三話
私と蹲ったままの川田真琴。他に誰もいなくなった空間でようやく私の憎しみは追いつきました。
彼女を助けたこと、私の怒りの代行者がいなくなってしまったことに対する強い後悔が押し寄せ、今すぐにでもこの場から去りたいといい気持ちでいっぱいでした。
しかし、急激に萎んでいきながらも未だに息づく都合の良い正義感が彼女を見捨てるべきかと問いかけてくるのです。
まごついていた自分を手助けするように午後の授業開始の予鈴が流れ、これを機にと踵を返した私は僅かな引っかかりを感じました。といっても全くもって精神的なものではなく、彼女が私の服の裾を引っ張っていたのです。
怪訝に思いながらも、糸人形を繰る最後の一本の糸ようなこの手を無情に払う気にはなれず、向き直った私は彼女の手首を強く掴み、半ば強引に立ち上がらせようとしました。
脱力しきった彼女を持ち上げるほどの膂力はなく、その目論見は潰えましたが、再び彼女は顔を上げ私達は互いに目が合いました。
彼女は弱々しくも確かなまなざしで私を見つめていました。その目は裾を掴んだ腕のごとく私の存在に縋りつき、卑怯にも私の愚かな正義感を刺激してくるのです。
彼女から目を離せないまま、私の頭の中では大きな意識の変化が訪れました。
私が今まで憎んできた少女はこんなにも脆く儚いのか、と。新しい一面を知った後でこれまでと同じように彼女に怒りを向け続けることが出来なくなっていたのです。
彼女が私をこの世界から亡きものにした事実を忘れたわけではありません。自分にとっての彼女は憎むべき存在であるという意識が消えてなくなったわけでもありません。
ただ、彼女は特撮に現れるような根っからの悪人ではなく、況してや怪獣のような破壊の権化でもない。それを私が分かってしまっただけなのでしょう。
私はどうすればいいのでしょうか。
怒りも消えたわけではありません。ただ何も考えずぶつけるということができなくなっただけです。
だからといって、この怒りは風化させてしまうには新鮮であり、大き過ぎました。何かの拍子にぱっと消えてしまうような、消せてしまえるような都合の良い頭を持っているわけでもなく、今の間にも行き場なく膨れ上がり、苛立ちに変換されていきます。
この苛立ちを目の前の少女にどのように返してやるべきか。
彼女に怒りを抱いたのは私自身であり、それを無闇にぶつけるべきでないと自制もかけましたが、この怒りを自分で持ち続けたまま泣き寝入りするのは納得がいきませんでした。
どのような形にしてでも、彼女に返してやりたい。
しかし、臆病である私は相手が誰であれ、怒りを悟られること自体が恐怖でした。
私はもう一度しっかりと川田真琴を確認しました。
彼女は私がこんな怒りを抱えてることも知らず、くしゃくしゃな顔をしたまま正そうともせずに私に縋っています。今他に味方のいない彼女には私だけが頼れる存在なのでしょう。
それを理解した私は自然と笑みがこぼれました。
あれほどにまで私に害を成した人物であろうと、窮地に立たされれば一心に私を頼るためにすり寄ってくる。それに私は余裕ある立場から救いの手を差し伸べてやる。すると私にだけ、私のためにだけその表情をしてくれる。
ならば、私は彼女のこの醜態を引き出し続け、延々とそばで眺める。きっと、それが私の心の安寧になるはずなのです。
私は努めて優しく、老婆を労るように彼女に寄り添い、立ち上がらせようとします。
二度目ということもあってか、今度は素直に立ち上がり、彼女は涙を拭っていつものような存在感の欠けた起伏の静かな表情へと戻ります。
するりと私の横をすり抜けるように駆け、日溜まりの良い場所に抜けるとこちらに向き直りました。
彼女は少し難しそうな表情を浮かべたと思ったら、少しずつ口角が上げました。
そして、私の目をちらりと見てから「ありがとう」と、ぽろっと零したような声でそう告げて去っていきました。
私は新しく手に入れた仮面の心地に確かな満足を得ながら、後を追うように校舎へと戻りました。