第五十八夜 それは優しくて残酷な言葉だ。
広い邸宅でマインラートと家令のヴァルターのみとなった。
最後の公判日の前の週に、ヴァルターは憔悴した面持ちでシャファト家を訪れた。自分が罪人として召喚される瞬間を誰にも見せたくないというマインラートの願いを汲んだもので、ヴァルター自身は悔し涙に咽ぶ。
おりしも雷を伴う豪雨がここ数日地域を覆っており、傘を差したとしても濡れそぼってしまったヴァルターの姿は、その心を表しているように見えた。
以前から、ユリアンはヴァルターとその後のことを話し合おうとしていた。
彼は決して首を縦に振らなかった。イルクナーが亡くなるときは、自分も辞するつもりであるとの一点張りで、どんな言葉も素通りするだけだった。
おそらく彼はなんらかの形で殉じるだろう。もしかしたら彼だけではないかもしれない。それだけは、それだけは、とユリアンは両の手を握り合わせる。もう、これ以上悲しい人を増やしたくなどない。静かに心が追い詰められていく。いったいどうすれば。尽くした手段の他に、なにをすれば。
オティーリエは微笑んでいる。彼女が求めたのは、ただ最終公判の場に立ち会うことだけだ。
自分は彼女の支えになれているだろうか。留まるための楔となれているだろうか。不安で、いつにも増して眠れない夜を迎えた。
「愛しているよ、オティーリエ」
抱きしめて、その耳にささやいた。
「わたしも」
少しだけ、彼女は泣いた。
****
翌日、家の馬車は父に譲ると言って、ユリアンは早く家を出た。
名目はなんでもいい。溜まっている仕事を週末までに片付けなければ公判に参加できないというもっともな理由をつけた。
なかなか捕まらなくて、しばらく歩いてからちょうど人が降りた辻馬車に、早口で行き先を告げて乗る。
少々荒い運転で、馬車は動き出した。
ユリアンにとって、到着するまでのその時間は永遠にも感じられるものだった。
「ここで降ろしてくれ」
御者台への連絡窓をノックしてから開き、貴族街入り口の飲食店通りでユリアンはそう言う。
相場のチップを上乗せして降りると、すぐに他の客が馬車を捕まえた。
街道沿いの店は皓々とした光に溢れていたが、豪雨の道に人の姿はほとんどない。
皆いずれかの店に逃げ込んでいるか、外に出ないようにしているのだろう。
ユリアンはすぐに裏道へと逸れて傘をさし、顔を隠しながらイルクナー家へと急いだ。
もう誰もいないそこに、マインラートだけが居る。
ケープ付きコートが雨を吸って重くなっていた。
シャファト家よりも広い庭にある、門の傍の庭師小屋。
闇が落ちてしまったイルクナーの敷地で、そこの窓にだけ小さな灯りをみとめ、ためらいなくユリアンはその扉をノックする。
返事はなかった。開くまでどれだけの時間が掛かろうとも、ユリアンはそこを離れぬつもりだった。
やがて、少しの軋みと共に少しだけ扉が開く。零れた光に向かってユリアンは「わたしだ、マインラート」と言った。
「……ユリアン?」
浮かされたような上擦った声で、マインラートはユリアンを迎え、後ろ手に扉を閉めた後にユリアンはその落ち窪んだ瞳の顔を見る。
言葉はなくて、何ということもできなくて、濡れたコートのままでユリアンは痩せてしまったマインラートの巨躯に腕を回した。
もう、涙も枯れたのかもしれない。
マインラートはただ穏やかに「ありがとう」と言った。
「君の顔を、見れて嬉しい」
その一言が重くて、ユリアンは奥歯を噛む。
「体調は、どうだ」
訊ねたいことなど他にたくさんあるのに、ユリアンの口から零れたのはその言葉だった。
「なんともないよ、元気だ」
その言葉はまるでユリアンの方が励まされているような優しい声色で、背に回した腕に、ユリアンは力を込めた。
すぐに解かなくてはならない腕に、力を込めた。
「私に関わって、良いことはないよ。ありがとう、もう十分だ。
……オティーリエを、どうか、頼む」
覚悟に濡れた声だった。
受け入れ難くて、けれど肚の底ではもうとうに承知していて、ユリアンはマインラートの広い肩に額を押し付けて歯を食いしばる。
もうどうにもならない。ユリアンは何もできなかったのだ。
この義兄を救うために、何一つできなかったのだ。
「ありがとう」
そんなユリアンの頭頂に口づけをひとつ落として、マインラートはユリアンの腕を解いた。
ふたつ年上の義兄は、まるでだだを捏ねる子をあやすような調子で言う。
「君の家に、君の生活に、帰ってくれ」
それは優しくて残酷な言葉だ。
マインラートは火の入っていない暖炉の前の椅子に歩み寄り、座った。その姿は老人のようで、かつての快活さをどこにも見い出せず、ユリアンは思わず涙ぐむ。
俯いたその額にこそ祝福と口づけを落としたいのに。
懐に手を入れて、そこに入れていた丸めた紙幣の束を、そっと床に置いた。
少し前から、考えていた。
「わたしは、独り言を言っているのだが」
ユリアンが唇を動かさずに静かに呟いた言葉は、床に落ちて部屋に広がった。
「召喚令状を……受け取る人間がいなければ、被疑者不在のまま裁判が執行される」
マインラートは顔を上げて、憔悴しきった瞳をユリアンに向けた。
ユリアンは背を向けていた。
「もし被疑者が姿をくらませて、令状を受けとらず、裁判所にも現れなければ。
そうすれば、公示送達になる。
結審しても、いずれ相応しい時が来れば再審請求だってできる、だから」
一息でユリアンは言った。
そして深く肩で息を吸ってから、吐く。
言葉は続けなかった。
――逃げろ、マインラート。
ユリアンはそのまま数歩で扉へと寄り部屋を出た。自分の無力さに視界が曇った。外は暗く土砂降りで、街道にはまるで人影はない。傘など意味もなくてユリアンはそれをそのまま手に持って歩いた。
今日ここでマインラートと会ったことは誰にも知られず終わるだろう。
それでいい。
彼が今後どうするか、ユリアンにすらわからない。
ユリアンには守らなければならないものがあった。オティーリエの顔が脳裏にちらついた。
思い浮かぶオティーリエは泣いている。
今だけだ、と雨に誤魔化して、心の中のオティーリエと共にユリアンは泣いた。
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四日後、召喚令状を持った執達吏がイルクナー家を訪れたとき、そこはもぬけの殻だった。
マインラート・イルクナーへの訴状は公示され、被疑者不在のままやがて結審する。
罪状は謀議罪。
求刑は禁錮四十年だった。




