9.秘密のアトリエ
「……うん、こんなものかな」
薬草園の一角、ハーブの植え替えを終えた私は土だらけの手でおでこを擦った。ちょっと疲れたけれど、風にそよぐ薬草たちを見ていると心が凪ぐ。
「これとこれを隣同士に植えると、素材の質が上がるのよね。それから、よく使うフェンネルは一番日当たりのいい場所に……」
いろいろと考えながら作業するのは本当に楽しくて、気がつくとあっという間に時間が過ぎていく。スウィントン魔法伯家に籠っていたときと同じ環境で働けてしかも楽しいなんて、お兄様には本当に感謝しかない。
「そうだわ。厨房の方もここのハーブを使うのよね。料理に使われることが多いタイムやローズマリーの質を上げれば、王族や王宮で働く人たちの体調を良くしてあげられるかもしれない」
今度、薬草の質を上げる肥料のようなポーションを作ろう。この土に合うものを作りたいから、土をひとすくい持って帰ろう。タイムとローズマリーの葉も少し。
エプロンのポケットから小さな紙袋を取り出して採取していると、びゅうと強い風が吹いた。その拍子に、被っていた帽子が飛んで、ころころと転がっていく。
「あっ……待って……!」
あわてて追いかけたけれど、帽子はどんどん遠ざかる。走り慣れていないので、我ながら足が遅い。
気がついたときには、薬草園の一番奥まで来てしまっていた。息が苦しくて、なんとか呼吸を整える。そして顔を上げて目の前の光景に驚いた。
「なんて……素敵な場所なの」
そこにあったのは、かわいい家だった。ううん、家というよりはまるでアトリエみたいな。カラフルな煉瓦でできた壁と、とんがった屋根。半地下方式の三階建てなのは、錬金術に適しているように思えた。
もしかして、本当に誰かのアトリエなのかもしれない。
周りを見回してみると、この家専用の薬草畑が広がっていた。お手入れもきちんとされていて、温室まである。
「すごいわ……どなたのものなのかしら」
ひとしきり感動した後で、私は思い至った。
「そうだわ、帽子!」
きょろきょろと見回すと、帽子はかわいい家のところにそびえ立つ大木に引っかかっていた。どうしよう。絶対に届かない。
「……」
もう一度、周囲を見回す。誰もいない。帽子を追いかけている間に相当遠くまで来てしまったらしく、ネイトさんも見当たらなかった。
これなら大丈夫、そう思った私は小声で呪文を唱えた。
「≪風を起こせ≫」
すると、つむじ風が起きて木に引っかかった帽子を直撃する。帽子は枝から外れて、ふわりと私の手元に落ちてきた。
「……よかった」
このアトリエとお庭は素敵だけれど、長居してはいけない。いつの間にか門を越えてきてしまっているのも申し訳ない。とにかく薬草園に戻ろう、そう思ったとき。
「あれ、今のって錬金術じゃなくて魔法?」
聞こえた声に、心臓が跳ね上がった。言葉の意味を把握する前に、足ががくがくと震える。逃げ出したい。というか、気絶してしまいたい。でもそれは出来ない。
だって、声の主が私の予想通りのお方だったら、きちんとご挨拶をしなくては不敬になる。私は、自分の予測が間違っていることを祈りながらゆっくりと振り返った。
見えたのは青みがかった黒髪を持つ青年。私の記憶の中にあるのと同じで、恐ろしく美しい顔立ちをされていらっしゃる。透き通った空色の瞳は、特別な生成に使う石のアクアマリンみたいだと思った。
「君が使えるのって、錬金術じゃなくて魔法…?」
同じ問いを二度されたことに気がついて、私は固まる。今この方は魔法って仰った……? つまり、今の風魔法を見られていたということだ。否定しなければ、と思うのに言葉がすんなり出てこない。
「ち、ちちち……」
「ちちちち?」
今、私の顔色は間違いなく真っ青ではなく真っ白だと思う。だってこの方は。
「レ、レイナルド殿下。ご……ご機嫌麗しく存じます」
否定の前に挨拶だった。なんとか淑女の礼をすると、彼は少し面倒そうに首を傾げた。
「いいよ、ここではそんなに畏まらなくて」
「あ、あの」
「それよりも、今のって魔法では?」
高貴な方に向かってしつこい、と思ってしまったのは秘密。挨拶と心の中のつっこみのおかげで声帯が復活した私は、口を開いた。
「い、いいいえ錬金術……です」
「本当に? ……まぁ、そんなわけないか。魔法はこの世界から消えたんだもんな」
私はひたすらこくこくと頷く。
彼は、レイナルド・クリス・ファルネーゼ。このアルヴェール王国の王太子で、当然この王宮にお住まいの方でいらっしゃる。
私とレイナルド殿下は王立アカデミーの同級生だった。親しく会話を交わした覚えはないけれど、お互いの顔は知っている。でも、今の私には認識阻害ポーションがついている。だから彼に私だとわかるはずがない。だから、安心して話していい。
「でも、やっぱり魔力の気配がある。今ここで何かを生成していたの?」
大変!
わずか一瞬で窮地に陥った私は、エプロンのポケットに手をつっこんだ。さっき紙袋に入れたばかりの土と少量の葉があった。そこで、ごそごそする。
「ひっ……ひひひ肥料を!」
「ひひひひりょう?」
ごそごそし終わった私はこくこくと頷きながら、うつむいて両手を前に差し出した。どうしよう。これ以上喋れない。
私の両手の上には、たった今即席で作った肥料が乗っている。ポケットの中で土と葉にほんの少しの魔力を混ぜて発酵させ、簡単な肥料にしたのだ。
鑑定をされると少しめんどうなことになるけれど、今、この場で見せるだけなら問題ない。
「見せて」
「は……はい」
さらに両手を前に差し出すと、彼の手が肥料をつまむ気配がする。気絶寸前の私は、空気を吐くことに専念した。吐けばきっと吸える。人間ってそういうもの。
「ほんとだ、肥料だね、これ。今、ここで君が作ったの? 本当に?」
「はい」
よかった、ごまかせたみたいでほっとする。けれど、彼は私の返答に目を丸くした。
「すごい。これって、少量でかなり高い効果を発揮するものだね。しかも向こうの薬草園の土に合わせて作ってあるんだ? ローズマリーやタイムなんかの質を上げつつ生産量を増やす肥料か。工房の道具を使わずにここで作るなんて」
全然ごまかせてなかった!
魔法が使えることはばれなかったけれど、錬金術が得意なことは知られてしまった。鑑定されなければ大丈夫だと思ったのに。
というか、レイナルド殿下がこんなに魔法や錬金術に興味を示すなんて、予想外過ぎる。一体これはどういうことなの……!