【序章】ー勇者アイリスー
ガツン……。
それは例えるならそう、額をハンマーで殴打されたような衝撃だった。
彼女と視線が交わった瞬間に打ち抜かれたかのように錯覚したのだ。
彼女の存在はそれほどの衝撃を私に齎した。
そしてその衝撃は私の脳を揺さぶり、波となって全身を駆け抜けた。全身を廻る血液が沸騰しているかのように体温の上昇させ、私の動悸を乱れさせた。
自身の身体に明らかな異常事態が起こっている事が分かる。
その変化についていけず、私はただただ狼狽えていた。
今まで戦闘中にここまで慌てふためくことなどなかった。仮に本当にハンマーで私の頭を粉砕されたとしても今よりは幾分か落ち着いて対処できるはずだ。
今、この瞬間をもって私の思考は霧散した。私がここに訪れた理由や準備したいた計略などは、彼女という存在によって全て忘却の彼方に吹き飛ばされていった。
「「キレイ…」」
気づいたら口から本心がこぼれ落ちていた。
初めて誰かを美しいと思った。
その肢体はしなやかに伸びており、すらりとした手足はまるで陶器のように白く透き通っていてとても艶かしい。そしてその絹のような美しい肌を蒼黒の鱗が覆っている。それはさながら全身に宝石を散りばめていると見紛うほどに彼女を輝かせていた。その鱗自体は落ち着いた色彩であるため決して悪趣味にはなっておらず、彼女の白い肌とのコントラストがその魅力をより一層深めていた。
彼女のサラサラと真っ直ぐに伸びた長い髪もとても印象的だ。闇よりも深い藍色でとても綺麗だ。手を梳いてみたい。そんな彼女の頭からは気高くまっすぐに伸びたツノが2本生えていた。そのツノは黒曜石に勝るとも劣らないほど艶やかに輝いていた。
なにより目を奪われたのは彼女の瞳だ。深紅に輝くその瞳には怯えと迷いが宿っていた。だけど同時に強い決意も見て取れた。その気高い瞳に目を奪われて離せない。
どうやら私は彼女に惹かれているらしい。そのことに喜び、そして同時に少し悔いる。
自分が誰かに好意を抱くことなんて絶対にないと思っていた。だからこそこの気持ちが嬉しい。だけどきっとこの世界は私が誰かに好意を寄せたとしてそれを許すほど甘くはないだろう。
誰も祝福を授けてはくれない。
きっと目的を果たすためにこの気持ちは殺さなければいけないのだろう。いつものように。
この事について深く考えるのは危険だ。余計なことを考えている余裕など今の私にはないのだから。
無理矢理に思考を中断し、目の前の事柄に集中する。
彼女に反応がないことを見るに先刻の独白は聞かれていなかったようだ。
そのことにそっと安堵し、胸をなでおろす。
気を取り直し彼女に向き直り声をかける。
「……観念して、魔王」
そう。私には彼女を利用してでも成し遂げなければいけないことがあるのだ。
その為にもまずは言葉を交わしてみようと思う。
目の前に立つ美しい女性はかの邪智暴虐の魔王だ。人と友好的な対話を良しとするとは考えられないがとにかく話しかけてみる。
友好の基本は対話である。と、誰かが言っていた気がする。
魔王と交渉するためには先ず私が彼女にとって無視できない存在であることを知ってもらう必要があるだろう。
今彼女は神聖皇国とその他多くの人族が編成した討伐軍によって首都を包囲されているのだ。私と交渉をすることは彼女にとっても無意味では無いと思う。その事を彼女に伝えようと思う。大丈夫、私は交渉ごとは得意なつもりだ。
そんな私の言葉に対し彼女は
「それは私の台詞よ。貴様こそ観念するがいい。勇者よ」
想定内の返答だ。
やはり魔族の王ともなると人に歩み寄る気は無いのかも知れない。
伝え聞く話では彼女は人肉を何より好み、晩餐に人の臓物を食らうという。らしい。だけどその話が本当なのだとしたら私にもできることがある。
私のお肉を定期的に食べても良いと言ったら彼女は私の話を聞いてくれるだろうか?
とりあえず会話を進めてみよう。
「そう」
「決着をつける前に一つだけ良いか?」
どうしたのだろう?
「なに?」
「何故貴様は一人なのだ?仲間はどうした?我等を殲滅すべく派遣された軍隊はどうしたのだ?」
軍が仲間?この人は何を言っているのだろう?
