第七夜 「存じ上げています」「ご存じないはずよ」
テーマ曲は「マスカラまつげ」で
休日の朝、秘密裏に予約されたレストランの個室にユリアンは一人で向かった。
「付き添いの方をどうぞ」とは念を押されたが、結局あちらを信用して一人で行くことにした。
フロックコートを着こんで家を出ようとすると、母に呼び止められた。
「休日くらいゆっくりできないの、ユリアン」
「休日だからですよ、母さん。
いってきます」
いろいろ詮索されないうちにさっさと出る。
昼には早いので茶会になるだろうか。
そこらへんの手配はすべてあちらに任せた。
エスレーベン伯からの謝罪は警戒を解くには十分だったし、ユリアンももう警戒していないことを示すことによって、レギーナ嬢の婚約を祝福したいと思ったのだ。
なにか婚約のお祝いでも用意した方がよいのかと思ったのだが、エルザ嬢から「言葉で十分ですわ!」と言われた。
「なにか差し上げて、やっぱり互いに思い合っていたのだわ、なんて誤解を与えたらどうするのです! あなたどこまでへなちょこですの、ユリアン様!」というありがたいお言葉も頂戴した。
店に入り名を告げるとすぐに奥へと通された。
ウェイターが恭しく開いた扉をくぐると、エスレーベン嬢の他にがっしりとした体躯の柔和そうな青年がいる。
少しだけユリアンは驚いた。
突然決まった婚約だったので、勝手に地方領主などの後妻に行くことになったのでは、と思っていたのだ。
想像よりも二十は若い男性を見て頭を下げると、彼はその空気のままに柔らかな、けれどどこか複雑そうな微笑みを浮かべる。
「お待たせいたしました」
エスレーベン嬢は泣きそうな、そして緊張した顔をしていた。
いつもの流行りの青い縁取りメイクではなく、ちゃんと彼女の大きな瞳を愛らしく見せる自然なメイクをしている。
ずっとそうしていればよかったのに。
いつもならここで述べる褒め言葉を口にしないまま、ユリアンは引かれた椅子に着いた。
「……来てくださって、ありがとうございます」
切り出したのは青年だった。
「わたしはヒルデブレヒト・アロイジウス・クナウストと申します。
レギーナの、婚約者です」
「初めまして、クナウスト氏。
ユリアン・フォン・シャファトです」
「どうしても、最後にあなたとお話したいと、レギーナが言うのです」
そう言って少しだけ困った顔をしてエスレーベン嬢を見る瞳には、困惑以上に愛情が溢れている。
その様子を見てユリアンはふと思い出した。
「……あなたは、ハルデンベルク候の夜会で、エスレーベン嬢と踊っていらした……?」
「ええ、あなたを見て振り切られた、あの情けない男ですよ」
苦笑して言う声色に、怒りはまるでない。
やたら器がでかいのか、単に意に介していないのか。
そのどちらでもあるように思えた。
当の本人は黙ったままなので、クナウスト氏はエスレーベン嬢へと水を向けた。
「レギーナ、話したいことがあったのだろう」
瞬くのも惜しいというかのようにエスレーベン嬢はいっぱいに目を見開いていた。
引き結んだ唇を解いて、「わたくし」とか細く呟く。
「ユリアン様に、謝りたいと思って参りましたの。
わたくしこれまで、ユリアン様のことを何も考えず、わたくしの気持ちばかりを押しつけてきましたのね」
声も口調も落ち着いていて、淡々と語るその姿からは、これまでの彼女の面影はない。
「ごめんなさい」
す、と頭を下げた。
なんと返していいか分からず、ユリアンは困惑の顔でその姿を見ていた。
しばらく沈黙が落ちて、エスレーベン嬢は頭を上げてもう一度ユリアンに向き直ると、もう一度口を開いた。
「わたくし、来月結婚することになりました。
こちらのヒルデブレヒトと」
「はい、御父上から伺いました。
おめでとうございます」
ユリアンは微笑んだ。
可哀想な結婚ではないのが見て取れて、心からの祝福を述べれた。
エスレーベン嬢の瞳が少し揺れた。
「……三年前の、宮廷舞踏会で、わたくし、お披露目でした」
「そうでしたか」
「あの時、踊ってくださいましたの、ユリアン様」
「……失礼、失念しておりました」
「わたくしは忘れておりません」
いくらか息を吸って、エスレーベン嬢はゆっくりと言葉を紡いだ。
「忘れませんでした、ひと時も」
なんと言ったらよいのだろうか。
情けない顔だけはしないようにユリアンは奥歯を噛み締めた。
「わたくし、あなたをお慕いしておりましたの、ユリアン様」
真っ直ぐに目を見て言われた言葉に、ごまかすことなどできず、ユリアンはその目を見返した。
「存じ上げています」
「ご存じないはずよ」
ユリアンの返答をエスレーベン嬢はすぐさま打ち消した。
少し戸惑い、ユリアンは微かに眉を寄せる。
「わたくしがどれだけ本当にあなたを思っていたか、考えてくださったことなんて一度もないわ。
ずっと――」
「わたくし、あなたをお慕いしておりましたの、ユリアン様」
震える声でもう一度述べられた言葉に、ユリアンは静かな心で向き合った。
「お応えすることはできません」
しん、と静まり返った中、ややあってエスレーベン嬢は席を立った。
そのままその場でゆっくりと淑女の礼を取ると、彼女は声もなくすみやかに立ち去った。
クナウスト氏が後を追った。
ユリアンの傍を通る際、しっかりと目を見て「ありがとう」と彼は言った。
ひとり残された部屋で、ユリアンは椅子の上で背を崩して天井を見、大きく息を吐いた。
これできっと良いのだろう。
部屋を出る際のエスレーベン嬢の姿を思い起こす。
両手で顔を覆っていた。
きっと泣いていたのだと思う。
それでもユリアンは気持ちが晴れていた。
なぜなら、彼女にはクナウスト氏がいたから。
ラストダンスを共に踊ってくれる、相手がいたから。




