49.帰還へ③
「――ここを通せ」
こんなに低く凄みのあるレイナルド様の声を私は聞いたことがない。けれど当然、リトゥス王国の兵士の皆さんもすんなり私たちを通してくださるはずがなかった。
「アルヴェール王国の王太子、レイナルド殿下。どうかお戻りくださいませ。ルカーシュ殿下より、皆様がここを通ろうとするようなら全力でお止めするよう申しつかっております」
「それはできない。俺たちは何としてでもこの国を出る」
「それならば」
さらに緊張が高まったのを感じて震えそうになれば、ミア様が私の腕を引っ張る。
「隠れなきゃ。あいつらの狙いはあんたでしょ!?」
「え……っ」
「ミア嬢、フィーネを頼む」
私の前にはレイナルド様の背中。騎士の皆さんだけでなく、レイナルド様やクライド様まで剣を抜いたのがわかって、あまりの恐怖に全身が冷たくなる。
現実を受け止める時間もないままに、剣がぶつかり合う音が響く。レイナルド様たちが戦っている。
使節団に同行してから、騎士の皆さんやレイナルド様たちが訓練をしているのを見たことはあるけれど、実際に戦っているのを見るのははじめてのこと。足がすくんで動けない。
「ぐぁっ……!」
レイナルド様に切られた一人の兵士が腕を押さえて剣を落とす。血飛沫が飛ぶこの塔の前での光景はまるで悪夢のようで。
でも、これは夢ではない。現実なのだ。
「こっち! 早く!」
気がつくと、私はミア様に引っ張られて塔の裏側に回っていた。足がもつれて、膝をついてしまう。恐怖で立ち上がれない私は、隠れて様子を見守ることしかできない。
さっき、レイナルド様は私に魔法を使うなと仰っていた。けれど、そんなことを言っている場合ではないと思う。
空からは土砂降りの雨。視界が悪いけれど、明らかに人数の面でこちらの分が悪いのはわかる。そして、この塔は王城の敷地の中でも端にあるため、まだアルヴェール王国側からの助けは来ない。
「あんたは私と一緒に様子を見てここを離れるの。足が震えててもちゃんと走るのよ、いいわね」
「はっ……は、その、私」
魔法で応戦したいと打ち明けようとする私の腕をしっかり掴んだまま、ミア様は続ける。
「これまでの人生で何度死を覚悟したと思ってんのよ。まぁ、あれは食べ物のせいだけど。とにかく、一回死んだ気持ちになってるから、私はこんなの全然平気よ。問題はあんた。ちゃんと生きて帰らないと!」
キン、と音がして反射的にそちらを見ると、リトゥス王国の兵士の手から剣が飛んだのが視界に映る。それを弾いたのはクライド様で、見たこともないような鬼の形相で怒鳴っている。
「レイナルド、なに躊躇ってんだよ。これは訓練じゃない」
「わかってる」
クライド様はレイナルド様の護衛騎士だ。絶対に守らないといけない人の危機に、表情がとても厳しくなっている。
私だって、何かしたい。私には魔法が使えるのだから。
今、雨が降っている。今ならきっとあの上級魔法が使えるはずだ。
以前に使ったことがある魔法は、全く初めて使うものよりも魔力の消費が少なくて済むし、何よりも威力がわかっているので扱いやすい。
呪文を唱えようとした私に、レイナルド様の張り詰めた怒鳴り声が聞こえた。
「フィーネ、絶対にだめだ。無事に国に帰るために」
兵士と剣を交えながら伝えてきたその言葉は、とても重要なもののはず。でも絶対にダメって何がでしょうか……! あえて何がだめなのか言わないレイナルド様に、反射的に思い浮かんだ言葉。
――魔法。レイナルド様は魔法を使うなと仰っている……?
”ここは雲の上ではないから、魔法が使えない”――はずなのに?