私には仲間など一人もいない。
それに軍が介入してきては私自身の目的が果たせない。
それは本末転倒というものだ。
「必要ない。これは私が一人で成すべきこと」
「そう…か。ならばこれ以上は問うまい。この私を前に一人で姿を見せた事を後悔しながら…死ね!!」
そう彼女は宣言し、傍に刺してあった両刃の大剣を手に取る。
その所作からも気品が感じられ、私は見入ってしまう。
その為か初動に対し、反応が少しばかり遅れてしまった。
彼女は魔族の王と呼ばれるだけあってかなり強い。
もともと魔族は人族に比べて高い身体能力を有しているが、彼女のそれは他と比べても抜きん出ている。
彼女の振るう剣戟は圧倒的な力を持って私を蹂躙せんと襲いかかってくる。ならば私も私にしか出来ない方法で彼女を組み伏せよう。
(肉を切らせて、骨を断つか)
そう考え、私はなんとか彼女の太刀筋を往なして耐え忍ぶ。機を待つために。やがて彼女が焦れて、攻撃が大振りになったタイミングを見て私はあえて隙をつくった。
攻撃を往なしきれずに、私の剣が弾かれたように見せると彼女はまんまと私の胴に切り込んできた。しかし予想よりも彼女が力を抑えたように見えたため、自分から彼女の大剣に飛び込んでみせた。
それは彼女から見ると異様な光景だっただろう。
自ら斬られに行くなんて狂気の沙汰ではないのだろうから。
彼女の大剣が私の胴を切り裂く。臓物が切断され、直後に焼けるような痛みが私を襲う。だけど私は表情を崩さない。その痛みには慣れているから。
私が務めて無表情でいると彼女は呆気にとられていたが、やがて苦悶に歪んだ表情を見せた。
それが少し不思議だった。何故彼女が苦しそうな顔をするのか全然わからなかった。だけど彼女のその表情は不思議と私の心に温かい何かを届けてくれた。
そんなことを考えながらも私の体はいつの間にか彼女を地面に組み伏せていた。
彼女は私のお腹に目をやり、数秒後私に向き直り降伏を宣言した。
「参った。私の敗けだ」
素直に敗けを認める彼女の潔さに好感を覚えながら、安堵していた私の返答は少しそっけないものになってしまった。
「そう」
彼女は少しの間逡巡し、私にこう切り出した。
「私の首を最後に…もう同族に手を出さんと約束してくれんか?」
その言葉はどこまでも私を混乱させた。
私は目的の障害となるものならなんでも排除するつもりではある。しかし現在のところ魔族は障害どころか、私にとって無くてはならない存在だ。なので私は彼女に対し端的に答えた。
「その必要はない」
どうやらお互いの認識に齟齬があるようだ。
ここは彼女の誤解を解く必要がある。
そもそもの話
「私は貴女を殺さない」
「へ?」
私の考えを聞いた彼女はなんとも間抜けで可愛らしい声を漏らした。
こんな可愛い声が聴けるならもっと彼女のことを苛めたくなってしまう。
そんな邪なことを考えていると彼女が困惑の表情で尋ねてくる。
「き、聞き違いかな?貴様は私を殺しにきたのだろう?」
今度は私が困惑する番だった。
「そんなつもりはない。私は話をしにきた」
実際彼女には話さなければいけないことが山ほどある。
すると彼女の表情がいよいよ怒りに歪んだ。
「その手にはのらん!そうやって貴様等は我々を謀ってきた!私達はもう騙されない!さぁ殺すなら一思いに殺せ!」
そう言い切る彼女を見ながら私は美人は怒った顔も美人だな、とやや見当外れなことを考えていた。しかしこれは困った。どうすれば彼女に私には敵意がないことを伝えることができるだろう。
そういえば昔読んだ本にドラゴンを手懐けるには根気強く好意を示す他ないと書いてあったな。一応彼女にもドラゴンの血が流れていると思う。ならば私にできることは…と考え、一つ思いついた事を試すことにする。
彼女に顔を寄せ、その柔らな唇を啄む。
「ンッ…」
彼女の艶やかな声に当てられ、血が沸騰するのを感じる。彼女の頬もまた朱に染まっている。
「これで私に敵意がないとわかってもらえた?」
「へ?」
少し間抜けな彼女の反応も愛しく思えた。しかし私はここにきた目的を果たさねばならない。
情に流され、目的を遂行できなくなってしまっては意味がない。
気を引き締めて、彼女に声をかける。
「魔王」
「え?なに?っていうか今の私のファース……」
「私と結婚しよう」
「え?け、けっこ?って、えええええええええええええええ?!」
こうして私、勇者アイリスはその日初めて巡り合った名も知らぬ魔王に求婚したのだった。
次回から本編が始まります。
この序章の続きが気になる方は是非読んでみてください。
基本的にはリリス視点でお届けします。