44.レイナルド様とのオペラ鑑賞④
眼下の一階客席では観客が出口に殺到していた。
今日、上演されるはずだったオペラのプログラムは王都でも人気のもの。客席は満員で、多くの人々が逃げ惑う悲鳴が聞こえて、私まで手が震える。
完全に照明が落ちてしまった場内に煙が充満し、視界の悪さがパニックを誘発させる。火は見えないものの、白かった煙は黒くなっていて、このロイヤルボックスにいても目や喉が痛い。
「レイナルド、フィオナ嬢、とにかく外へ」
「ああ。フィオナ嬢」
「は……はい……!」
クライド様の言葉に引き続いて、レイナルド様が私の肩を抱いて出口まで誘導してくださる。けれどあまりの緊急事態に足が上手く動かない。
「煙を吸わないようにこれを」
こんなときでも、私を気遣ってくださるレイナルド様に驚いてしまう。彼が手渡してくれたのは『フィオナ』が以前贈ったハンカチだった。それを握りしめた私は、聞いてみる。
「あの、客席の方々はどうなさるのでしょうか」
「すぐに消火隊が到着します。彼らが助けます。あなたを安全な場所に案内したら、私も避難の誘導を手伝います。ですから、早く外へ」
私の問いに答えるレイナルド様の口調は有無を言わせないもので。
十年以上前に起きた『王立劇場の悲劇』では犠牲になった方のほとんどが一階客席から避難できなかった人だと言われている。
歴史の教科書にも載っている大きな事件。あのときの出火元は舞台袖の煙草の火だったらしい。こんなに早く客席に火が回っているということは、今回もそれに近いもののような気がした。
ここで魔法が使えればいいのに。専門書の呪文がないとこの惨事を完全に収めることはできないけれど、私が覚えている呪文だけでも水を起こして火が回るのを遅らせたり、風魔法で人が殺到しているドアを壊して避難を楽にすることぐらいはできる。
けれど、判断を下す前に私はレイナルド様に肩を抱かれて部屋を出ていた。
当然、「あの私実は魔法が使えるんです、今から使いますが内緒にしていただけますか……?」なんて聞ける雰囲気ではなくて。
……でも。誘導されながら、私は立ち止まる。一階の客席はパニック状態だった。すぐに何とかしないと、きっと大変なことになる。
「レイナルド様、私忘れ物をしました!」
私は彼の胸を押して身体を離すと、一人で立ってきっぱりと告げた。
「フィオナ嬢!?」
「お二人はすぐに避難を! 絶対についてこないでください!」
レイナルド様が怯んだ隙をついて、私はさっきまでいたロイヤルボックスの入口へと走り出す。視界の端で、私を追いかけようとするレイナルド様と、それをがっしりと止める三人の護衛の姿が見えた。
きっと、二階から一階の客席に向けて水魔法を使えば火は消せる。家から出たばかりの頃は足がふらついて風に飛ばされる帽子にも追いつけなかったけれど、今はこんなに身体が軽い。
ロイヤルボックスのクロークに入ると、私は急いで客席部分に出た。さっきよりも黒い煙が広がっていて、目が痛い。口元からハンカチを外した私は、手を伸ばして呪文を唱える。
まずは、人が殺到して開かなくなっているあの扉を壊さないと。壁ごと飛ばすと劇場自体が崩れてしまう可能性がある。錬金術の設計図を書くときのように、造りを考えた上で最適な部分に穴を開けたかった。
「突風よ壁を飛ばせ」
その瞬間、風の塊が一階客席の扉を突き破る。錬金術を使うときとは違う、魔力が消費される感覚に身震いがした。
私は魔法が好きだけれど、こうして失敗が許されない場面で使うことはほとんどない。スウィントン魔法伯家の私とお兄様しか知らない、秘密のもの。
人が殺到して開かなくなっていた内開きの扉が開いて、一階客席の観客の避難が始まった。そちらに人が集まったのを確認して、ほかの扉も壊す。
ドン、と音がして二つの扉が一気に開く。その向こうに、小さく消火隊の姿が見えた。水を発生させるための魔法道具を手にしている。
彼らの救出活動と消火活動を助けるために、火の回りも遅くしなきゃ。
精霊への呪文はたくさんの種類があるけれど、私が記憶しているのは響きを気に入ったものがほとんどで。大昔に高位魔法とされたものも覚えているのに、放ったことがなければ威力がわからない。だから、一番人に害がなさそうなものを唱える。
「水を降らせよ」
劇場の高い天井から、ざあああっと土砂降りの雨が降り始める。舞台を包み始めていた炎から蒸気が上がっていくのを見て、私は少しだけ安堵した。
「これで少しは時間を稼げるはず。私も……逃げなきゃ……」
ほっとした瞬間に、足から力が抜ける。魔力はちっとも減っていないし今日は体力もある。けれど、喉が熱くて、胸が苦しくて、くらくらして、目が見えない。自分でも気がつかない間に煙を吸っていたみたい。
早く逃げなきゃ。お兄様が心配するし、何よりもこのままではレイナルド様が私を助けに戻ってしまう。アルヴェール王国の王太子殿下を危険な目に遭わせるわけには行かない。
そんな思いもむなしく、視界はどんどん狭まっていく。
薄れゆく意識の片隅で、バキッ、と扉を蹴破る音がした……気がした。