第五項 狂った恥の概念
前回の項ではいじめをするには正統性が必要であるという話でした。
つまり集団からの一定の支持が必要でありその時善悪の価値観、その基準から
外れすぎると支持が得に難くなるという事です。
現状のいじめの内容の悪質さはこの善悪基準の酷さ、言ってしまえばモラルの低さが原因だと筆者は考えています。
ではその善悪基準はどの様に決まるのでしょうか?
子供というのは常に大人を見上げています。
ヒナが親鳥に習って飛ぶように子供たちは道徳や社会ルール、礼儀や気遣いを
大人から見習って学びます。
ここで大切なのは『子供は見て欲しく無い時も大人を見ている』という事です。
大人が『この良い部分だけを見習って欲しい』と思っても子供はそれ以外の部分も見ます、見えますから当然ですね。
大人が子供を意識している時は恰好の良い言葉選びをしますし、道徳においても正解を伝えます。
ですが意識していない時はどうでしょうか?僕達大人はどの様なお手本になっているのでしょうか?
いじめに対する善悪観、その基準に的を絞って考えて行きます。
子供を意識している時は大人は『いじめはダメ、いじめとかは絶対に許さない』と
ヒューマニスティックな事を言いますが、意識していない時はどうでしょうか?
筆者が違和感を感じているのはこの部分です。
建て前は『いじめは悪い事、絶対にやっちゃいけない』ですが、
大人達から伝わってくる意識がもう一つあります。
それは『いじめられてたの?ああ、残念な子だね、恥ずかしい事だね』と言う軽蔑と見下しの感情です。
今の社会ではその感覚が全体に浸透している様な気がします。
つまり、今の社会ではいじめをしている側よりされている側の方が
『恥ずかしい』または『残念な奴』と見られている様に感じます。
これは『いじめは絶対にやっちゃいけない事』という正義感と矛盾するものではないでしょうか?
「筆者の思い違いで本当はそんな事無いんじゃない?」と考える方もいらっしゃるでしょう、実際この辺りは人それぞれの感覚の部分ですから筆者の想像に依るところも多い様に思います。一つ筆者が体験した実例を書いておきます。筆者が久々に会った学生時代の友人の話です。
筆者の学生時代の友人は僕の知り合いの話をしていた時に、「でもあの子さ、前の学校でいじめられてたんだよ?」とどちらかと言うといじめられていた側を蔑んでいる様な口振りでした。
その友人は悪気無く話していました。
実際いじめに進んで加担する様な友人でも無く、
基本的で最低限の善悪を感覚として理解している友人だと筆者は見ています。
そんな人物であっても『いじめられていた人間は残念な奴』という意識があったという一例です。
一つの例、一人の例に過ぎませんがこの感覚が社会全体に行き届いている様に筆者は感じています。
もし、筆者の見立て通り社会全体にその感覚があるのなら、
いじめが無くなり難い要因として実に大きな弊害であり、
言い換えればいじめをし易い大きな手助けになっているのではないでしょうか?
子供はその感覚、言い回しのニュアンスも感じ取っています。
大人はなりたくない時も子供のお手本になり得る、というよりは間違いなくこれまで実際になって来た筈です。
この社会全体の、大人全体の感覚を変える事で『いじめのし易さ』は薄くなり、
逆に大人全体がハッキリといじめに対しての嫌悪感を持てば『いじめのし難さ』に変わる可能性があると筆者は考えます。
これは、「只何となくそんな良い影響があるんじゃないか?」という見立てでは無く、実際に効果がある物だと筆者は考えています。何故なら社会全体の善悪基準が変われば子供達の間で善悪基準の踏み越えてはいけないラインも変わり、そのラインを越えれば異常者、集団に於いての危険人物と成りかねないからです。
勿論、最後に目指すのはいじめ行為そのものが社会全体として恥ずかしい物になり
子供たちの間で、いじめを始めた途端に加害者が非難の目で見られる事が目標となりますが、まずは順を追って変えていく事を目指したいと思います。
さて、社会のいじめに対する価値観が少しづつズレて来ているのでは?
という話でした。このズレを変えていきたいのですが、とても難しい事だと思います。人様の価値観を変えようというのですから当然でしょう。
そして変えたいのは『いじめなんてよくある事だよ、放っとけば良いんだ』『いじめられた子にも原因がある』というそれなりに聞こえる理屈や感覚からいじめに対するハッキリとした嫌悪感に変える事だからです。
この嫌悪感を生み出す可能性として筆者が考えたのが、
社会に於ける『いじめ』が及ぼす作用の整理です。
その作業の必要性を主張したいと思います。
次項にて考察していきたいと思います。