二話
次の日、彼女は普通に登校してきました。彼女自身もまた昨日の出来事などまるで初めから無かったかのように振る舞うのです。
あれは夢だったのか、実際にあったことなのか、私自身でも分からなくなり、ついには堪らなくなって休憩時間に誰もいない場所へ彼女を呼びつけました。
「昨日はなんだったのか」
興奮していた私は言葉足らず、要領を得ない質問をしてしまいました。
彼女は少し困ったような顔をして首を傾げたまま、しばらく沈黙をしていました。
「昨日は、普通だったよ」
「何が」
最初は純粋な好奇心でした。しかし、一晩という時間は私に余計な考えを過ぎらせるには十分でした。
皆に認識されない別の世界にいたのは、彼女ではなく私自身なのではないか、と。
それを違うと証明してくれるのは他でもない彼女だけでしたが、その彼女が否定をしようものならば、私の考えは独りよがりな杞憂から事実に変わり、途端に私はこの世界から隔離され独りぼっちになってしまいます。
だからこそ彼女にはしっかりと、私のこの考えを下らないと一蹴してくれるような強い否定をして欲しかったのです。
なので、はぐらかされた私はどうすればいいか分かりませんでした。拳を強く握り、視線を下げながら次の言葉をひたすらに待ちました。
次の言葉を。次の言葉を。
いつまでも来ないそれを待ち続けて気がつけば休憩時間終了のチャイムが鳴り渡り、視線を上げると彼女はすでに消えていました。
彼女にここに来てくれと声をかけたのも、ここで質問をしたのも、幻の中の出来事だったのでしょうか。
私は自分を信じられなくなりました。
同時に私をこの世界から殺した仇として、川田真琴を憎むようになりました。
といっても、彼女を害するような行動を取ったり、嫌悪感を表に出すようなことはしませんでした。まだこの時は自身の内にある偽りの正義心をきつく信じていましたから。自制心もよく働いてくれました。
それから程なくして、風の噂で彼女があの日びしょ濡れだったのは裏庭の池に落ちたからだと知り、続けて虐めを受けているのだと知りました。
同情心はありませんでした。寧ろ憎むべき相手だと捉えていたので、ざまあみろとさえ思いました。
しかし、誰が虐めをしているのか。私も今回の件が無ければ彼女に対して負の感情を向けるどころか、存在をまともに認識することすらなかったでしょう。それほどに彼女はクラスにおいて目立たない存在だったのです。
そもそもの彼女が虐められるに至った原因は何か。当時も今も分かりません。
彼女が自ら他人を不快にさせる行動を取るとは考えづらく、自己主張の少ない彼女が虐められるきっかけとなったものは何か。ですが、考えても答えの出ないことなどもうどうでもよく、私の思いに共感した代行者が現れたのだと。その結果だけでも私の心は救われた思いでした。
私の正義に対する体裁は保たれたまま、彼女は罰を受けた。 いや、これは彼女の所業を天が見ていた当然の報い、謂わば天誅なのだと。自分の邪な考えは全て世界が赦し、その総意のもと彼女は裁かれている。そんなことを本気で考えていました。
今まで自分の正義を疑ったことない私はそれが都合の良い妄想であるとも思わず、自らを正当化することに関して私は匠とも呼べる域に達していました。
正義の代行者には感謝をしなければいけない。思い立った私は、しかし伝えるだけの勇気を持っているわけでもなく、せめて遠目にその姿だけでも見よう、と私は昼休みに消えがちな彼女を探すことにしました。
思いつく場所というのは限られていますが、昼休みといっても時間にしてしまえば二十分と短く、思い立ったが吉日と言わんばかりに躍起になっていた私の足は廊下であろうと歩くことを忘れていました。
彼女は見つかりました。校舎からは死角になっている体育館の側面で数人の少女に囲まれながら蹲る川田真琴。しかし、私はここで致命的なミスを犯してしまったのです。
私は彼女を見つけることに熱中しており、酸素濃度の薄くなった脳は足に込める力に拍車をかけました。
隠れて眺めるだけでよかったのに。私の意思とは裏腹に、勇んだ足は私を勢い良く表舞台へと押しやったのです。
突然に現れた自分に少女達は行動を止め、当然その視線は私に集まります。
やってしまった、と直後私は自分の行いを悔いましたが、やはり関心の熱はまだ失われておらず、私は彼女を見ました。彼女が俯いていた顔をゆっくりと上げた時、私は固まってしまったのです。
その充血した瞳からは絶えず涙が溢れ。
だらしなく開いた口からは声にならない声が漏れ。
しっとりと伸びていたはずの彼女の長髪はボサボサと統率を無くしていました。
彼女の惨状を見て、私は今までと同じ心持ちでいられませんでした。偽りの正義感は手のひらを返して暴走を始め、
「やめろ」
心にも思っていないようなことを本気で考えるだけでは飽き足らず、口に出してしまいました。
私の心にはいつまでも冷静な一面が自分にはあって、それは常に自分に理性と抑制を与えてくれていましたが、今回それは一切働いてくれず、ただ暴走する私を傍観するだけでした。
今まできちんと働いていたものが突然にその働きを無くすというのはとても恐ろしいものですが、そんな私の一部始終を外から眺めていた少女達は私の内心など知る由もなく、ただつまらなさそうに、あるいは苛立ちを混ぜ、互いに顔を見合わせて校舎の方へ走り去っていきました。