五話
私はその報せに大いに喜びました。
ただでさえ私をこの世界から追いやった張本人が、この数日は私をつけ回していたのです。そんな生活が何年間も、最低でも学年が上がるまでは続くのではないか、と先を見ても絶望しか無かった私にはこの上ない吉報でした。
私の心晴れ渡る思いはより良い笑顔のスパイスとなり、愛想と偽善の仮面はより一層確実なものとなっていきました。
川田真琴の引っ越しまであと一週間というところでしょうか。
彼女の不可解な奇行は期日が近づくにつれて徐々にエスカレートしていきました。晴れやかでいられた心は次第に雲が立ち込めるようになっていき、いよいよ周囲の人間達の気づく頃になりました。
廊下に出る時、彼女は私の隣を歩くことはありません。しかし、私の背後一、二メートル程の距離を付かず離れずでひたすらについて来るのです。
これには彼女の異常性に気づいた周囲もあれやこれやと噂を立てるようになります。
子供だけのコミュニティというのは厄介なことが多く、その一つに、噂が立つと根も葉もないほどに誇張されがちという点があります。また、子供の頃というのはそういった噂話に自分が対象となることを極端に嫌がります。
私も大衆と同じく、自分が標的になることを好まない人間でしたが、唯一違うことは私は噂に対して無視という姿勢を取ったことです。
意地もありました。
私は何もやましいことなどないのだから、こんな噂を意に介する必要性はないと。そして、根も葉もない噂もどうせ長くは続かないとも考えていました。
事実、その考えは正しかったようで私の噂は通常よりも断然早い期間で下火になっていきましたが、噂というのはより悪趣味な方向へと最後まで変化していくものです。
「川田真琴と付き合ってるんじゃないのか?」
教室で誰かが言いました。
その言葉を聞いた途端、私の中の全ての血が遡ったような感覚に陥りました。
本人は軽い憶測から出た言葉のつもりでしょう。しかし、私は好奇を彼女に寄せたことなどは一切ありません。常日頃から向けていた負の感情でさえ噯にも出した覚えはありません。
彼女が一方的にこちらをつけ回し、認識の領域を土足で踏み荒らしているだけに過ぎないのです。それを付き合っていると言われるのは例え憶測であろうと耐え難い苦痛でした。
「違う」
私は衝動に流されて席を立ち上がり、きっぱり否定しました。すぐさま強い後悔が押し寄せました。
これまでどんな噂が立とうと無視を貫いていた私が今回ばかりは否定という反応を示したことによって、周囲はそれこそ水を得た魚のように活き活きと調子づき、噂の潤いを取り戻そうとします。
根拠の無い憶測吐いた者とそれを取り巻く親しくもない野次馬がこちらに雪崩込んで質問の嵐をぶつけてきます。
本当に付き合ってないのか。
何でいつも君の後ろにいるの。
あの子のどこが良いんだ。
いつから付き合ってるの。
「私は何も知りません」
寧ろ私が教え欲しいくらいなのです。彼女の考えることや奇行の原因など尋ねたこともないし、知りたいとも思いません。
ただ、私に付きまとう理由を知ることでその行動の一連を止められる、もしくは軽減できるのであればと思わないでもありません。
ですがそれを他人から追及されるのは、彼女と私の間に明確に特別な関係が出来上がっているということの暗示になっているようで、今すぐにでもこの噂が渦巻く場から逃げ出したい気分に駆られました。
「ねえ、あんたはどうなの」
新たに声を発したのはあの日川田真琴を虐めていた一人。そして、その質問は誰もが知りたいもので、誰もが聞きたい相手――川田真琴に向けられてでした。
「私は……」
急に標的が自分になったことで途端に顔を俯かせる彼女。
元々他人と殆ど話す場面は見たことがなく、話すことが得意では無いのでしょう。自分に好奇の視線が集まった途端に困ったような表情になり、横目で私を見るのです。
日頃助ける機会があればとは考えていましたが、この場で助けられる術を持ち合わせていませんでした。
彼女の助けを求めていたような視線は終には下を向き、返答を待っていた周囲の期待の沈黙には応えずに彼女は逃げるように教室を飛び出していきました。
私も彼女を追って外に出ました。
これもまた後悔が後に立った衝動的な行動でした。
ただ、なぜか彼女を追わないといけないような気がしたのです。