42.レイナルド様とのオペラ鑑賞②
客席の二階にあるロイヤルボックスへ向かうにはエイベル様とミア様の前を通らないといけない。そう思ったら、急激に心臓が早鐘を打って息苦しくなった。
私は、薬草園や工房で仕事を押し付けてくるミア様のことを思い浮かべる。
正直なところ、私はあのミア様が苦手だけれど嫌いではない。本当に素で接してくださっている感じがするから。あれ以上、誰かを陥れるようなことをするとは思えないのだ。
けれど、エイベル様は……。
これ以上ないぐらいに気分が落ち込んだところで、レイナルド様の優しい声が降ってくる。
「フィオナ嬢、顔を上げてください」
「はっ……は、はい」
「今日のことは調査不足で申し訳ありません。まさか彼らが来ているとは。エイベルについては王都から追放したはずなんだが。アイツはなんでいるんだ、クライド?」
レイナルド様の優しく高貴な微笑みからは想像できない言葉が紡がれて、私は固まった。これは『フィーネ』にも見せてくれない顔で。相当に怒っていることが容易に想像できる。
「ね、まじわかんない。きっとお父様の言いつけを無視して遊びに来た、ってとこなんじゃない?」
「だろうな。……フィオナ嬢」
ぼうっと二人のやりとりを聞いていた私は、びくりと肩を震わせた。
「はっ……はい!」
「あなたは私にとって大切な人です。だからこのようにお誘いしています」
「は……はい?」
唐突な言葉に私は首を傾げた。レイナルド様の声は不自然に大きくて、二階のロビースペースに響き渡る。
シャンデリアやたくさんの装飾品で絢爛に彩られたこの劇場が霞んでしまうぐらいの、レイナルド様の華やかなオーラ。それを感じて私は急に足が竦んでしまう。
この人の隣は私にはやっぱり似合わない。それぐらいに彼は王太子殿下らしく振る舞っている。
二階にいる人だけではなく、ロビーの吹き抜けを通じてほかの階からも注目がこちらに集まるのがわかって、呼吸がさらに上がった。
そっか。レイナルド様はこの会場の人たちにわざと見せつけているんだ。
きっとこれは私のためだ。恥ずかしくて気絶しそうとか、注目を浴びたくないとか言ってはいられない。
私はレイナルド様にエスコートされながら階段を上りきる。すると、呆然と立ち尽くすエイベル様とミア様と視線がぶつかった。
エイベル様は何かを言いたそうだけれど、王太子殿下に対して立場が下の者から話しかけることは許されない。
王立アカデミーのカフェテリアで婚約破棄を言い渡すという暴挙に出たお方ではあるけれど、貴族社会での最低限の振る舞いは弁えているはずだった。
「フィオナ嬢、こちらです」
「はい」
私とレイナルド様、クライド様の順番にエイベル様・ミア様の前を通り過ぎる。私は噛まないように細心の注意を払う。
間違いなく『次期マースデン侯爵以上の賓客』であるレイナルド様に、エイベル様は頭を下げた。ミア様もタイミングが遅れたものの同じ礼をする。
「……フィオナ嬢?」
レイナルド様の驚いたような声がする。それもそのはず、私はエイベル様の前で足を止めていた。さっきまでとは比較にならないほどに、私の心臓はばくばくと大きな音で鼓動を刻み始める。
きっとここで逃げたら、私は一生逃げ続ける気がする。ううん、きっとお兄様もレイナルド様もクライド様も、ジュリア様もドロシー様もみんな、逃げていいとおっしゃると思う。でも私は。
――気が弱い自分をやめると決めたのだ。
私の視線の先にいるエイベル様は茶色い髪をテカテカと光らせ、青ざめていた。王立アカデミーのカフェテリアで最後に見た、あの意地の悪い表情の欠片すら見えない。
でもどうしよう。足を止めたものの、何を伝えよう。こんなに青ざめている人に意地悪なことは言えないしそもそも私がいっぱいいっぱいでそういう類のことは何も思いつかない。
目を瞬きながらなんとか私が絞り出せたのは。
「あの……お二人が仲良く過ごされていること、何よりです」
「……!?」
私の言葉にエイベル様はぽかんと口を開け、隣にいるミア様の顔はなぜか赤くなった。ちなみに、私が掴まっている腕は小刻みに震えだして、背後のクライド様に至っては「ブッ」と声が聞こえた。
「……っ。行きましょうか、フィオナ嬢」
「はい」
私はエイベル様に淑女の礼をする。それからレイナルド様に手を引かれて、二人の前を通り過ぎたのだった。