第一項 いじめは無くすべきか否か
・いじめを無くすという事
先ずここを整理します。
世の中には「いじめなんてよくある事だよ、そういうのを経て色んな人間関係を学ぶものだ。いじめがあって人間関係を学ぶ、ある種健全な事なんだよ。第三者が介入する必要なんか無い、
放っとけば良いんだ」という考えの人が一定数いる様に思います。
筆者はこの考えに賛同しますし、この考えを否定する者です。下に詳しく書いていきます。
筆者の考えでは、いじめを右端から左端まで残らず第三者が解決するというのは間違いだと思います。
第三者の介入が不要ないじめとは、『帰りの会』で線引きが出来ます。『ホームルーム』という言い方をする学校もあるのでしょうか?とにかく生徒がいじめを見つけて教師に知らせる、もしくは教師が現場を見つける事で教師がその事実を知り、教室で生徒全員に教師が指導をする。
ここで解決できるものが『健全』の範囲内であり、
第三者の介入不要ないじめに該当します。当人達で解決出来る状況、
ここまでが言ってしまえば無くす必要の無いいじめです。「やられたらやり返してやれば良いんだよ!根性見せてみろ!」と言って良いのはここまでの筈です。
一方、大人がいじめはダメだと諭しても聞かず、モラルや道徳という物を嘲笑して
自分の損得=物事の善悪と理解して生きている子供もいるのが事実です。
そうなるといじめを止める理由は無く歯止めも効かず、
その内容も過酷であり、陰湿、巧妙な手口へ変わります。こうなると当人達では解決不可能。ましてや被害者にはどうする事も出来ません。
「いや、自分で何とか出来るかも、少し位は可能性があるかも」
と言い続けるのは不毛であり、ちっぽけ過ぎる可能性を被害者に試させ続ければ、
失敗する度に自分自身を責めて自信を無くしていきます。自信というのは誰にとっても消耗品です、自分でやってみるのも本人に任せるのも時に大事な事ですがいじめの内容によっては早めに割り切って逃げる、逃がすという判断も必要な筈です。
ですが、時として唯一と思われる『逃げ』という解決策はやはり歪な、本来間違った解決策です。何故なら不当に被害者の学ぶ機会と学校生活を奪う結果になっているからです。
この辺りが第三者が介入すべき『不健全』ないじめであり、深刻な社会問題に該当します。
『いじめられた子にも原因がある』、『いじめられたら、やり返せば良いんだよ。俺はそうしたよ?』等の理屈に強い違和感が感じられるのはこの線引きの曖昧さが引き起こしているものと考えられます。
線引きが曖昧なせいで、本人達だけで解決不可能なレベルのいじめも一括りにして、過去の解決方法を持ち出して他者にも安易に当てはめて、本人の努力不足と結論を出してしまいます。
ですがそれは大雑把過ぎます。千差万別、それぞれのいじめ被害は度合いが違いますし、その状況も多種多様です。
酷いいじめを受けた経験者の『俺は耐えたのに...』という感情は分からなくも無いですが、その人はあなたではありませんよ?と言ってあげたいです。
その目の前の被害者にはあなたに無い弱みが有ります。ですが今表立って見えなくても、今本人が気付いていなくても他者には無い強みを隠し持っています。その強みが多種多様な状況に噛み合うかどうかは良くも悪くも『運』です。
いじめ被害を耐えた人達の運が良かったとは言いません、ですが今の被害者、今被害を引きずって生きる人達の過酷さも想像して欲しいと思います。
ここまでがいじめには線引きが必要という話になります。
言い換えればいじめにはピンからキリまであるという内容です。
「じゃあ自分が今受けているいじめはキリなのかよ?」という被害者の方が読んでいるかも知れませんが、今回は最も深刻な例を想定してエッセイを書き、尚且つ被害者の為というよりは第三者に向けた物になります。
深刻な物から順を追って考えて行くつもりです、その過程で何か参考になりそうな文章があったら活用して下さい。
いじめ当事者に向けたエッセイという物も近日投稿する予定です。なるべく早く投稿出来る様に考えていますが、難しい内容ですので少しだけお待たせすると思います。
本エッセイは当人達では解決不可能ないじめに焦点を当てて解決策を模索していく物となります。