第四項 善悪の中の加害者達
いじめをしている人間は、常にヒーローでなければいけません。
それはいじめをしている人間にとって実に切実な制限です。
日本という国は幸か不幸か『善人でなければ息も出来ない』という国です。
嫌な言い方で書きましたが、別に捻た考え方をせずとも、
要するに道徳がちゃんと染みついた国、という事だと思います。一応は、ですが。
つまりその元々ある制限の中でいじめっ子も生きています。
制限はあり、言い換えれば加害者達はそのルールの中でいじめをしているのであり
そのルールから外れる事は加害者にとって本来は不利益です。
いじめ行為とは実は常に正しくなくてはいけない、そういう制限があります。
ここまで書きますと筆者の見方に強く不信感を感じる方が多いかと思います。
「いじめをしている時点でどう考えても善人じゃないだろう?
いじめがまかり通っている現場では誰も善人かどうかなんて気にしていないんじゃないのか?」
「そもそもDQN(分かりやすく言うといわゆる悪ぶった不良ですね)は
そんな事気にしていない連中だろう?」と
筆者の見立てをもう少し説明させて頂きます。
社会は善悪の基準をある程度共有しています。
時折出されるのは次の様なクイズです。
・ある人物が自分の欲求を満たす為に何人かの人物を殺害しました。その殺人者は悪い人でしょうか?それとも良い人でしょうか?
その答えを求められると大抵の人が「悪い人だ」と、正解を答えます。
この例に出した問題に答えられない人、正解できない人は、
頭がおかしいヤバい奴、と皆から判断されます。
仮にいじめ加害者であったとしても、この問題に答えれなかった場合は、
ヤバい奴、であり社会にとって只の危険人物です。
ヤバい奴と言うのは、言い換えれば『恥ずかしい奴』です。
善悪の基準にはモデルもあります。
いわゆるヒーローと言われる人の存在です。
例えば、国民が愛するアニメやマンガ、TVドラマの主人公など、彼ら、彼女らは正しく優しく描かれています。有難い事です。これは沢山の人にとって子供時代に好きな物(共有)になりますから。否定し難い存在であり、うっかりすると『恥ずかしい奴』になりかねません。
実在の人物でも沢山の人の命を救った人、また命を救う結果に繋がる研究を成し得た人などが善悪に於いて大抵は正解を答えると思います。仮に答えれなければ避難されるでしょうね。これらの人物たちを良し、としない人物はやはりヤバい奴と判断され易いでしょう。
いじめっ子達もこれらの『善悪の認識の共有』を意識して立ち回らなくてはいけません。彼らも最後の最後は正解しなければいけない状況になります。
では何故いじめはそんな制限の中で成立しうるのか?を考えて行きます。
彼らも前述したように立ち回りを意識し、実践しています。
その立ち回りの手法はある種単純で一つのパターンに頼られています。
それは被害者を徹底的に貶める、という手法です。
善悪の基準に於いて被害者が悪いと証明できれば加害者にとって
これ程安全な状況はありません。
ではどの様に加害者達が実践しているのか例を挙げて考えて行きます。
その前に、一つの理屈を想像します。
・様々な理屈を用いる(主に協調性の無さを責める)
協調性とはつまり他者及び集団全体を思いやり、その為に行動、言動する姿勢だと
多くの人に認識されています。
つまり協調性を見せるという事は時として集団を思いやる姿勢と認識されています。あながち間違ってはいませんが気をつけるべきは、なるべく集団を思いやるという事で、集団の作り出した空気に反してはいけない訳でも無く、自分の主張を口に出した瞬間、優しく無い奴という訳でも無く、ましてや集団が個の考えや感情を蔑ろにして良いという訳ではありません。
ですがこの協調性という物の極端で乱暴な解釈により
集団の言う事を聞かない奴、集団の空気に一瞬でも違和感を生み出した奴、は悪い奴。『協調性の無い奴=優しく無い奴』という理屈が子供たちの中で成立する場合があります。
この理屈を踏まえて主だった手法を想像していきたいと思います。
・加害者に恥をかかす。
これは手法として多い様に感じます。
例えば被害者が何かを失敗した場合は殊更それを強調するでしょう。
集団は失敗した人物を恥ずかしい奴と認識しますし、同時にその失敗によっていじめ被害者がその場の全員に迷惑をかける可能性がある事を示唆し、仄めかす事で、その可能性や些細な不利益を強調する事でしょう。いじめ被害者の失敗はマイナス面を強調し、それ以外の人間の失敗は軽く扱い冗談にして笑います。
こうすればその集団にいじめ被害者は『全体に迷惑をかける悪い奴だ』という認識を植え付ける事が出来、同時にそれ以外の人間が必要以上に許される事になります。(一見すると被害者以外の人間が得をしているように見えますが、本来は小さな失敗など笑い合えば良いだけで押し付け合う必要などありません。全体の空気感で考えれば明らかに生活し難くなっています。得をしているのはいじめ加害者のみです)この辺りは下劣な演出力によって被害者を悪者にする事が出来ます。
加害者がいじめ被害者を攻め立てる時に大事なのは冗談を用いる事です。これは加害者が善人で居られるように立ち回るのに重要なポイントでしょう。普段、友人同士が仲間内の失敗話を冗談にして慰めたり励ましたりする事があったりしますが、そのいじめ被害者の失敗を加害者が笑う事は悪意を持って行われても冗談として扱われます。何故なら加害者が振舞うからです。「只の冗談じゃん」と言う様に、その被害者を馬鹿にする行為と冗談は姿形が似て見えるという事でしょう。
ここでは協調性の無さを同時に責める事で加害者は被害者の正統性の無さを主張し、同時に加害者自身の正統性を確保しようとします。
「只の冗談なのに何でそんなに怒ってんの?