子どもの頃。バカンスのためにスティナの街を訪れていた私は、レイナルド様が湖に落ちたところに遭遇し魔法で助けたことがある。
もちろん、当時はあれがレイナルド様だなんて知らなかった。ただ、湖を見ていたら男の子が落ちたので、とっさに上級魔法の呪文を唱えて助けたのだった。
あれがレイナルド様だったと知ったのは、レイナルド様が「子どもの頃精霊に救われた」と仰っていたから。
でも、魔法にも錬金術にも詳しくて、聡明なレイナルド様がいまだにずっとあれが「精霊」と信じているのは少しおかしな話だとも思う。
困惑するばかりの私の思考をはっきりとさせたのは、真っ赤な血だった。
「……!?」
気がつくと、私は突き飛ばされて地面に倒れていた。
そして、目の前にレイナルド様がいらっしゃる。レイナルド様の脇腹には剣が刺さっている。その剣を持っているのはルカーシュ殿下だった。
「レイナルド!」
クライド様の悲痛な叫び声。
私は何が起こったのかわからなくて、一言も発せない。
けれど、私の代わりにレイナルド様が斬られたことだけはわかった。
「あ……っ」
どうして。どうして、どうして。
「やっと追いつきました。ここへ来てはもう魔法は使えません」
ルカーシュ殿下の平坦な声が、ひどく冷たく耳の奥に響く。私を守るように立っているレイナルド様は刺さっている剣を自分で引き抜いた。大量の血が地面に落ちて、頭の中が真っ白になる。
「ポ……ポーションを……!」
肩から下げていたバッグに手を突っ込んでガシャガシャと探る。
初級ポーション、認識阻害ポーション、中級ポーション。……ない。上級ポーションはどこ。それも、とびきり質がいいものをできるだけ早く飲んでいただかないと手遅れになる。レイナルド様の大怪我を目にして、冷静でいられない。
早く治さないと。この血を止めないと。もうお会いできなくなるなんて、絶対に嫌。けれど、レイナルド様は表情を変えなかった。塔の中から出てきていきなり私に切りつけてきたルカーシュ殿下に問いかける。
「世界から消えた魔法を元に戻すヒントが……フィーネにあると踏んだのか? だから目の色を変えて……自ら追ってきた。しかしならばどうして……フィーネを狙う」
耐えるレイナルド様に向かい、ルカーシュ殿下は不気味なほど穏やかに微笑んだ。
「国王陛下は、そろそろ他国と国交を持つべきだとお考えです。このままでは、我が国はどんどん衰退していくと。ですが、私はそうではありません」
「それが……フィーネを狙うこととどんな関係がある?」
「二百年前、世界から魔法が消えたのは我が国が魔法を独り占めしようとしたことが原因です。当時、我が国には強大な力を持つ宮廷魔法師がいた。彼は国王の命令に従い、魔法を司る精霊に魔法をかけたのです。――しかし、結果は失敗でした」
ルカーシュ殿下の口から語られた『二百年前』に起きたことは、リトゥス王国のことを詳しく調べていた王妃陛下からですら聞いていなかった事実で。
本当に、リトゥス王国内部の人しか知らないことなのだと思う。息を呑む私たちの前、ルカーシュ殿下は続ける。
「失敗してどうなったのかというと――精霊はその特別な魔法が扱われた塔の上でだけ、魔法を起こすようになったのです。加えて、魔力を魔法に変える人間には健康被害が生じるようになった。魔法を独り占めして世界を手中に収めようとした私たちへの呪いのようなものでした」
「そこまでわかっているのに、元に戻す気がないのはなぜだ」
「戻したくても戻せなかったのです。当時の宮廷魔術師がかけた魔法の呪文を読み解くと、精霊を変質させてリトゥス王国の人間の魔力にしか反応しない不具合を起こすものだった。あとは知っての通りです。だから、私たちは下界でも精霊が反応する魔力の持ち主を探していた。“生成するポーションが不味い”これは、我が国の魔法師が二百年にわたって研究して突き止めた異質な魔力の持ち主の手がかりです」
ルカーシュ殿下の話を聞きながら、頭から血が引いていくのがわかる。
私は、リトゥス王国で特別な魔法使いだった『シルヴィア王女』の血を引いている。そのシルヴィア王女』――“お母様”は健康被害の悪化で亡くなったのだという。
けれど、私にもその性質が受け継がれつつ、下界で育ったことで魔力に何か特別な反応が起きたのだとしたら?
もし、私が生成するポーションの味がひどく不味いのが、魔力の異質さによるものだとしたら?
異質な魔力だからこそ、不具合が起きている精霊でも反応して魔法を起こすのだとしたら?
錬金術だってそう。魔力が異質だからこそ、反応に魔法が関わるのだとしたら。それらは全部、ルカーシュ殿下の説明と一致しているように思えて。
にわかに頭の中がはっきりとし始めた私に関わることなく、ルカーシュ殿下の話は進んでいく。
「国王陛下は、異質な魔力の持ち主こそがこの不具合を解消するヒントになると思ってきました。呪いのようなものにかかった魔法を救い、王族が空から降りても存続していける体質を手にできるのではと」
悦に入って話すルカーシュ殿下にだれも口を挟まない。
「――だが、私はリトゥス王国はこのままでいいと思っています。魔法を使うのは我が一族だけでいいし、ずっと空の上で暮らせばいい。この街もダミーとして繁栄すればいいと思うし、空の上にいる間は他国からの侵略は受けない。十分だ。そのために、あなた――フィオナ王女が邪魔だと思ったんです」
夜会直前。ルカーシュ殿下が私を一人で呼び出そうとした理由がわかった気がする。シルヴィア王女の娘だからではない。国政に関する駆け引きに使えるからでもない。
――何事もなく、これまでと変わらない未来を歩んでいくために、邪魔な私を殺そうとしたんだ。
レイナルド様が持っていた剣を、ルカーシュ殿下が無言で取り戻そうとする。けれど、レイナルド様はそれを離さない。掴んでいた部分が刃先まで滑り、手袋が切れて鮮血が滴り落ちた。
嫌。もうこれ以上、彼が傷つくところを見たくない。
「レイナルド!」
クライド様がこちらに来ようとしているけれど、何人もの兵士に阻まれてこちらには来られない。レイナルド様の名前を叫ぶミア様の声と、大切な人を傷つけられた怒りが私を包んでいく。
お行儀良くしていたって、大切な人は救えない。こんな風に、迷っているうちに手遅れになる。それは、私のこれまでの人生で嫌というほど思い知ってきた事実そのもので。
土砂降りの雨の中、視界が滲んでいるのが雨のせいなのか涙のせいなのかわからない。怒りにまかせて、私はその呪文を唱えた。
《――水龍を呼べ》