笑った。しかし反応はなく、壁が難解な式で埋まるばかりであった。


「メイ! 解けたよ!」

「よしっ! 剣はそこにある。拾え。後はこいつを簀巻きにしてお終いだ」

 ゼナは急いで剣を拾い上げ、抜き放ち、男に鋒を向ける。


「観念しろ! お前の罪は全部明るみになる。お前の非道な実験はここで終わり、多くの命を犠牲にした夢は完全に潰える」

 男はゼナの言葉を聞いてピタリと動きを止めた。壁に書き殴っていたペンを力なく落とした。


「夢が潰える……? ははは……あはははははっ! それは違うよ! 確かに僕の予想外の結果が目の前にあるのは腹立たしい事だ。だけど、それで僕は挫折などしない。夢を叶えるまで決して折れたりは……しない!」

 男は薄気味悪い笑みを浮かべると同時に懐から薬品の入った瓶を取り出し、ゼナに向かって投げつけた。


「うわっ!」

 間一髪、飛び退けて瓶を避ける。標的を外れた瓶は派手な音を立てて砕け散り、液体の溢れた床はじゅうじゅうと溶け出した。


「あ、危なかった……」

 もしこれに当たっていたらと思うと、身体中から冷や汗が出る。


「あの野郎……ゼナっ! 奴を追え!!」

 ゼナが薬品に気を取られている隙に男は勢いよく部屋から飛び出していた。大っぴらに開けられた扉がそれを物語っている。


 急いでゼナも扉に向かった。メイはミーシャの体のまま、肩に飛び乗りついてくる。部屋を出て左を向く。遠目に白衣をひらつかせ、走り去る男が見えた。


「逃すか!」

 ゼナは全速力で走った。男を逃すわけにはいかない。でなければ命が、多くの命が、一人の男のために消費され続ける。そしてその魔の手はいずれ人間にも及ぶ。魔力による痛みと苦しみを知っているからこそ、人一倍に止めなければならないという使命感にゼナは駆られた。


 男が走る勢いを落とし、廊下の扉を開け放って中に入った。ゼナも速度を落としつつ続いた。


 部屋に入ると奥に男が佇んでいた。ゼナは相手が走るのをやめたとこを見て、観念したと思った。そしてそのまま走って男に近づいた時……


「!! ゼナ下がれ!!」

 肩でメイが叫んだ。反射的にゼナは後方へ飛び退く。目の前で何かが降ろされた。


「なっ……!」

 ゼナと男の間に突如として一枚の鉄格子が現れ、二人を隔たらせた。


 男は手に持った筒状の何かを見せびらかす。その上部にはボタンのようなものが見える。


「僕がただ逃げただけだと思ったかい? 僕を侮辱した君は死をもって償うべきだ!」

 男は醜い怒りの形相で笑った。


「こんな鉄格子……!」

 ゼナは剣を構え、無理矢理切り開こうとした。しかし、その動きはピタリと止まった。背後に……何かいる。ゼナはゆっくり、首を回した。

 背後にも大きな鉄格子があった。急いで入ってきたためにその存在に気づけなかった。そしてその鉄格子はすでに開け放たれ、暗闇の奥には二つの眼がぎらぎらと光っていた。光はゆっくりとこちらに近づき、そのベールを剥いだ。


「……ゔ……ゔぅー……」

 低い唸り声をあげて現出したのは一際大きい猫であった。成猫の何倍もある巨体。猫というよりチーターやライオンだ。しかしそれでも目の前の生物を猫と認識せざるを得ない。何故なら、肩にのっているミーシャとそっくりな相貌なのだから……


「あははははっ! 驚いたかい? こいつは僕の実験の中での最高傑作! 幾つもの実験に耐え生き残ったこいつは、僕の理想に限りなく近づいた存在。しかし、凶暴さ故に制御できず……こうして牢に保管するしかなかったんだ。だから気をつけたまえ……こいつ爪と牙は君の体をいとも簡単に、肉塊にするだろう……あはははははひひひひっ!」

 男は気の狂った笑いを浮かべるがゼナは聞き流し、目の前の猫を見た。白で染まって精気を感じられない眼球。口からばたばたと垂れる唾液。汚れ切った体。痛々しい数々の傷。

数秒の観察だけで劣悪な環境が見て取れた。けれどそれ以上に目を引くものがあった。猫の両手足にくくりつけられた、紫色の液体が入った瓶。男が手術室で見せてきたものよりも色濃く、まるで深海のようだ。


「魔力ポーションをいくつも混ぜ合わせたものだ。かなりの濃度だぞあれは。魔力耐性の低いやつが摂取すれば簡単に死ねる代物だ」

 メイから見ても相当なものらしい。それが四本も……。嫌な予感がする。


 その嫌な予感は当たった。


 唸ってこちらを観察していた猫が突如、耳を劈くような絶叫をあげた。


「な、なんだ?!」


 猫の血管が太く浮き上がり、その中を紫の光が這いずっている。


「さあ、見せてくれ。僕の傑作……!」

 男の声に振り返る。男は光悦とした表情でボタンを押していた。


「やめろっ!」

 ゼナは必死の形相で男に掴み掛かろうとした。しかし無慈悲に鉄格子がそれを阻む。


「はははっ! 君はそうやって無力なままに怒って、肉を引き裂かれるのが運命……ごあっ?!」

 男が言葉の途中で仰け反った。メイが肩から跳躍し、格子の隙間を綺麗に抜けてドロップキックを男の顔面にくらわせたのだ。突然の攻撃に男は何もできず、重力の意のまま倒れた。そして手からボタンのついた装置が転げ落ちる。メイはそれを掴み取り、ゼナに向かって投げた。


「それをぶっ壊せ!」

 ボタンを受け取ると床に投げつけ、剣を振り落とす。ゼナの一撃は直撃して、ボタンは粉砕された。しかし、猫の様子は変わることなく苦痛に耐え、吠えている。


「……無駄さ。すでに賽は投げられた。僕が押したのは魔力を全投入するボタンだ。あれは君を喰らい尽くすまで……止まら……な……」

 男は勝ち誇った顔を浮かべながら目を閉じた。


「くそっ! 起きろっ!」

 メイは男の胸ぐらを掴んで揺さぶったが反応はなかった。男に舌打ちして、ミーシャの体から飛び出しゼナの元へ戻った。


「こいつを倒す。今ならまだそれほど強くない。……それに今更尻尾を巻いて逃げるなぞ癪だ。ここまで来たからには最後までやり通すぞ」

 メイの言葉に剣を構えることで返した。だがその手は震えていた。目の前の獣に対する恐怖で。いや、違う。人間に弄ばれた哀れな命を、この手で切り倒すことが怖くて、とても悲しくて震えている。けれど、ゼナは構えを解かない。今この場で多くの命を救う事ができるのは自分だから。自分しかいないから。


 恐怖、悲しみ、怒り、あらゆる感情を呑み込んでゼナは戦いへと身を投げた。

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