あーあ、俺達しらけちゃったよな?(協調性の無い奴=優しく無い)
(こいつ優しく無い奴だよな?)」という理屈を生みます。
いわゆるDQNと言われる様な人物も「俺らスッゲー機嫌悪くなっちゃったよ!」
等と口にするのはこの辺の理屈を脅しに使っているからです。
つまり恥を掻いたダメな奴、そして協調性の無い=優しさの無い奴、
という二つのレッテルを同時に張っている事になります。
恥を掻かないなら作り出せば済みます。その手法は幾らでもありますし
何となく想像し易い物の様な気がしますので割愛させて頂きます。(書いて欲しい方は教えてください)
逆に言えば恥を掻いて貰わなければ正統性を主張出来ません。
だから時として不必要と思える嫌がらせをして恥を掻かせようとする事があります。
「いじめられている子が優しく無いなんて理屈は無茶苦茶じゃないか!?」
という声が聞こえてきそうですし、その感覚は至極正しいものだと筆者個人も思います。ですがこれは加害者達が用いているツール(道具)であり、
往々にして本気で信じ込まれている狂った理屈であり、その事実だと想像します。
事実であるならその狂った事実への対処が必要です。
そして、加害者達のいじめ行為の正統性の主張を手助けしている存在があります。
筆者はこの点を重く考えております。次項にて書かせて頂きます。
次項は『狂った恥の概念』になります。
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四項までのあとがき
ここまでのエッセイで、いじめ加害者の心情を書きましたが
もし、いじめ被害者の方が読んだら落ち込む様な、怒りを感じる様な内容に
なったかも知れません。ですが以前にも書きましたように
『いじめ自体に心を消耗させる価値は有りません』。
理屈だけを淡々と描くのは冷たいようですが胸に留めておいて欲しいです。
とは言え、いじめに依って様々なものを奪われた事実は確かに在り
理屈では到底納得できるものではないと思います。
筆者が申し上げたいのはいじめの存在に対して感情的になり過ぎて
不利にならない様に気をつけて欲しいと言う事です。
本エッセイに書き上げた文章の中にいじめ加害者の心情を書かせて頂きましたが、それは同時にいじめ加害者達の恥じになりかねません。その点に共感してくれた読者の方がいるかも知れませんが、その部分を暴く事で現場のいじめ被害が軽くなるかは微妙な所です。あくまで第三者が共有する事を目的としていますので、いじめ加害者へ本エッセイで書いた理屈を突き付けるのは冷静になってから良く考えてからにして下さい。
本エッセイはある種冷淡に、冷酷に、いじめという存在に対処する事を目指しています。
今はまだ、自分の考えを書く事で第三者に向けた提案という形になります。
この形が一段落するまでしばらく時間が掛かりますが、
被害者の方に向けたエッセイも制作していきたいと思います。
最後は被害者の方に希望が見つかるべきだと思いますし、
その部分で僕を含めたこの社会全体の『恥じ』は問われています。
どれだけ力になれるか分かりませんが努めさせて頂きたいと思います。
本エッセイでは現状の想定が多く行われていますが、筆者の不勉強、甘い見立てにより狭い範囲に留まっている場合があります。もし気になった方は活動報告等で教えて下さい、説明もしくは修正、書き足しを行っていきたいと思います。